第十話「各駅停車」
真知がアルバイトを始めたと聞いて、千里は大変驚いた様子だった。レストランのホールスタッフを二ヶ月。千里は動機を尋ねたが、真知は「お金が欲しくなったから」としか答えなかった。
このアルバイトに関して、たいした事件はなかった。それなりに新鮮な経験で、それなりに様々な人と触れ合い、それなりに苦労して、二ヶ月経った後は当初の予定通りきっちり辞めてきた。時間が有り余っている真知がアルバイトに打ち込むと、財布には見慣れない枚数の一万円札が収まるようになった。
「しかしまた、なんでバイトなんか。小遣いならやっているだろう」
真知が最後の勤めを終えた夜、父の浩史は言った。
「普通、そういうことは始める前に言うものだよね」
「別に反対していたわけじゃないからな。よりにもよって真知みたいな怠け者がどうしてそんな気を起こしたのか、単純に疑問に思っただけだ」
「ちょっと、どうでもいいことにお金を使いたくなったから」
「お前の金の使い道が、どうでもよくなかったことなんてあったか?」
「ええ、分かっていますって。毎日の生活費、学費、その他諸々、父さんが提供してくれています。本当の意味でわたしの力だけでお金を稼ぐことなんて、まだできませんよ。だから、これは気休め。それでいいじゃない。気が休まるんだから。成績が落ちたわけでもないんだし」
「別に咎めているわけじゃないと言っているだろう」
真知と浩史がそんなやり取りをしていると、母の幸子がリビングに入ってきた。小柄で、真知によく似た顔をした母。ただ性格の方は父に似たらしい、と真知は自分で思っていた。
「真知がバイトだなんて、母さんは嬉しかったわよ。いい勉強になったでしょう」
「まあ、うん……」
真知は返事を濁した。
四月の初頭。真人は大学入学を、真知は進級を控え、新しい一年が始まろうとしていた。
二年生になって間もないある日、授業を終えた真知は早々に学校を出た。
駅に着き、切符を買う。いつもは定期券を兼ねたICカードを使っているが、今日は切符だ。改札を通り、普段とは反対側のホームに降りる。
真知は遠出するとき、基本的に自転車を使う。真知の自転車での行動範囲は広く、半径二十キロ圏内ならば電車を使わないことが多い。もっとも、行き先に特に用事があるわけでもなく、時間が有り余っているからこそできることだが。しかし、一年前に道を横から眺めたときのように、電車で移動しないと見えてこない景色もある。駅から見える街は独特の秩序の中にその姿を現す。とりあえず思い付いた駅に片っ端から降り立ってみよう、というのが今回の「くだらないこと」だった。
二駅ほどが過ぎ、真知はモノレールに乗り換えた。
モノレールは街の中を縫うようにして走る。駅と駅の間の距離は短く、発車した時点で次の駅が目視できるときすらある。真知は窓から眼下に広がる街並みを眺めた。
煩雑な風景だ。真知の住む市は東西南北に伸びる大通りといくつかの大学や高校を中心に計画的に造られ、整然とした美しさをもっている。この街は違う。経済成長の中で無造作に商業施設が拡大してきたのだろう。道は曲がりくねり、統一感のない建物が立ち並び、こうして高いところから見下ろすといかにも歪に見える。そんな街だからこそモノレールが通ったのだろうか。
車両の中は空いており、照明はついておらず、空調も効いていない。四月に入ったとはいえ、日陰に入るとまだまだ寒い。真知は上着のポケットに手を突っ込んだまま座っていた。
やがて目につく建物の数は減ってゆき、大きな川が現れた。河川敷は既に背丈の高い緑の草に覆われており、川の水も勢いがよく、春の訪れを感じさせる。
川を越えるといよいよ丘陵地の間を縫って進む形となった。ビルどころか住宅もあまり見当たらない。やたら大きな道路を通る車は少なく、歩く人の姿はない。山の緑とコンクリートの灰色がミスマッチで、どこか寂しげな情景だ。
遠くの街並みが足元に見えるほどには標高も高くなったところで真知はモノレールを降りた。見回してみたが、駅のホームには真知しかいなかった。自分の靴音が意識されるほどの静寂。日は傾き始め、景色はオレンジ調に変わりつつある。
真知は特にあてもなく歩き始めた。
先ほどまでは寒いと感じていたが、しばらく歩くと汗が出てきた。真知は上着を脱いで鞄の中に仕舞った。
恐ろしいほどに誰もいなかった。辺りは薄暗くなり、真知は次第に心細さを感じ始めた。何かに駆り立てられるように足早に進む。
景色は単調だった。車の通らない車道と、人の通らない歩道と、山崩れ防止のコンクリートがあるのみ。あの空の表情も、今日はどこかつまらなく見えた。
今まで自転車で様々な場所を訪れたが、思えばこのような人気のないところには来たことがなかった。無意識に人の気配がする方への道を選んでいたのだろう。しかし今回のように電車やモノレールを使うと、気が付けば周囲に誰もいなかった、などという状況が生まれる。
歩いていて、楽しくない、と思うばかりか、ちょっとした焦燥と恐怖心すら覚えた。
真知にはもはや、ふらふらと無作為に道を選ぶ余裕などなかった。帰りたいという思いが募った。ついに我慢が効かなくなり、鞄から携帯電話を取り出した。便利な道具だ。地図を呼び出せるだけでなく、自分の現在位置や目的地までの最短ルートも分かる。幸い圏外ではなく、真知は地図上に己の位置を確認した。この機能があれば電波が届く場所で道に迷うことはまずない。しかし、この地図というものは暴力的だ。見た瞬間に土地は線引きされる。これまで自分の視界を遮っていた濃霧は吹き飛ばされ、抽象化された単純な空間が広がる。もともと計画的な散歩ならともかく、その場で進むべき道を決定する真知の旅においてこれを使っては面白さも何もあったものではない。だからできるだけ使用したくなかった。
真知は目的地を最寄りの駅に定めた。先ほど下りた駅から三つほど戻ったところのようだ。
街灯が光り始める頃、真知は螺旋に近い形をした下り坂に至った。山を下る為に造られた人工的な道のようで、何本もの大きな柱に支えられており、巨大なスロープのようで、頭上には山肌から飛び出してきた木の枝が緑色のトンネルを形成していた。
坂に足を踏み入れると、真知は急に気温が下がったのを感じた。緑のトンネルの影響だろうか。肌寒くなり、鞄から上着を再び取り出して羽織った。坂の傾斜はそれなりに急で、足を送り出す度に膝に衝撃が加わった。経験上、上りよりも下りの坂の方が確実に脚にダメージを与えてくると真知は感じていた。
坂を下り切ると大きな橋が見えた。先ほどモノレールで渡ってきた川のようだった。真知は地図に導かれるままに足を進めた。
結局、真知が駅に辿り着く頃には日が暮れていた。
真知はモノレールに乗ると座席に全体重を預けた。確かに脚も痛くなっていたが、これよりも長く歩いたことなどいくらでもあった。疲労は専ら精神的なものだろう。人のいないところを歩くのは心細かったし、何より地図を使ってしまったのが致命的だった。あの携帯電話の使用によって今回の旅は本当の意味でくだらなくなってしまった。何の感動も発見できないまま帰路につく、それだけで真知の心は薄暗くなった。
しばらくすると車内は混雑した。往路の空きっぷりが嘘のように車内は人で埋め尽くされ、暑さを感じた真知は上着を脱ぎたくなったが、両隣の座席も埋まっており、この混みようでは身動きが取れなかった。
真知は観念して目を閉じ、降りるべき駅に着くのを待った。




