第九話「破壊」
「確かに将から度々相談を受けていたよ。ごめんね。あたしが真知に隠している数少ないことのひとつだった」
電話の向こうの声が告げた。
真知は将からの『告白』を受けた夜、千里の携帯電話に掛けた。普段は連絡にほとんど電話を使わない真知としては珍しいことだった。
「あいつの望みは、真知に『告白』して二人の関係にけじめをつけることだって言っていた。そもそも付き合うことなんて期待していない。まあ、あわよくば、がなかったとは言い切れないけどね。とにかく、そんな深刻な話じゃない。真知がそう言ったのなら、明日からまた昨日までと同じように接してやればいい。それが将に示せる精一杯の誠意だと思う」
千里の言う通りだな、と思った。恐らく、将にとって真知に恋心を抱いてしまったことは間違いのようなもので、彼は今まで自分自身の心と戦い続けてきたのだ。真知を含め、周囲にできることは限られている。
真知は電話を切るとベッドに身を投げた。ぼうっと天井を眺める。
しかしこうも将を見る眼が変わらないものか、と思う。千里によると、それなりに親しい相手ならば、「告白」されたことをきっかけとして、恋愛対象として改めて意識するという話はよくあるのだという。真知は将に対して十分な好意を抱いていると自覚していた。しかし、将と遭っても心臓は高鳴らない。手足は痺れない。頬は紅潮しない。ただ、安らぐのみだ。将でこれならば、自分にはそもそも恋愛感情というものが備わっていないのでは、などという気もしてくる。いや、むしろ将だからこそ、なのかもしれない。
明かりを消し、目を閉じても、明日の情景を想像してしまう。登校途中に遭ったらどうしよう。廊下ですれ違ったら? 今まで通り、と言うが、今まで通りとは何だ?
やがて、明日のことを考えてもどうしようもないと知り、中学校時代の三年間を何度も頭の中で繰り返した。
その夜は眠れなかった。
翌日の昼休み、真知は千里と並んで屋上のベンチに座っていた。
「マサくんは何か言ってた?」
真知が詰め寄るように尋ねると、千里は意外そうな顔をした。
「どうかした?」
「いや、真知ってそんなこと訊くような子だったっけ、って思って」
真知には千里の言う意味が分からなかった。千里もそれを察したようで、続けた。
「将は今まで秘密に相談をしていたわけでしょ。二人があたしに話したことを、あたしがそれぞれに伝え続けたら、ちょっとおかしなことになると思わない? あたしを通して本音を伝え合うみたいになっちゃって」
「そんなこと、どうでもいい。わたしはマサくんの本当の気持ちだけが知りたい」
真知は必死の形相を浮かべた。千里は少し驚いたようだったが、やがて、やれやれ、とでも言いたげに笑った。
「まあ、言ってみただけだよ。あたしもそんなに口うるさい方じゃないし。分かってるとは思うけど、あたしに話したことが全部あいつの本音とは限らないよ?」
「いいから、教えて」
「……昨日、真知からの電話の後、将からも電話があったよ。『告白』の結果は報告するって前から言っていたからね。『告白』して良かった、って。真知は本当に優しかった。こんなに素晴らしい人を好きになった、そのことが誇らしいって」
真知はそれを聞いてひとつ息をついた。とりあえずのところ、将の想いを傷つけないことには成功したらしい。しかしそう思う一方で、一抹の不安が胸の内をかすめた。洋平に「告白」した後の千里も似たようなことを言っていた気がしたから。
話を終えた二人は教室に帰ることにしたが、千里は職員室に用があるとかで途中で道が分かれた。屋上からの帰りには、普段あまり使わない、人気のない階段を上る必要があった。
足音を聞くだけでその主を特定するなどということは、普通の人間には不可能だろう。真知にも当然そんな能力はない。だが、このときばかりは、何か直感めいたものがはたらいた。足音が幾重にも反射して階段を下りてくる。これからすれ違う人間の顔が、具体的なイメージとなって映し出された。
一瞬、夢を見た。真知は顔を上げてその男の顔を見ると、自然な笑顔を浮かべてこう言う。「やあ、マサくん」と。彼も、無愛想ながらも優しい表情で応える。
続いて現実の映像が眼に飛び込んできた。少年は虚ろな面持ちで、この場には自分以外誰もいないとでもいうかのように、無感動に足を動かし、その瞳に映った真知の姿に対して積極的な無関心を向けていた。
壊れたビデオのように、場面が飛んだと感じた。次に真知が見たのは階段を上り切った先の廊下だった。正面には誰もいなかった。足音は頭の後ろ側で響き、遠ざかっていった。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り、真知は自分がしばらくその場に立ち尽くしていたことに気が付いた。
その日から冬休みが始まるまでの間に、将とすれ違う機会は何度かあった。しかしただの一度も二人の視線が交わったことはなかった。
冬休み中は夏休みとは違い、文化祭のような行事はないので、真知のように部活動に所属していない者には登校する理由がなかった。早々に学校の課題を終えた真知は、年明け以降、特に何をするということもなく、リビングのソファーに掛けていることが多かった。
「まただらけてんのか。部活もやってないなら、散歩くらい行ったらどうだ」
兄の真人が声を掛けてきた。大柄な部類に入る父の浩史よりも既に背が高く、顔立ちは真知とはまるで似ていない。
「余計なお世話。それに、二週間後にセンター試験控えてるくせに彼女さんと初詣行ってたような人に言われたくない」
「そういう悪態は、彼氏の一人でも作ってからつけよ」
「うるさい」
自分でも、兄とは仲が良くない方だと真知は思っていた。真人は真知とは正反対の性格をしている。しかも、性格が違うなら違うなりに真知を尊重するということもしない。むしろ見下してさえいるようだ。そんな真人の方から、友好的な態度ではないとはいえ、真知に話しかけてくるのは珍しいことだった。
「最近恋愛絡みで何かあっただろ」
真知は動揺が表情に出るのを辛うじて抑えた。
「俺くらいになると、様子見てりゃ分かる。お前の性格からして自分からってことはないだろうから、誰かにコクられたな? あれか。中学んときよく遊んでた……」
「適当なこと言わないで。今、疲れているの。さっさとどっか行って」
「はいはい。ったく、人が珍しく心配してやってるっつーのに」
真人は自分の部屋へと消えていった。
こういうときの真人の鋭さには昔から驚かされるものがあった。恐らく、相手が将であるということまで見抜いている。
ふと、真知の脳裏をある考えがよぎったが、すぐにそれをかき消した。家族に相談をするなんて気恥ずかしすぎる。それが真人であれば尚更だ。しかし、考えてみればこの状況で真人ほど頼りになる人間もいない。自分より二年ばかり長く生きており、恋愛に関しては経験豊富で、何より男性だ。千里や自分では思いつかないようなことを言ってくれるかもしれない。
結局真知が真人に相談を持ちかける気になったのは、その二日後のことだった。夕食後、真知は真人の部屋の扉を叩いた。数年ぶりに入る兄の部屋は意外と片付いていた。
「知り合いの女の子が、ある男の子から『告白』されたんだけど」
真知がそう始めると、真人はおかしそうに笑った。真知は非難するような視線を真人に送った。
「分かった、分かった。知り合いの女の子な。続けて」
「女の子は男の子のことを友だちとしてはすごく好きで、だからなるべく傷つけないようにお断りしたんだ。そして、これからも友だちでいようと言って、男の子もそれを喜んだ。なのに、それから二人はやっぱり気まずくなっちゃって、会話もできなくなって……。女の子はそれですごく悩んでいたんだけど」
「その子がどんな奴か知らねーけど、『傷つけないようにお断り』って何だ? 俺には意味が分からないんだけど」
「恋人としてお付き合いはできないけど、友だちとしてはすごく大切。そんなこと、よくあるでしょ」
「いや、コクってきてる時点で男の方はそんな優しさ求めてないって。同情するならなんとかっていうか、断ってるんだから後はもう何言ったって一緒だろ。そうやって曖昧な感じで振られたら、そりゃウジウジするよ」
「じゃあ、『告白』があった時点で、元の関係には戻れないってこと?」
「そうは言わないけど、その女の子、自分の立場が分かってんのか? 振ってるんだぜ? それだけで十分男を傷つけてるわけだ。お付き合いはできないけどわたしのこと嫌いにならないでね、って虫が良すぎるだろ」
「……女の子は、これからどうすればいいと思う?」
「どうって、好きにすればいいさ。ただ、傷つけたくないだとか、嫌われたくないだとかは思わない方がいいだろうな。あと、変な振り方されると片想いこじらせるやつもいるから、その男、当分女の子のこと忘れられないかもしれない」
「そう。参考にはさせてもらったよ。えっと……、ありがとう」
真知はそう言いながら、逃げるように部屋を去ろうとした。
「それにしても、コクってくれる奴がいるなんて、良かったじゃん。真知」
「だから、わたしの話じゃないって!」
確かに、今まで考えたこともなかったような考えは聞けた。しかし、それは単に的外れなのだと思った。詳細まではっきりと伝えなかったせいもあるだろうが、真人は真知と将の関係を全く理解していない。これは真人が経験してきたような恋愛ではない。もっと特別な何かだ。
やがて短い休みが明けたが、状況は変わっていなかった。同じ学校に通っている生徒同士、廊下を歩けばすれ違うこともある。それでもただ一つの言葉すら交わされない。
ふと、真人の言っていたことを思い出した。あの「告白」以後も、将が真知のことを忘れることができなかったら? 真知のことでずっと思い悩んでいくとしたら? そのとき、将を救えるのは真知だけかもしれない。一方で、将はもう真知とは関わりたくないのかもしれない。自分の過去における厄介な障害として疎んでいるのかもしれない。そうだとしたら、真知に話しかけられることは将にとって迷惑以外の何物でもない。
もはや真知にはどうすることもできない。これでは、絶交したようなものだ。二人の関係はただ一つの「告白」をもって破壊されてしまった。
真知は心が色褪せていくのを感じた。




