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蒼葬

作者: 凍原匙子

「私、もうじき帰らなきゃならないんだわ」


 それはある夏の日のこと。

 僕は学校の帰りに紗智の病室に立ち寄った。週に数回、もう何年も繰り返されてきた習慣。持って行くのは彼女が好みそうな本に、“外の世界”の話を幾つか。それから月に一度は、お菓子を少々。お気に入りはプラリネチョコレート。ほんのそれだけの貢物で、姫君は満足し僕を喜んで迎えてくれた。

 シンデレラか、かぐや姫か――彼女が「帰らなければ」と言った時、僕はそう考えた。空想を愛する彼女は御伽噺の姫君たちを愛し、そして自身もまた姫君だった。姫君である他になかった、と言うべきだろうか。彼女は病によって、幼少の頃からあまりにも小さな世界で生きることを強いられてきた。故に彼女は、空想を拠り所とすることで、退屈と虚無によって緩やかに縊り殺される運命から逃れようとしたのだろう、と思う。

 彼女が膝の上に置いた皿には、綺麗に等分された林檎。白雪姫は素知らぬ顔で一口齧り、甘いわ、と呟く。

「冥界の果実よ。如何?」

「それって、柘榴じゃなくて?」

「林檎だって同じよ。私が齧ったんだもの」

 彼女のあまり洒落にならない冗談には馴れっこだったので、僕は自然に笑ってみせることが出来た。伸ばされたか細く白い手からフォークを受け取る。口にした果実は確かに甘い。

 妹から借りてきた本と母のお勧めのマカロンは彼女のお気に召したようだった。けれど何より、彼女は僕が話す“外の世界”――病院の外での出来事の話が一番のお気に入りだった。試験で赤点を取ったとか、友達と何処に遊びに行ったとか、そういう些細な出来事でさえ彼女にとっては愉快な“物語”だった。

 だが今日は珍しく、僕の物語を聞くより先に話したいことがあるようだった。

「その少女はね、海から生まれて海に還ってゆくのよ」

 ああ、それで、還らなければならないのか。

「王子様は彼女と恋に落ちるのだけれど、やがてその時がやってくるの。海に還った少女は王子様に煌めく宝石のような貝殻を残していったわ。二人の恋が本当だった証に。けれど王子様は『こんなものが欲しかったんじゃない』と嘆くのよ」

 有り触れた生と死の物語だ、と思った。その王子が特別に憐れなのではない。御伽噺の形をとって語られているのは、誰にも訪れる永訣だ。だからこそ彼女は気に入ったのだと思う。

 彼女が物語を通して見ているのは、あまりに身近で残酷な現実だ。

「だから私」

「海に行きたいんだね」

「……そうよ。ちょうどここから近いしね。連れて行ってくれる?」

 捉え所のない少女――僕に限らず、彼女と対面した人間は概ねそう評した。飾り付けられた言葉は容易く本心を曝してはくれない。けれど掬い取ろうとした指の間から零れ落ちてなお、彼女が言葉の中に隠した真実は確かにその感触を残していくことに僕は気づいていた。

 彼女は微笑んでいた。そして、死に往こうとしていた。

 常に死を臨み続けてきた彼女にとっても、その覚悟は容易いものではなかったと思う。自身の死など想像したことのない僕には尚更、重い。彼女を引き留めたいという思いに反して、僕は覚悟を迫られていた。その残酷さを彼女は自覚しているのだろうか。

「あなたと、海に行きたいのよ」


 病院近くの砂浜は、夏になれば海水浴に訪れる人々でそれなりに賑わう。しかし 夜はその影も消え、波音だけが寂しく響いている。

 我が物顔の人魚姫は自慢の脚で波打ち際を闊歩する。堂々たる行進、くるりと回って、軽やかなスキップ。

 彼女が真夜中の砂浜を歩く許可は、思っていたよりもずっと簡単に得ることが出来た。誰だって死に掛けの病人には寛容よ、と紗智は笑う。実際、そういうことなのかもしれない。

 長らく自信を蝕み続けた病によって命さえ奪い去られようとしている今なお、彼女の歩みは活き活きと滑らかで軽い。あるいは逆に、死によって齎される病からの解放がそうさせているのか。何処にも行けなかった彼女は、今や何処にでも行けるのかもしれない。姫君であることも、僕の物語も御伽噺も必要なく、紗智という少女自身の足によって。

 王子は少女の死を嘆いた。海に還って往った少女は、あんなふうに笑っていたのだろうか。

 足元の砂に視線を落としたまま歩いていると、少し先を歩いていた筈の紗智に躓きかけてどきりとする。彼女は疲れたのか、波打ち際に座り込んでいた。押し寄せた波に爪先を濡らされた靴を脱ぐと、海に向かって放り投げてしまう。

 僕も彼女を真似て隣に腰を落とす。脱いだ靴は、揃えて傍らに置いた。

 それからしばらく、僕も紗智も黙ったままでいた。彼女は僕がいる時でも時々本を読み耽ったし、一方僕は宿題のノートを開いたりと、そういう気まぐれな沈黙が訪れるのは珍しいことではなかった。緩やかに寄せて返す波音も、沈黙を心地良く彩ってくれるはずだった。

 二人の間に流れる穏やかな沈黙は、遠からず永遠の沈黙に変わるのだろう。僕たちに残された言葉は、多分あまり多くない。そして僕は、彼女に告げるべき別れの言葉を知らなかった。

 結局のところ、何処にも行けないのは僕の方だったのだ。物語という翼によって、彼女は最初から何処にでもいけたのだ。けれど僕は彼女に出会ってからずっと、彼女のための語り手だった。彼女を失えば、自身の有るべき場所さえも失われている。彼女との別れは、自身との決別をも意味していた。それが、僕には恐ろしかった。

「紗智は、御伽噺を信じる?」

 それは、僕が初めて彼女に出会った時に投げかけた問いだった。あの時彼女はこう答えたのだった。

「信じるわ。だって私、御伽噺のお姫様だもの」

 それは儚げで美しく、それでいて堂々とした姫君の姿だった。あれからずっと僕の心に燦然と咲き続ける、気高き姫君。

 だから僕は、もう一度問うた。出会いの日の言葉を、別れの言葉に代えて。

「紗智は、御伽噺を信じる?」

「そうね。――信じてなんかいないわ」

 あの日と変わらぬ姫君の姿で、彼女は言い放った。面食らった僕に、彼女は悪戯っぽく笑ってみせる。

「御伽噺はね、信じるものじゃないの。――本当にするものよ」

 暖かな掌が、僕の手に重ねられる。紗智は僕の方に体を寄せると、僕の肩にそっと凭れかかった。

 波音と、少しだけ早まった僕の鼓動が、互いに規則的に鳴り続けていた。その音にかき消され、紗智の鼓動は聞こえない。それでも確かに、僕は彼女の指先に流れる暖かさを感じていた。彼女も同じように感じているのだろうか。

 僕たちはそこで、生きていた。2人きりで、生きていた。


 眠りに落ちた記憶も、目覚めていた記憶もなく、けれど夜は僕の知らないうちに明けていた。

 傍らに紗智がいないことに、僕はあまり驚かなかった。彼女は1人で、海に還ってしまったのだろう。僕は1人で取り残されてしまった。行き場を失くした僕は行く当てもなく何処かへ行こうとして――その存在に気付く。

 それは、貝殻だった。煌めく宝石、と称するにはあまりにも味気のないくすんだ白色の巻貝は彼女の小さな掌よりなお小さく、僕の手の中に容易く収まっていた。手の中で転がして見ても、やはり何の変哲もない貝殻だ――彼女がここにいた証は。

 掌の中の貝殻に頬を寄せる。冷たさの中に残る温もり。ざあざあと、ノイズのようなざわめき。どこか懐かしいその音を耳元に押し当てれば、それは波の音だった。

 低く、静かに鳴る波の音。僕の頭の中を海で満たしていくその音に僕は聞き入っていた。彼女が残していった音。それは重なる手の温もり、頬に触れた長い黒髪の柔らかさ、二人で寄り添い合った永遠のような刻の記憶。それは僕と彼女が“本当”だった証。

 僕と紗智が2人で聞いた、波の音だ。

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして こんばんは 一貫した雰囲気がまとまりを良くしている作品ですね。 ヒロインの呼び方を場面に応じて変える等、表現もしっかりと吟味されていたと思います。 ほんの少しですが、タイト…
2015/04/08 01:27 退会済み
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