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この話は2013年3月17日に投稿したものに加筆、修正を加え、上げ直したものです。
その日、私はいつもの様に家を出た。
いつもの様に娘に朝食を作り、二人分の洋服にアイロンを掛け、長い髪を後ろにまとめて。
ひと月前、夫との離婚をきっかけに、今年で12歳になる娘の弥生を連れてこの田舎街に引っ越してきた。
弥生とは血の繋がりはない。
このことを他の誰かに説明する必要はないと思う。それは私と弥生が知っていれば、それで十分だ。
「今日もまた遅いの?」
背の低い弥生が下から私を覗きこんだ。その日に限って、とても寂しそうな目をしていた。
私が目を合わせると、その目を誤魔化すように斜め下へと目線を落とした。
「さあ、どうだろうねえ…… でも、きっと昨日より早く帰れるよ」
私はいつもこんな曖昧な返事しかできなかった。
もう2週間以上、弥生を外に連れ出していない。これは、子供にとってはかなりの苦痛だろう。
今では死ぬほど後悔している。
せめて、もっとあの子のための洋服や、ちょっとした小物でもいいから買い与えてやるべきだった。
いつも自分のことで頭がいっぱいだった。そんな私に対して、弥生は文句の一つもこぼさず、ただ一人、いつも私が仕事から帰るのを待っていた。
私があの子を早く大人にしてしまったのかもしれない。
「それじゃあ、今日もお風呂掃除、よろしくね」
「うん、わかった」
弥生は斜め下を向いたまま、小さく頷いた。
この時私は「ごめんね」と言おうとしたが、いつもの様に「行ってくるね」と言って家を出た。
職場に行く途中、駅前の小さな洋菓子店が目に止まった。
こんな店、こんなところにあっただろうかと小さく首を傾げながらも、ふと私は思った。
そう言えば、21日は弥生の誕生日だ。
今日は17日。4日ほど早いが、きっと当日は弥生は家にいないだろう。小学生としての最後の誕生日だ。友達の家で祝いたいに違いない。それに明日の18日はこの店の定休日のようだし、20日は春分の日で店はやっていないだろう。
今日の帰りにケーキでも買って帰ろう。閉店時間は8時だから、うん、急げば間に合う。
そう思い、私は職場へと向かった。
帰り道、私はあの洋菓子店へと急いだ。
すぐそこに駅の明かりがぼんやりと見えた。これなら余裕で間に合と思った。
人通りの極端に少ない道路を横切ろうとした時、闇の中から突然バイクが姿を現した。
「うわっ!」
ほんの一瞬、目の前が霞んだ。走馬灯を見る暇もなかったと思う。
間一髪、私はなんとかそれを躱した。
こんな暗い中でライトも点けずに、あんなにスピードを出すだなんて、一体何を考えてるんだと心の中で怒りながら、私は店へと急いだ。本当は追いかけて直接本人に何か言ってやりたかったが、そんなことなどできるはずもなかった。
「まあ、どうせあんなの相手にしたって……」
一人でそんなことを呟いているうちに、気がつくと洋菓子店の前まで来ていた。
「あれ、こんなに近かったっけ?」
なんとなく違和感はあったが、気にせず私は中へ入ろうとした。しかし――
「あれ……?」
店の自動ドアが開いてくれない。
「壊れてるの?」
確かに店はやっているのに、自動ドアが一ミリも開かない。
「あの、すみません! ドアが反応しないのですが!」
そう言って軽くドアを叩いてみる。悴んでいるのか、指の感覚が曖昧な気がした。
だが、中にいる定員も客も全くこちらを見ようとしない。まるで私が見えていないかのように。
「すみませーん!」
やはり、誰も見ない。少し恥ずかしくなって何歩かドアから遠ざかった時、背後から女性がやって来て、何食わぬ顔で店の中へ入っていった。当たり前のように自動ドアは開き、私はひどく動揺した。こんな考えはあまりにも馬鹿げているが、この時の私に迷いはなかった。
――まさか……
私は覚悟を決めて自動ドアへと激突した。
難なく中へ入ることができたことに絶望した。中の人間には私が見えていないようだ。
――となると私は……
そう考えた瞬間、私の全身にどっと重たい恐怖が乗しかかった。
熱く火照った血液が、体中を物凄いスピードで駆け巡り、心臓は今までにないくらい脈打った。ちょっとでも口を開けば、心臓を吐き出してしまいそうだった。
そんなもの、もうありはしないのに。
近くで救急車のサイレンが鳴っていた。
「戻らなきゃ!」
私は一目散にさっきの場所へと走った。走りながら、色々なことを考えた。
これは夢だと思ってみたり、単なる疲れのせいだと思ってみたり。もし夢だとしたらどんなに良かったか。
その場所にはパトカーと救急車が止まっていた。路面にはおびただしい鮮血と、私の体が転がっていた。とてもそれが自分だとは思えなかった。
違う。こんなの、現実じゃない。
こんなの夢に決まってる。あんなの、私じゃない。
私は頭を抱えてその場に座り込んだ。できることなら何も考えたくなかったし、まず目の前にあるものを受け入れたくなかった。
「こんなの嘘だ」
何度も何度も繰り返し自分に言い聞かせた。
だがなにも変わらなかった。
本当はちゃんとわかっていた。これが夢ではなく現実であるということを。
夢なんかじゃないんだ。
私は恐る恐る顔を上げ、救急車で運ばれて行く私の体を見送った。
これからどうしよう。そんなことを思いながらなんとなくそらした目線の先に、1人の青年が蹲っていた。
「あんただったの、さっきのは」
近くまで近寄って話しかけてみても、やはり青年に私の声は届かなかった。
青年は膝を抱えて泣いているようだった。
「泣かないでよ。私が悪者みたいじゃない」
それでも青年は泣くのをやめなかった。
「一番泣きたいのはこっちなのに……あんな酷い顔じゃ、娘にだって見せられない。それに、ケーキも買ってあげられなかった。なにもあんただけが悪いだなんて言わないよ。でも私はこれから一体どうすればいいの」
私は青年に向かって力一杯叫んだ。無駄なことくらいわかっていたが、どうしても我慢できなかった。
しばらくその場につっ立っていると、青年は警官に連れられて行ってしまった。