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それからというもの、彼は何かの箍が外れたように一方的に喋っていた。
ちゃんと聞いていたはずなのに、今となっては彼が何について話していたのかどういうわけか、よく思い出せないのが残念だ。
「一方的に喋ってしまいすみませんね」
彼は言った。気がつくと、辺りは薄暗くなりかけていた。
「お互い、そろそろ戻ったほうが良さそう……」
正直戻りたくはなかったが、私は自分の部屋に戻ることにした。
私にも向き合わなければならない現実があるからだ。彼の現実に比べれば、とるに足らないようなくだらない現実が。
それに、長い時間離れることは危険だ。ここで帰らなければ。
「そうですね」
彼は静かにそう言ってその場を立ち去ろうとした。
「なんだったらまた来ますけど!」
知らず知らずの間に私はそう叫んでいた。だが、彼に聞こえていたかどうかはわからない。
私は静かに目を閉じ、自分の現実へと戻った。
目を覚ますと、既に日付は変わっていた。私はかなり焦ったが、携帯電話のカレンダーの『土』という文字を見てホッと胸をなで下ろした。
「レポートやろう」
私は机に座って自分がやるべき作業に取り掛かった。
だが、全くはかどらなかった。
それから幾日が過ぎた。
あれから色々と忙しく、例の彼には会っていなかった。
だがある日、私はいてもたってもいられなくなって再び彼の元を尋ねた。
しかしあの時と同じ場所に行くことが思いのほか困難でかなり苦労した。やっとのことであの時と同じ場所へたどり着いた時には、辺りはすっかり薄暗くなっていた。
また、あの壁の下に行けば会えるだろうか。彼は生きているのだろうか。
私はあの時と同じ壁の下にやってきた。
上を見上げてみると、自分の真上に何者かの影が見えた。
あれは……
「そこで何してる」
私が声をかけるよりも先に答えは返ってきた。
彼ではなかった。
彼はそんな高い声ではない。
「なんだお前、迷ったか? それともコソコソそのへんをうろつき回ってる盗人か? ……まあ、おそらく後者だろうな」
「違います。そんなこと、どうして言い切れるんです?」
私はむっとして言った。
「見ればわかる」
彼女はからかうように言った。
自然と私の拳に力が入る。
「何日か前、ここにいた男の人を知りませんか?」
私は怒りを必死でこらえながら彼女に言った。
「何日か前っていつよ?」
「戦争に行く前日です」
私がそう言うと彼女は暫く考えるようなポーズをとった。そしてハッとしたように手を叩いた。
「ああ、■■のこと?」
ここで私は彼の名前を知らないことを思い出した。そして今もその名前はよく思い出せない。
しかしその時の私には、それが彼の名前で間違いないとわかった。
「そうです。彼がどうなったかご存知ですか?」
私がそう言うと、彼女はまたしばらく黙り込んだ。こちらから彼女の顔はよく見えなかったが、その影はどこか悲しげに見えた。
「死んだよ」
彼女は言った。
私はそこまで驚くわけでもなく、泣き出すわけでもなく、ただその場にぼうっとつっ立っていた。
「不思議なもんだわ」
彼女は続けた。
「あの日の彼はいつもと全然違ったのよ。……多分、死のすぐ近くにいる人間ってそこらの普通に生きてる人間よりも何かの輝きがますんだと思う。とにかく全然違っていたし」
彼女がそう言った時、私はふと思った。
私がやけに彼に興味を抱いたのはそういうことだったのかと。
私は決して彼自身に興味があったわけではなかったのではないか。死の瀬戸際に生きている人間特有の『何か』に引き寄せられていただけなのではないか。
でなければ会って一分も経たない顔もはっきりしない相手にあそこまで執着するなんてことはありえないだろう。
もしこれらが本当ならば、私は最低なのではなかろうか。
「本当はね、あんたがここに来ることはわかってた」
彼女は静かに言ってその場を立ち去ろうとした。「■■が教えてくれたの。いつになるかはわからないけれど、この場所にあなたが訪ねてくるかもしれないと言い残して」
私は何も言わなかった。
何も言わず、そのまま回れ右をして自分の現実世界へと帰っていった。
「……アヴァランシェ、これで話は終わりだよ」
私が自室で育てている観葉植物のサボテンにそう言いかけた時、あることに気がついた。
花が、いつの間にか花が咲いていたのだ。
私はどう反応して良いものやらと頭を悩ませた。その花は店の定員が言っていたような、真っ白な花ではなかったのだ。
「赤だ」