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幼い頃から、私は色々な世界を渡り歩くことができた。
いつからこんなことができるようになったのかはわからない。だが一つだけ言えるのは、私の住む世界と切り離されたいくつもの『謎の空間』が確かに存在しているということだ。
ある時は私以外誰もいない静まり返った世界。またある時は海底都市のような青々とした世界などと実に多種多様だ。
「おはようアヴァランシェ」
私は言った。アヴァランシェとは、私が自室においているサボテンの名前である。真っ白なが咲くというので適当に名づけてみた。雪崩という意味だ。
私が日常的に平行世界とも呼べる謎空間を闊歩しているだなんてことは、口が裂けても家族や友達には言えない。と言っても、一人暮らしだから身近に話し相手もいないのだが。だから私は謎空間に関係する話はすべてこの唯一のルームメイトであるこのサボテンに聞かせているのである。
今日も私は唯一の話し相手、アヴァランシェに少量の水をやる。サボテンにはそんなに水をやる必要なんてないのだが、水を浴びているアヴァランシェはどこか嬉しそうに見える。私の頭がおかしいのだろうか。
《いつもありがとう、透可》
透可とは私の名前である。そしてその名前を今私の脳内に響かせてきたのは……
《水浴びは大好き》
なんてこった。このサボテン、ついに人語を解するようになってしまった。
私がひたすら話を聞かせていたばっかりに。
「女の子だったのアヴァランシェ……」
こんな時は驚いていることを得体の知れない相手に悟られてはいけない。 まあ、こんなこともあるだろうと受け流すのが一番良い。
彼女は言った。
《今日はお話してくれないの? 学校はお休みなのでしょう? 私、あなたのお話を生きる楽しみにしているの。もう少しで花も咲かせられるかもしれないわ》
普通の人間ならば、こんな突如人語を匠に操りだしたサボテンなんて、「気色悪い!」と叫びながら窓の外から投げ捨ててしまうことだろう。
だが、私はどうしても彼女の咲かせる花とやらを見てみたかった。
本当に白い花が咲くのだろうか?
だから私は彼女の望み通りに話してやることにしたのだ。
ついこの間、不思議な世界で出会った彼のことを。
あの時私は、大学のレポートを片付けるために図書館に来ていた。
しかしレポートはなかなか進まず、私は「ああ!」とかすれた声をあげて机に突っ伏した。
目から熱いものがこぼれ落ちる。
「終わらない終わらない」
そんなことを念仏でも唱えるかのように何度も繰り返していると、隣にいた友人に睨まれた。
「……仕方ない」
私は現実逃避をすることに決めた。この世界から一時的に脱出するのだ。
私は荷物をまとめて図書館をあとにした。
家に帰った私はベッドに腰掛け意識を集中させた。すると、やがて自分の瞼の裏の血管のようなものが、まるで顕微鏡で見た微生物のように蠢いているのが見え始める。
そしてその蠢く無数の血管の向こうに、一点の光が見え始めるのだ。
私は意識を集中させたまま、その光めがけて真っ直ぐに走る。
体全体がその光に吸い込まれたかと思うと、もうそこは既に別世界である。
一面に広がる砂漠のような大地、それなのに見覚えのない植物が元気そうに赤い花を咲かせていた。因みにそこにサボテンらしき植物は全く見当たらなかった。
今回はこんなところか。
そう私は思った。あの光によって飛ばされる世界はランダムで、自分では決めることができないのだ。
私はそのまま真っ直ぐ歩き始めた。前方に、何か防波堤のような、壁のようなものが見えた。おそらくこの世界の都市だろう。私はそう確信した。
近くまで寄ってみると、予想よりもやや高い町全体を囲む壁であることがわかった。
「これ入れるかな?」
私は壁伝いに進んで行き、中に入れそうな場所を探した。
「誰だ、そこで何をしている」
突然頭上から芯のある低い声が降って来たのだ。私はびっくりして思わず「ひょっ!」と間抜けな声を上げて飛び上がってしまった。
まさか壁の上に人がいるとは。
「砂漠で迷いましたか。それとも何か言えない事情ですか」
声が尚も話を続けるので、私は思いっきって上を見上げた。
壁の上にいたのは焦げ茶色の髪をした険しい顔付きの十代くらいの......いや、二十代......いやいやまさかの三十代......
この距離から見た顔だけでは年齢は推測できないが、とにかく性別は男で険しい顔付きであることだけはわかった。
落ち着きのある声の割には、まるで機嫌を損ねたミミズクのような鋭い顔をしている。
......正直、この時点で私はどういう訳か彼にただならぬ興味と好意を寄せていた。
「うーん、門番か、それとも若い軍人か」
私はぽつりと呟いた。
「は?」
すかさず彼が反応する。どうやら彼は地獄耳で、私の呟きはばっちり耳に入ったらしい。
それならばと私は彼に尋ねた。
「あなたは門番さんですか? それとも」
「いや、ついこの間配属された軍人ですよ。ところでそう言うあなたは」
意外と返事はすぐに返ってきた。やっぱりなと私は思った。格好もなんとなくそれっぽい。
「そう言うあなたは何をしに? どうもテロ攻撃を仕掛けに来た人には見えませんが」
「そんなこと、どうして言い切れるんです?」
「大体、見ればわかるものです」
「へえ……私はたまたまここら辺を通りかかっただけですよ。知らない町を見つけたんで、ちょっと寄ってみようかと」
「なるほど……その様子だと嘘ではないですね」
「そんなこと、どうして言い切れるんです?」
「見ればわるものです」
どうやら彼は耳ばかりでなく目の方もかなり良いようだった。
私は彼に壁の上から降りてきて欲しかったのだが、彼は壁の上にどっしりと腰を下ろしたまま微動だにしない。
そしてこう言った。
「しかし、今日はあなたを町の中に入れることはできません。残念なことに」
「どうして?」
私は少しばかり食いつくように尋ねた。
「戦争の準備で忙しいからです」
「あなたはそんなに忙しそうに見えないけど?」
私がまた尋ねると、彼は吹き出すように笑った。
「ほら、アレですよ……」
「ああ、サボり?」
「バレましたか。まあ、サボりというよりは、現実逃避に近いです」
この時、現実逃避という言葉に反応して私の指先はぴくりと動いた。
「その戦争には、あなたも行くの?」
本当は「私も今、同じようなことをしているよ」と言いたかったが、やめておいた。一緒にするべきではない。
「ええ、そうなりますね。多分、明日の今頃には死んでいるかもしれません。残念ながら」
「……やっぱり、それって恐いもの?」
この時、私は明日死ぬかもしれない人になんて質問をしてしまったのだろうと自分を殴りたくなった。
だがそれと同時に、たった今会ったばかりの人間でも、死んで欲しくないと思えるものなのだなと思った。
本気で死んで欲しくないと思ったのだ。
「いや、恐くはありません。何も」
彼はそう言いながら座り直した。すると、こちらからはあまり彼の顔が見えなくなってしまった。
「恐かろうが恐くなかろうが、死ぬときは死ぬし、生きるときは生きるものです。どんなに死にたくても、一向に銃弾に当たらないこともあれば、絶対に生きて帰るつもりでいても、開始早々バラバラに飛び散ることもあります」
「だから、与えられた現実を恐がったところで何も良い事なんてありませんよ」と彼は言った。
私はどうもその言葉が私に向けられたものではないような気がしてならなかった。
まるで、彼が明日の自分のために自分自身に言い聞かせているかのようだった。
でなければ、彼は始めからこんなところにはいないのだろう。