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『向山さん! 向山さん聞こえますか!』
誰の声だろう? 聞き覚えがない。
『陽太! 陽太しっかりしなさい!』
ああ、これは母さんの声だな。
「あれ? どこだここは!」
陽太は辺りを見回す。だがそもそも『辺り』なんてものは存在しない。
自分は今確かに何かを見ているのだが、何を見ているのかがはっきりしない。 「何もない」とも言い切れなければ、「何かある」とも言い切れない。
これでは自分がどこにいるのかも何が起きているのかもわからない。目に映るものすべてが漠然としている。
「お前、また何か変なことしたな!」
混乱する陽太のことなんてお構いなしに声は容赦なくガンガンと頭の中に響いてくる。どこかで聞いたことのあるような、ないような。そんな内容の会話が頭の中で、何百何千の蜂のごとくブンブンと飛び交っている。
声は尚も続ける。
『私のせいよ……! 私があんなこと言ったから! どうせ暇なんだからって! どうせ他に用途もないんだからって!』
陽太は思った。
ああ、これは姉の日菜子か。
だから、どうしてここにいる。そんな金切り声なんて上げて、僕の頭をかち割る気か。
……あれ? もしかして、泣いている?
姉の日菜子の声は明らかに正気とは思えないほどの金切り声だった。しかしそんな金切り声が脳内に響き渡る中、明らかに人の声ではない音も聞こえてくる。
小さな車輪の回転する音。
陽太にはそれがすぐにわかった。平らな廊下の上を滑らかに回転する、車輪の音だ。
そしてそれを追いかけるかのような足音。
数人の足音だ。革靴のような足音、サンダルのような足音、ヒールのような足音。それらがバラバラの感覚で建物内に響いている。
「これは……」
《どうだ、思い出せそうか?》
辺りを見回しても何が何だかわからない世界に、はっきりと陽太の影が映し出された。
「病院か、僕がいるのは」
《そこまでたどり着くのにどれだけ時間をかけてるんだ。影がない、そして周りは何も言わない、一時の記憶が無い、体のあちこちが痛む、この時点で気づいてくれるものと思った》
「頼む教えてくれ。お前、全部知ってるんだろ? まさか、僕は事故に遭っていて、今僕がいるのはあの世の入口ってことはないだろうな?」
《なるほど。それだと50点くらいだ》
「お前……」
どこかで聞いたことのある口ぶり。
《お前と話すためにこの世界に連れてきたようなものだ。あの帽子男は、残念ながら始めから俺なんだよ》
影はふーっと大きな溜息をついた。
《本当は、こっちの世界にお前を引きずり込んだ時点で、すべて種明かししても良かった。だけど、いつまでもどんくさいお前を見てたら気が変わってな》
「あんまりだ。いきなり僕の前におかしな姿で現れ、こんなところに連れてきて、そこですべて教えてしまえばいいものを、わざわざ元の姿に戻って僕に追いかけさせ、追い詰められる寸前で帽子男に扮して助けることに何の意味があったんだよ」
《お前には見せておかなきゃならないと思ったんだ。この世界の怖さと異様さを。今みたいな状態のお前は、放っておけばいずれこっちの世界の住人になる。それを止めるために、俺はわざわざ自分をお前から引き剥がしたんだ。俺は御免だぞ。こんなところで永遠に死んだように生きていくのは》
「僕は今、そんなにまずい状況なのか」
《なんでお前が病院送りになったのか、よく考えることだな。そこまで思い出せりゃ、上出来だ。なに、簡単なことだ。うまくすりゃ、次に目を開けるのは病院のベッドの上だ。今から俺は元いた位置に戻る。もう遊んでる時間もないしな》
影はそう言うと、公園にいた時と同じように陽太を飲み込んでしまった。
《話せて良かったよ。それじゃあ》
■
『陽太、ちょっとあんた買い物行ってきてよ』
姉の日菜子が陽太に言う。頼まれたのは自分だというのに、無責任なものだ。
『なんで僕なんだよ。自分が頼まれたんだろ』
陽太は言い返すが、日菜子のきつい一言が即座に返される。
『どうせあんたみたいな根暗、他に使い道なんてないじゃない。他にすることなんて何もないんでしょ?』
『どうせ暇なんだから』
確かにそうだった。
何も言い返せない陽太は無造作に財布をポケットに入れると、玄関の扉を開けた。
スーパーまでは歩いて15分。だがその時の道のりはやけに長く感じられた。
いたるところでジージーとうるさく蝉が鳴く。
何か熱いものが、腹の底からせり上がってくる。心臓が速く脈打つ。
呼吸が荒くなる。さっきの日菜子の言葉が、やけに心に引っかかる。あんなことを言われるのは、決して珍しいことではないのに。どうしても引っかかる。
考えれば考えるほど、頭の中はこんがらがっていく。何度も何度も頭の中で、同じところを行ったり来たりする。
そんなことを何度か繰り返すうち、陽太の中で何かがバチンと弾ける音がした。
頭の中で大きな雪崩が起きたような、妙な感覚に陥った。
まるで、自分の中で長い間隠されていた使用禁止の機械のスイッチが入ってしまったかのようようだった。
『何やってるんだろう』
陽太がぼそりと呟いた時、ドスンという大きな衝撃が彼の全身を貫いた。
その衝撃に続いて、耳をつん裂くようなブレーキ音が響き渡る。
『なんだ?』
そう思った時には既に手遅れだった。
陽太が宙に浮いた瞬間、体からすっと何かが抜け落ちた。
『あれは……』
自分の目の前を、人のような他の何かが走って行く。『待ってくれ』と言おうとした瞬間、陽太の頭はそのままどしゃりとコンクリートの上に打ちつけられた。
「だけどあの後、僕は街中を歩き回った。でもその時にはもう、僕自身には体なんてなかった。そうだろ?」
「陽太、一体何を言っているの?」
陽太がそう言った時、突然耳元で母の声が聞こえた。
《うまくすりゃ、次に目を開けるのは病院のベッドの上だ》
影の言うとおり、病院のベッドの上だった。あれからどうやって戻ってきたのかはわからなかったが、いつの間にか彼は戻って来られたのだ。
「本当だ……本当に戻って来れた」
「陽太、どうしたの? 何を言っているの」
母が不思議そうに陽太の顔を覗き込む。
「なんでもない。もう大丈夫だよ」
陽太はそう言うと、自分の腕を少し上にあげ、影を確認した。
確かに、彼の影はそこにあった。
この話はこれで終わりですがどうもズッコケた感があるのが残念です。