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それからどれくらい経ったのだろうか。
陽太は自分の頬に水しぶきがかかるのを感じ、目を覚ました。どうやら何者かによって硬い噴水の縁に放置されていたらしい。全身がじんじんと痛む。
陽太はまるで老人のように背中を摩りながら、ゆっくりと身を起こした。
そこにはもう、あの公園の景色も真っ黒い影の姿もなかった。
ただあるのは苔の生えた古めかしい噴水と、無秩序に敷き詰められた平たい灰色の石、そして……
「なんだ? これ」
そこには今までに見たこともない異様な光景が広がっていた。
陽炎のようにぐにゃぐにゃと畝ねる、真っ黒な四角い形をした巨大な影。
所々に小さな四角い穴が空いていて、そこからうっすらと黄色い光が溢れている。
そんなものがいくつも規則的に並んでいた。
「これ、もしかして建物の影か?」
驚いて思わず声に出してしまった。建物自体が、影そのものの姿をしていたのだ。
「いやあ、ご名答!」
すると突然、背後からやけに明るい男の声がした。
「誰だ」
振り返ってみると、そこには先ほど公園で出会った影の姿があった。
「なんだ、あんた喋れたのか」
陽太は少しばかり呆れながら言った。
どういう訳か、恐怖心なんてものは微塵もなかった。
「そりゃあ喋れるさ。実際、あの時だって喋ってた。聞こえなかったのか」
「ああ、何も聞こえなかったよ。あんたがいきなり突進してきて、気がついた時にはここにいた。おかげで背中が痛いよ」
「ほお、そうかい。でも、足はもう治っているだろう?」
影はそう言うと陽太の足を指差した。
「……足?」
確かに、もう足からは痛みを感じない。陽太は言われるがまま影の指差す方向に目をやった。
見ると、さっきまでの傷がまるで幻であったかのように綺麗に消えていた。
「なんでだ?」
陽太は影のいた方に視線を戻した。
しかしその時にはもう、彼の目の前から影の姿は消えていた。
まるで、最初からその場に存在していなかったかのように、音も無く、煙のように消えてしまっていたのだ。
「おい、何処いったんだ? どういうつもりだよ」
陽太が叫んだその時、彼の真横を見覚えのある影がサッと走り去っていった。
ついこの間まで彼の隣にあり、今の彼にはないもの。
自分そっくりな影。
「おい待て! 待ってくれ! どこ行くんだよ!」
陽太は全力でその影を追いかけた。
「おい影! どこ行くんだ帰ってこい! お前がいないと――」
だが、影には止まる様子が全く見られない。どんどんスピードを上げて、影の街の中を走ってゆく。
陽太はその影を追って、街の中へと確実に足を踏み入れてゆく。
そして、街の通りを走り抜けながら、いろいろなものを見た。とても言葉だけでは表せないような、異様で滑稽な者たちだ。
真っ黒な影でできた花屋、洋服屋、魚屋、雑貨屋、瀬戸物屋、クリーニング屋……
そしてそれらの中から外に出てくる橙色の光と人影。
まさに、そこは影の街であった。
陽太は気がつくと商店街の奥まで来ていた。奥に行けば行くほど、人影たちは多くなっていった。
皆、ここで普通の人間と何も変わらないように生活しているように見えた。そして、まるで人影が増えてゆくのに比例するかのように、陽太の中に潜んでいた恐怖心が、少しずつ姿を現し始めた。
恐い。
そう思ったのは、たった一瞬のできごとかのように思われた。しかし、その一瞬はあまりにも強烈で、陽太の頭の中を激しく引っ掻き回した。
どっと熱いものが込み上げてくる。
全身の血が、静かに心臓へとなだれ込んでくる。
「何で今更」
陽太は自分の目の前を走る影に、目一杯手を伸ばした。
頼む、届け!
さっと右手が影の背中を掠める。
クソ!
そう思った時、周りにいた影たちが、一斉に日向の方に目を向けるかのように頭の向きを変えた。
なんだ!?
陽太は恐ろしさのあまり思わず立ち止まってしまった。
影たちの声が、聞こえてきたのだ。
「見たか? 今の」
「ああ、見たとも。見たともさ」
「触れたね。あいつ。今触れたね」
「人間か? 実体がある人間か? どうしてこんなところに……どうりで妙な感じがすると思った」
「嫌だ。あんなのに気がつかなかったなんて、気色悪い……」
「なんてやつだ。自分の影を追いかけていたぞ」
影たちはひそひそと日向の方を見て言った。どうやら歓迎されてはいないらしい。
「な、なんだよ。何なんだよ。お前等……」
陽太の膝はがくがくと震え、終いには地面に膝から崩れ落ちた。追いかけていた影は、あっという間に遠くに走り去ってしまった。
陽太はとにかく恐ろしくて仕方がなかった。知らぬ間にこんなところまで来てしまったことや、影たちの存在も恐ろしかったが、何より一番恐ろしかったのは、何故今という今まで、なんの恐怖も覚えずにいられたのか、見当もつかないことだった。
「お前等、僕をどうする気だ!」
陽太は今まで誰にも向けたことのないほどの鋭い目つきで影たちを睨みつけた。
もはや自分が何をしようとしているのかもわからなくなりかけた時、遠くから誰かを呼ぶ声がした。
「おーい」
聞き覚えのある声が、こちらに近づいてくる。陽太はハッとして我に返った。
「おーい! 皆どいてくれ。そいつは私が何とかするつもりでいたんだ。こちらに渡してくれないか」
「あんた、さっきの」
帽子を被った背の高い影。明らかについ先ほど噴水のところで消えてしまった、あの帽子男だ。
陽太を取り囲んでいた影たちはわらわらとその場から離れていった。
「大丈夫かい。こっちに来い」
帽子男は陽太にそう言うと元来た道を戻り始めた。
「待ってくれ、あっちに! あっちに僕の……」
「いいから来るんだ。これ以上先に進むと、君の精神が持たない」
日向の言葉を遮るように、帽子男は言う。かなり焦っているように見えた。
「よし、ここまで来ればもうあんなことにはならないだろう」
二人が戻ってきたのは、さっきまで陽太と帽子男がいた苔生した噴水の広場だった。
帽子男はほっとした様子で言った。
「いやあ、さっきは焦ったね。いきなり街外れまで飛ばされてしまって」
「飛ばされた? 自分の意思で消えたんじゃなかったのか」
「違うね。恐らく、私が消えたあとに、君は自分の影に会ったのだろう?」
「ああ、そうだ。そうだった。アレは間違いなく僕の――」
陽太がそう言うと、また帽子男が遮った。
「まあ、それはもうわかっているから別にいいんだ。ところで君、この世界のことについて、どのくらい理解している?」
「理解? いや、ただ影だけしか存在しない異次元の空間なんだろうなって」
「なるほど。それだと60点くらいだ」
「残りの40点は?」
帽子男は煙草に火をつけるような動作をすると、ふーっと息を吐いて噴水の縁に腰掛けた。
「この世界は、な……実体を嫌って、あるいは実体をなくしてどうしようもなくなった者たちが来るところだ。彼らは皆、実態なんて持たない方が生き易いと思っている。体なんてもうどこかへ捨ててしまったのさ」
「あんたもか?」
陽太が尋ねると、帽子男はむっとした様子で言った。
「私は今、実体を見失っているだけだ。公園で会った時も、そうだったよ。君に声を掛けられた時、私はてっきり君を自分の体だと思い込んでしまった。私のことが見える人間は少ないからね。オカルト好きの間では、シャドーピープルなんて呼ばれたりしてね」
「だから突っ込んできたのか。自分の実体であるなら、影のあんたも見えると思ったんだな」
「ああ、すまなかったね。だけどもちろん、君は私の実体ではない。自分の実体ではない人物にああやって飛び込むと、稀にこうやってこちらの世界に一緒に連れてきてしまうことがあるようなんだ」
「それで、僕はどうやったら元の世界に帰れる? こっちの世界に逃げた僕の影は、どうやったら取り戻せる?」
「君の影がこちらに来て逃げ回ったり、私の行動を阻止しようとしているのには、おそらく何らかの原因がある。そしてその原因は、君自身が抱えている何らかのトラブルだと、私は思うね」
「僕自身の?」
「ああ。実体と影が分裂してしまっているようだから、間違いないね。君、最近何かショッキングなことはなかったかい? なんでもいいさ。誰かが死んだとか、自分自身に嫌気がさして自暴自棄になっているとか」
長々と喋った帽子男は、もう一度呼吸を整えるように息を吐いた。
「実体と影が分裂するような事?」
陽太がそう口に出した時、胸の奥で何かがざわめいたような気がした。
「自暴自棄」
思い出せない。あれは、なんだったか……
陽太は頭を抱えた。
そもそも、何故影がいなくなったのか。
何故、あんなにも闇雲に探し回っていたのか。
『何、やってるんだろ』
そう独りで呟いた時、自分は一体何を思ったのだろう。
あれは誰に行ったのだろう。
僕は何かを忘れている。
一番大切な何かを忘れている。
『どこ、行ったんだろう……』
ああ言った時から、僕はもう忘れていたんだ。肝心な――
《肝心な……?》
陽太の目の前に、逃げ去った彼の影がいた。戻ってきたのだ。
いつの間にか、また帽子男は消えていた。
《肝心な、なんだ?》
「肝心な……」
薄暗かった空に暗雲が立ち込め、より一層辺りを暗くした。
《相変わらずどんくさいな。面倒だから、さっさと思い出して、さっさと解決してくれ》