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 夷澤廉子。

 彼女が人里離れた私の住む村にやってきたのは、二日ほど前のことだった。その日、私はは汗だくになりながら畑を耕している最中だった。

 突然林の中からガサガサと音がして、大きな目と真っ黒な髪の若い女の人が飛び出してきたのだ。黒髪は高い位置で一つに束ねられていて、動くたびにゆらゆらと馬の尻尾のごとく揺れていた。


「すみません、道に迷いったのですが」


 彼女は言った。散々山の中をさまよい歩いてきた人間にしては、随分落ち着き張ったものの言い方だと思った。


「あの、ここへは歩いてきたんですか? 結構な道のりだったと思うけど……」


「はい、私は夷澤廉子といいます。ここらを歩き回って暮らしている者です。しかし、三日前に山で迷い、もう食料も水も残っていません。もしよろしければ、何か分けてはもらえませんか? 勿論、いずれお礼はさせていただきます」


 この時、私はすでに嫌な予感を感じていた。


「イザワ……ですか、しかしこの村は――」


 夷澤さんの言葉に対し、私が口を開きかけた時だった。


「宝良! その人は誰だい? お客さんかい?」


 私の名前が呼ばれたので振り返ると、祖母の紗江子さんがさも嬉しげににこにこしながらこちらに近寄ってきた。祖母と言っても、血のつながりはないのだが。


「あ、ああ、おばあちゃん」


 私ははがくんと肩を落とした。


「アンタ、この子からなんか聞いたかい?」


 紗江子さんは貼り付けたような笑顔を保ったまま夷澤さんに尋ねた。


「いいえ何も。あの、もしよろしければ一晩この村に泊めていただきたいのですが」


 夷澤さんもまた貼り付けたような真顔で紗江子さんに言った。それを聞いた紗江子さんがさらに深く顔面にシワを作って言う。


「そうかい。なら、仕方ないね。家においで」


 なんだかまずいことになった。

 そう思う私の横で、紗江子さんがまた小さく呟いた。


「……それなら仕方ないねぇ」






「そうかいそうかい。ずっと一人で歩いてきたんだねえ、大変だったねえ、外には危ないヒトがうろついてるっていうのにねえ。怖かったでしょう」


 夷澤さんを座敷に座らせた紗江子さんは、お茶を出しながらうんうんと彼女の言うことに相槌を打っていた。夷澤さんは出されたそのお茶をくんくんと嗅いでから、一口口に含む。私ははその様子を柱の影からそっと覗いていた。


「ここは随分と平和な場所なんですね。見たところ、ここにいる人はなんだか幸せそうに見えますし、感染者はでなかったのですか?」


 外からかすかに聞こえる子供の笑い声を聞きながら夷澤さんは言った。


「そりゃあ、少しは出たさ。だけど、ここじゃそれでもみーんな幸せに暮らしてるよ」


 紗江子さんはそう言うと、夕飯の支度の続きをしなけりゃと台所へ消えていった。

 それから暫くすると、私は夷澤さんの横に腰を下ろした。


「あなたは」


 夷澤さんがそう言うと、私はじっと彼女の目を見据えていった。


「ここに長居しないで。今夜にでも出て行ってください。道は私が教えるから」

「……何故そんなことを言うんです? 私、今ここに居たらそんなに迷惑でしょうか?」

「ええ、そうですね。私にとっては」


 本当は今すぐにでも追い出したいのだ。


「明日の朝ではいけませんか?」

「駄目。お願い。今詳しいことは言えないけど、あなたのためなの」


 夷澤さんが再び口を開こうとした時、台所から紗江子さんの夕飯を告げる声がした。相変わらず、とても嬉しそうだった。

 すごく嬉しそうだった。


「本当に久しぶりのお客さんだからねえ、皆嬉しいらしくて、あなたのために色々持ってきてくれたのよ」


 そう言って紗江子さんが運んできた料理は、芋に魚、肉に山菜という実に豪華なものだった。これには夷澤さんも驚いた様子で少しばかり目を大きくしていた。


「いいんですか、私なんかのために、ここまでしていただいて」

「いいのよ、今日一日だけなんだから! それよりほれ、冷める前に、ね」

「はあ、ありがとうございます」


 彼女は美味しそうにぺろりと夕食をたいらげた。

 私もすぐ隣に座って同じものを食べていたのだが、あまり美味しいとは思えなかった。むしろ、こんなに不味い夕食は初めてだったと言うべきか。

 その後も隣の住人が三味線を弾きに来たり、面白い話を聞かせに来たりと夷澤さんに対するおもてなしは続いた。

 あの人は、本当に何も知らないんだろうか?

 私は柱の影で一人溜息をついた。


 その夜、私は暫く布団の中で一人もぞもぞしていたが、腕時計が一時を回るとこっそり部屋を抜け出して夷澤さんのいる客間へと向かった。途中、玄関の近くに二人ほど見張りのような人物を見た。

 それに見つからないように、慎重に客間へと向かった。


「起きてますか? いざわ……ええと……」

「廉子です」


 ようやくたどり着き、私が彼女に声を掛けると、はっきりと落ち着いた返事が返ってきた。まるで、私がこの時間にここに来るとわかっていたかのようで、少しぞわっとした。


「ここから逃げて」


 私は言った。


「玄関には見張りが二人います。もしかしたら、外にもいるかも知れないですよ」

「え、どうして」


 客間から玄関は大分離れている。トイレに行くとしても方向が真逆だ。となると、夷澤さんは一人でわざわざ玄関まで行ったことになる。


「どうしてそれを?」


 私は彼女に尋ねた。


「いえ、ただ改めて、確かめに行っただけです。話に聞いたことが本当なのかを」


 夷澤さんはそう言ってうんと伸びをした。間違いなくこの人は何かを知っている。


「あなた、まさか――」


 私が少しばかり声を荒げた時だった。


「あら、宝良。廉子さんになんの用かしら? こんな真夜中に」


 私が恐る恐る振り返ると、障子の隙間から紗江子さんの蒼白い顔がぬうっと突き出ていた。その顔は先ほどのものとは比べ物にならないほど恐ろしかった。

 後ろには二人の男の影が見える。おそらく、玄関付近にいた二人である。


「お、おばあちゃん……」


 私の体はカタカタと操り人形のように震えた。一方夷澤さんの方は「私は何も知りません」とでも言うかのように眠そうに目を擦っていた。


「廉子さん、悪いけどちょっと来てもらうわよ。見せたいものがあるの。そうだ、宝良。あんたも」

「なんでしょう?」


 紗江子さんの言葉に、夷澤さんはきょとんとした顔で答えていた。

 「はぁ……」と私は三度目の溜息をついた。




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