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母の死から、ちょうど一年が経とうとしている。
母とは血は繋がっていない。だが、その理由を他の誰かに教える必要はないと思う。私と母が知っていれば、それで十分だ。
私はあの日、ずっと母の帰りを待っていた。「昨日よりは早く帰れる」その言葉を信じてただひたすら待ち続けた。けれど、その「昨日」の時間になっても母は帰っては来なかった。
当然だ。死んでいたのだから。
事故にあったと聞いた時、私は病院へ行こうとはしなかった。顔を見たくなかったのだ。
これから先、母の顔を思い出すたびに死に顔が頭のなかに甦るだなんて、絶対に嫌だった。
「もうすぐ時間だから支度しなさい」
「私、行きたくない」
もちろん、母の通夜に行くのも死ぬほど嫌がった。
家には母の妹の葉月さんが来ていた。
「お願い、弥生ちゃん」
「絶対に嫌!」
私は泣き叫んだが、行かないわけにも行かず。
しかし、決して棺に近づくことはなかった。さすがにこればっかりは、葉月さんも何も言わなかった。
結局私は通夜に少しだけ顔を出しただけで、すぐに家に帰った。
後悔はしていない。これで私の中の母の最期の姿はあの日の朝のままになったのだから。
家に帰った私は1人で赤ん坊のように泣いた。そんなこと無意味だとはわかっていたが、どうしても我慢することができなかった。
私は母を殺した犯人を恨んだ。何倍も苦しんで死ねばいいと思った。
「絶対に許さない……」
私がそう言った時だった。
何かが私の前を横切った。それがなんであったのかは、本当のところわからない。単なる私の気のせいだったのかもしれない。
けれど、その時私はそれが母であると本気で思った。
一筋の光が、そっとカーテンの隙間から入り込んで私を包み込んだ。月光だった。今までに見たこともないくらい明るく、温かい光だった。
その時、私の中から憎悪がすうっと取り除かれていった気がした。
それからというもの、私は母を殺した人間を恨むのをやめた。
確かにそこに、見えない壁の向こうに母はいたのだ。
私は母と喋るとき、いつもどこかぎこちない感じがした。
父は色々あってすぐ母と離婚した。
ちゃんとした理由を私は知らない。だけど、知りたいと思ったことは一度もない。
「弥生、聞いてるか?」
突然担任に名前を呼ばれてどきりとした。けれど、母を亡くしてからというもの、周りの人間がやけに親切になった気がする。気を使ってくれるのはありがたいけれど、正直あまり嬉しくはない。
「えっと、はい。聞いてます」
「そうか」
危うく授業中に小説まがいの文章を書いているのがばれるところだった。それともとっくにばれていたのだろうか。
そういえば、もうすぐ母の命日だ。
ふと、私はそんなことを考えながらノートを閉じ、授業に戻った。
今私は葉月さんの家にいるが、前に住んでいた町からそう離れていなかったので、よく1人で母の墓に行っていた。別に何をするわけでもなく、ただ墓石の前に座って泣いていた。何時間も蹲っていた。
あの姿は、周りの人からどんなふうに見えていたのだろうか。想像すると恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。母もきっと呆れていただろう。
今日は3月15日。母の命日まで、あと2日。ここのところ、暫く母の墓には行っていない。きっと汚れているだろう。
「ねえ、璃子。今日、一緒に帰れないや」
帰りのホームルームが終わって、一緒に帰ろうと私のところにやって来た友達の璃子に私は言った。
「え、どうして?」
「お母さんの――」
「ああ、わかった。それなら仕方ないね」
私が最後まで言い切らないうちに、璃子は控えめに笑ってそう言った。
「まだ最後まで言ってないよ」
「うん? お墓参りだよね?」
「そうだけど……」
「今日行くの?」
「うん、明日から天気悪くなるって言うから」
「そっか、弥生らしいね」
それは母に似たからだと言おうとして私は口を閉じた。
「それじゃあ、行ってくるね」
久々に花を持って電車に乗る。
なんだか少し恥ずかしい。
不思議なことに前よりも墓場までの距離が長く感じた。
「こんなに、長かったっけ」
多少の違和感はあったが、特に気にかけることはなかった。
しかし母の墓の前まで来てみると、何かがおかしいことに気がついた。
もうすでに誰かが来た後だった。
けれど、誰も来るはずがない。葉月さんだって来るはずがない。絶対に私が一番最初に来たはずだ。
それなのに――
「どうして……」
墓石の前にはケーキの箱が置いてあった。
てっきり誰かが間違えて置いたのかと思った。が、箱にははっきりと書かれていた。
『弥生へ』
箱を開けてみると、中にはおめでとうと書かれた小さな丸いケーキが入っていた。