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当時、ウィリアムはまだ十三歳だった。
そのため女性にしては大柄だったジャネットには体格的にも力的にも劣っていた。
それ以前にこのときのジャネットの様子は明らかに尋常ではなかった。
何をするか分からないような人間と相対したのは初めてだったウィリアムは怖気づいていた。
(放っておいたらクリスを連れて行かれてしまう。父たちが不在の今、クリスを守れるのは自分しかいない)
気が付けば扉の前で腕を広げていた。
そんな様子にジャネットは舌打ちした。クリスを肩に担ぐと、ウィリアムを片手で扉の前から引きはがした。
『待て! クリスを連れて行くな!』
本当ならそう言いたかったのに、唇が震えただけで言葉にならなかった。
動けない自分を叱咤し、必死に手を伸ばしがクリスを包んでいたベッドカバーに指先が掠っただけだった。
(このまま伯母上を行かせてはダメだ!)
そう思うのに、どうすればいいか分からなかった。
ジャネットは扉を開いて部屋を出た。
「クリス!!」
ウィリアムにとってクリスは可愛い弟だった。
大きな澄んだ瞳で「にいさま、にいさま」と舌足らずに言って後を追いかけてくる。
この頃は一年の大半をベッドで過ごしていたクリスは「にいさまはどこ?」と目を覚ます度にウィリアムの姿を求めていた。
(愛しい弟を伯母上のいいようにはさせない!)
いくらか冷静さを取り戻したウィリアムはジャネットを追おうと足を動かした。
ジャネットは部屋を出てすぐの所で立ち止まっていた。
扉の前を囲むようにラッセル家に仕える使用人たちが立ちはだかっていた。
「ジャネット様、クリス様を返していただきます」
戻ってきた執事は話を聞くと、すぐに館の中の使用人たちを集めた。
応対した使用人の話ではジャネットはジョージの部屋にいるとのことだったが、ウィリアムの叫びが廊下に響き渡ったおかげで何かが起きていることにすぐに気が付いた。
そして彼らはジャネットを逃がさないようクリスの部屋の前を固めたのだった。
使用人たちのおかげでクリスが攫われずに済んだとウィリアムは胸をなでおろした。
ジャネットはと言うと、クリスを攫うことをまだ諦めていなかった。
人垣をどけようと執事に向かって手を伸ばしたが、その手は別の使用人によって捻り上げられた。
「痛い! 放しなさいよ!!」
「この女、どうします?」
喚くジャネットを押え付けた使用人が執事に伺いを立てた。
執事はジャネットからクリスを取り戻すと、部屋のベッドにそっと寝かせた。
「縛り上げて客間の床に転がしておきなさい」
使用人たちはすぐさま命令に従った。
「ジョージ様へは知らせてありますのですぐにお戻りになられますよ」
「分かった」
ウィリアムは自室に戻る気も起きなかったため、そのままクリスの看病をしていた。
「二人とも大丈夫か」
慌てた様子で戻ってきたジョージは、ウィリアムたちが無事でいることが分かるとほっと一息ついた。
「父上」
「もう大丈夫だ」
ジョージはウィリアムに歩み寄ると抱きしめた。
「クリスは大丈夫か?」
「ずっと眠ったままです。けど、熱が上がってしまって……」
ベッドの中のクリスを覗き込んだ。
頬は赤く呼吸も苦しげで、額に触れてみるとかなり熱かった。
「お前たちのためにも、やることをやってくるよ」
顔を引き締めたジョージはクリスの部屋を後にした。
「ウィリアムがいるのだから、いいじゃない!」
「そういう問題ではありません。第一貴女にはお子様がいらっしゃるのでしょう?」
ジャネットは頭を振りかぶった。
「あんな子たちと分かっていたなら産まなかった! 私が欲しいのはクリスみたいな綺麗な子なのよ!」
客間の床で転がったままジャネットは喚き続けていた。
執事は、相手にするのも面倒だと言わんばかりの顔をしていた。
その後、怒りもあらわに入ってきたジョージが彼女に何をしたのかは言うまでもない。
「その後父上は伯母さんに絶縁を言い渡したんだ。でも、伯母さんはずっと父上の話に耳を貸さず『クリスをくれないから』って喚き続けてた。追い出されるときの伯母さんの顔を見たら、両頬ともぶたれて腫れ上がってたよ。後で聞いたところによると、伯母さんは以前からクリスを養子にくれって父上に言ってたらしい。公爵家や侯爵家だったらわからないけど、欲深い伯母さんだからね。父上は当然断っていたけどね」
ラッセル家の子供はウィリアムとクリスの二人だけだった。
ウィリアムはその時すでに男爵家を継ぐための教育が施されてる最中だった。
長子だということもあるが、体の弱いクリスよりはと考えた周りはウィリアムが後を継ぐことに反対はしなかった。
ジャネットには三人の子供がいた。
しかし、その子たちはジャネットの期待に応えられるような容姿はしていなかった。
仮に、クリスがジャネットの養子になったとしても、クリスに幸せな未来はなかったことだろう。
野心家のジャネットだが、自分の能力で人に認められようとはしなかった。
彼女に能力がなかったというのも確かだ。しかし、それ以前に彼女は性急すぎた。クリスの事件以前にもいくつかのトラブルを起こしていて、そのためにジョージが頭を抱えるのも珍しい話ではなかった。
そんなジャネットが嫁いだのは、同じ男爵位のクリーズ家だった。
もちろん本人が望んで嫁いだのではない。
クリーズ家に嫁ぐ前のこと。
年頃のジャネットは、自身の嫁ぎ先は公爵家や侯爵家と決めていた。
いくら見合いの話を持って行っても色よい返事はもらえなかった。
それもそのはずで、社交界に顔を出していたジャネットの悪名ばかりが囁かれていた。
金食い虫のジャネット・ラッセル。
影でそう呼ばれていた。
その当時はジョージの父、つまりクリスたちの祖父がラッセル男爵だった。
ラッセル男爵もジョージも人柄の良さで評判だったのだが、その時ラッセル家は傾いていると噂が立った。
実際は多少苦しいところはあったが、傾いていると噂が立つほどひっ迫しているわけではなかった。
何故、そんな噂が立ったのかと言えば、原因は彼女が身に着けていた衣装や装飾品だった。
ドレスにしても宝石にしても高い物ばかりで、他の男爵家の令嬢を見てもジャネットのように豪奢なものを身に着けている者はなかった。
ラッセル家が富んでいるかと言われれば、そうでもない。
金や銀の鉱山を持っているわけでもなく、ラッセル領はごくありふれた田園地帯だった。
ラッセル男爵が娘のためにと与えた金はあったが、ジャネットの身に着けていたものはその金で賄えるような代物ではなかった。そのことに疑問を持ったジョージが、ラッセル家の資産を改めた。
すると、土地や建物は無事だったが男爵夫人、クリスたちの祖母が結婚式の時に身に着けていた宝飾品や、かつて王家から下賜されたという宝剣など、他にも色々なものがなくなっていた。
ジョージはラッセル男爵に念のために確認したが、男爵は売ってもないし保管場所を変えてもいないと答えた。
グレゴリーにも確認したが知らないと首を振った。
そして、ジョージはジャネットを問い詰めた。
その時すでに仲がいいとは言えなかったが、本当なら身内を疑いたくはなかった。
ジャネットはあっさりとそれらを金に換えたと認めた。
「私の役に立つかもしれないのだから、感謝してほしいわ」
このまま放っておくと、ラッセル家の資産全てを食いつぶされるかもしれない。ラッセル男爵は温厚な人で、ジャネットに手を下すことにはためらいがあった。しかし、家がかかっているかもしれないとなったら話は別だった。
幸いかどうかはわからなかったが、ジャネットに縁談の話はなかった。
ラッセル男爵は友であるクリーズ男爵にジャネットを任せることにした。
クリーズ男爵に迷惑をかけることを悩んだが、彼は厳しいことで有名だった。
相談すると「友である君のためならば」と快く了承してくれた。
ジャネットは最後まで嫌だと首を振ったが、半ば強引にクリーズ家へと連行されるように嫁いだのだった。
嫁いだものの、ジャネットは自身の野心を捨てたわけではなかった。
すぐにでも男爵家より上の家との縁を作りたいと思った彼女が目を付けたのが甥のウィリアムとクリスだった。
二人とも容姿は良かったが、クリスの方が体が弱いから攫いやすいと考えたのかもしれない。
ジャネットがクリスと接触しようとしたことをジョージは知っていた。
絶縁状を用意はしたが、それをクリーズ家に送りつけることは出来なかった。そして、ついに起きてしまった事件に堪忍袋の緒が切れたジョージはジャネットをはり倒した後絶縁状を叩きつけたのだった。
「怒っても怖いけど、怒りを通り越したあの無表情はもっと怖かった。伯母さんはあの後縛られたままクリーズ家に戻されたから、その後のことは知らなかったけど、あの様子を見るとまだ諦めてはいなかったみたいだね」
やれやれ、とウィリアムは肩を竦めていた。
睡魔に襲われ始めていたクリスは、ぼんやりとした頭で聞いていた。
ウィリアムが話していたのは自分の事なのに、そんな記憶がないから違う誰かの話のように思えた。
瞼が重すぎて、これ以上起きていることは難しいかもしれない。
それでもこれだけは言っておきたかった。
「僕は…いつも、兄さま……そば……います……だから……安心…て……さい」
ウィリアムは自分の肩に頭を預けたまま寝息を立て始めたクリスに目を向けた。
気が付けば大分時間が過ぎているようだった。
儀式があるから早めに休むように言ったのは自分なのに、何をやっているのだろう。
ベッドに横たえたクリスは穏やかな寝顔をしていた。
見ていると、誘拐騒ぎの時の光景が頭をよぎった。
ジャネットに会ったことと昔の話をしたせいかもしれない。
ウィリアムはあの時何も出来なかった自分を思い出した。
苦い思いを振り切るように瞼を固く閉じて奥歯を強く噛みしめた。
――あの時の自分はまだ子供だった。けど、今の自分なら……
あの時とは違う。
いつも自分を慕い、想ってくれている可愛い弟だから。
「私が絶対に……守ってやる……」
漆黒の闇の中、何があってもクリスの味方であり続けることをウィリアムは自分に誓ったのだった。