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やめようかと思いましたが、やっぱり書きます
クリスはウィリアムと共に宿に向かって歩いていた。
あれから公園で話していたのだが、時間が経つのをお互いに忘れてしまうほどだった。
気が付いたら街は夕日で赤く染まっていて、吹き抜ける風が次第に冷たくなっていった。
「じゃあ、宿に入ろうか」
ベンチから立ち上がると、ウィリアムは上着を脱いでクリスに着せた。
「まだそれほど寒くはないけど、明日は大事な日だし風邪をひいたら大変だからね」
照れているのか、クリスは頬を軽く染めて俯いた。
「ありがとうございます」
ぽそりと呟くような微かな声が聞こえたが、気のせいではないだろう。
他愛のない話をしながら石畳の道をのんびり歩いていた時、ふとウィリアムの表情が穏やかなものから一転した。
「どうしました?」
ウィリアムは鋭い目でクリスの後方を射抜くように見ていた。
クリスもつられて後ろを振り返ったが、そこには誰もいなかった。
「…何でもないよ」
そう答えたウィリアムの表情からは険が消えていた。
(何だったのだろう……?)
今しがたのウィリアムの表情は、これまで見たことがなかった。
もしかしたら、自分は何かうっかり失言をしてしまったのかもしれない。
ウィリアムを見つめるクリスの瞳は不安げに揺れていた。
そんなクリスの視線に気づいたウィリアムは苦笑を漏らした。
「どうした?」
「いえ……先ほどの兄さまの表情、初めて見ました」
「どうしてそんな顔をしてるんだ?」
「僕が……何か悪いことを言ってしまったのかと……」
俯いたクリスの頭をウィリアムは優しく撫でた。
「すまない……何か嫌な視線を感じてね。気のせいならいいんだけど」
ウィリアムはクリスの背に手を回し、歩くことを促した。
宿までの道中、ウィリアムが何度も背後を振り返っていたことに気付いたものの、何となく口に出すのが憚られるような気がして、結局何も聞くことはできなかった。
「美味しかったですね」
夕食はジャガイモや人参などの野菜がたくさん入ったスープと香ばしいライ麦のパン、瑞々しいレタスや大きめにカットされたトマトがごろごろ入ったサラダにメインは赤みを残して焼かれたステーキだった。
どこにでもある内容だが、食事の内容よりも兄弟水入らずで気兼ねなく過ごせた時間にクリスは満足しているようだった。
「明日の式は夕方からだけど、しっかり寝て粗相のないようにするんだよ」
子供に言い聞かせるような内容に普段のクリスなら「もう子供ではないのですよ」と言い返したり頬を膨らませるところだ。
しかし、場所が場所だけに考えただけで緊張してしまい、素直に頷くことしかできなかった。
夕食後、二人は部屋に戻った。
ウィリアムはトランクの中を確認し、スーツをハンガーに掛けていた。
クリスはウィリアムを手伝った後、窓際に置かれたソファに腰掛けて夜の街並みを眺めていた。
王都と言っても明かりと言えば松明や建物の中の蝋燭の明かりくらいなものだ。
クリスたちの部屋は宿の三階で、すぐ傍の道を見下ろしても見えるのは松明の炎くらいだった。高く掲げているのか、炎が照らすのは建物ばかりで、それを手にしている兵の姿はあまり見えなかった。
至る所に見える松明の炎が王都の警備の厳重さを物語っていた。
松明が漆黒に包まれた街を仄かな橙色で照らしているのをみると、明日のことなど頭から吹き飛んだ。
(綺麗だ)
クリスはソファの肘掛けにもたれて外を見ていたが、いつしか船を漕ぎ始めた。
そんなクリスにウィリアムは微笑み、手にしていたカーディガンを掛けた。
その時、部屋をノックする軽い音が響いた。
「よろしいでしょうか?」
「何だい?」
ウィリアムが扉を開けると、そこにいたのは宿の支配人だった。
白髪交じりの灰色の髪で丸い眼鏡をかけた壮年の男性で「お客様へ言伝があります」と一枚のメモをウィリアムに手渡した。
「どうもありがとう」
礼を言ったウィリアムに支配人は一礼して立ち去った。
ウィリアムは手の中のメモに目を落とした。
ぐしゃ…とメモを握り潰した音でクリスは目を覚ました。
「クリス、私はちょっと出かけてくる。眠かったら寝ててもいいけど、絶対に宿の外に出てはダメだよ」
ウィリアムはコートを羽織ると足早に部屋から出ていった。
夕方の時も今もウィリアムは怒っているようだった。
それが何かは分からないが、酷く不安を感じたクリスは言いつけを破って、こっそりと後を追ったのだった。
兵士以外誰も出歩いていない静かな夜の街は、石畳を歩く微かな音すら大きく響いた。
出来るだけ音を立てないようにクリスは慎重に足を運んだ。
ウィリアムが足を踏み入れたのは、昼間二人がいた公園だった。
クリスは木の陰に身を隠すとそっと様子を窺った。
そこにはウィリアムの他にも誰かいるようだった。
暗くてあまりよく見えないがドレスのような長いスカートのシルエットだけは分かった。
誰だろうと内心で首を傾げていたところにウィリアムの声が届いた。
これまで聞いたことがないような口調は氷のようだった。
「久しぶりですね、伯母上」
(伯母上?)
クリスは耳を疑った。
何故ならクリスが知っている両親の兄弟は全員男性で伯母がいるなど聞いたことがなかったからだ。
(父さまの方はグレゴリー叔父さましかいないはずだし、母さまの方も伯父さまが二人で伯母さまはいなかったはず。なら兄さまが伯母上って呼んでる人は誰なんだ?)
驚いていると女性の声が聞こえてきた。
黒板を引っ掻くような甲高い嫌な声にクリスは思わず耳を塞ぎたくなった。
「ほんと、久しぶり。でもクリストファーも呼ぶように言伝を頼んだはずだけど?」
どこかヒステリックな声が自分の名前を口にしたと分かったとき、鳥肌が立った。
「クリスは来ませんよ」
「何ですって?」
「当たり前でしょう。愛しい弟を貴女に会わせるなんて莫迦はしませんよ。父からもきつく言われてますし」
「甥の分際で私に逆らっていいと思ってるの!? ジョージもジョージだわ。あの出来損ない! 貴方に用はないわ、クリスを連れてきなさい!!」
「お断りします」
「お前の意見は聞いていないわ。私は命令しているの!」
「何と仰ろうが、クリスに会わせるはずがないでしょう。その重要なものが抜け落ちた脳みそは、どこまであなたに都合がいいようにものごとを改ざんするのです?」
クリスは知らなかったが、この日二人が泊まる宿は警備が優れていると評判のところだった。
宿の主人は元近衛で、率直な話が女将以外は軍の出身だった。そのため剣術はもちろん武術も修めていたから、そこらの荒くれ者ではまず相手にならない。
宿の従業員はもちろんのこと、街を巡回する兵が見回る場所のリストにも載っていた。
そのためジャネットは宿に乗り込むことが出来なかったのだ。
クリスはウィリアムたちの会話にただただ驚いていた。すると突然伯母という人は金切声をあげてウィリアム掴みかかろうとした。
しかしウィリアムは猪のような伯母の突撃を許すはずがなかった。ひょいと脇によけた彼の前で伯母は無残に転んでしまった。
「もう会う事もないでしょうが、もしクリスに手を出したなら容赦はしません。たとえ伯母上であろうと、ね」
ウィリアムは伯母に手を差し伸べる事もなく公園を後にした。
「覚えてろ」
独り公園に残された伯母は獣のように歯をむき出していた。
そんな彼女の怒りと憎しみの声が闇に木霊した。
しかし、そんな彼女の声をがウィリアムもいつの間にか宿に戻っていたクリスも気にするはずがなかった。