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 ハワードは腰に手を当て胸を張った。


 クリスに向ける彼の目はいつも同じだった。

対等な人としてではなく自分より下の者…いや、人間ですらないのかもしれない。

愛玩動物(ペット)に向けるそれとそっくりだった。


 相手にするのも煩わしく本当ならば無視したいのだが、互いの家の名がそれを許してはくれなかった。


「お前、学院を出たら私の下で働かせてやるぞ」

「はぁ?」


 クリスは思いがけず素っ頓狂な声を上げてしまっていた。


 クリスはラッセル男爵家の次男だった。

 彼の兄のウィリアムは文武両方に秀でている上に人望もあった。

一方のクリスは幼いころより病弱だった。

成長するに伴って少しずつ良くなりはしたものの、気を抜けば熱を出して倒れるのは今でも変わらなかった。

勉強はベッドの中ででもできたが、武術の方はからっきし。


 優秀であること以前に滅多に風邪をひくこともないウィリアムのことを羨んだことはあるが、妬ましく思ったことはなかった。

むしろ尊敬していた。


 ウィリアムが家を継ぎ、自身はどこかへ婿に出されることになるだろうが、そのことに不満はなかった。

あの立派な兄ならばラッセル家をもっと栄えさせてくれることだろう、と思っていた。

 クリスのように家督を継がない貴族の子供でも男爵家のような下位の者は、公爵家など上の位の家に入ることはあった。

女性であれば結婚で珍しい事ではないが男性の場合はほとんどない。

 

 噂ではあるが、公爵家や侯爵家などの上位の家が男爵家、あるいは一般市民から優秀な人材を見つけると引っ張ってくるという話を耳にしたことがあった。

あくまで噂だが。


 しかし、今回の場合はクリスが優秀だから欲しいというわけではなかった。



「何を莫迦なことを言っている?」


 目を吊り上げたエドガーがクリスの前に出た。

エドガーは沸点が低く、喧嘩っ早い。それは相手がハワードのような公爵家出身だろうと関係がなかった。

 外ではどうかは分からないが、学院の中では家の階級による差別を禁止されていることをエドガーは十二分に理解していた。

だからこそ容赦はしなかった。

差別も禁止だが、暴力沙汰も当然禁止だった。


 ハワードはクリスの近くへと歩み寄り手を伸ばした。

クリスは今にも暴れだしそうなエドガーを押さえつけるのに気を取られていて、ハワードが傍にいることに気が付かなかった。


太っているせいで息がしづらいのか、それとも興奮しているからなのかハワードは荒い鼻息をしていた。そんな彼の太いソーセージのような指が頬に触れた途端クリスの全身に鳥肌が立ち、思わず飛び退った。


「男爵家の者だが、お前は美しいからな。この私が侍らせるのにふさわしいだろう」

「いや、それは……」


 ハワードは自分のことを誰よりも貴族にふさわしい気品に溢れ、将来的には政を動かすことができるほどの優秀な人間…と思っているようだった。

正直な話が自惚れだ。

何故、ハワードがそんなことを思っているのをクリスたちが知っているのかと言えば、色んなところで自慢話に花を咲かせていたからだった。

ある時は食堂で、ある時は放課後の閑散とした教室で、またある時は寮のロビーで。

誰かが通りかかるたびに家の自慢をしているような奴だった。

 そんなハワードの取り巻きとなっている者達は、ハワードの家が治めている領地と隣接する地域を治めている家の子供だった。

もし、ハワードと何か揉めたりすれば経済的な圧力を掛けられてしまうかもしれない。

そんな恐れから従うしかなかった。

今、ハワードの取り巻き達は事の成り行きを怯えた目で見つめていた。

学院に来るまで荒事とは無縁の暮らしをしてきたということもあるが、余計な口出しをして自分たちに火の粉が掛かるのを避けたいといった様子だった。


 ジョン・ハワードという人そのものに心酔している人間は少なくとも学院の中にはいない、というのは念のため。


 クリスは大きな瞳を瞼の奥に仕舞い考えた。この場からうまく逃げ出す方法はないものかと。悲しいことに妙案が浮かぶことはなく、冷たい汗が背中を伝った。

目を閉じていたのはほんのわずかな間だが、ハワードは再びクリスの方へ歩み寄ってきていた。その手を取ることはもちろんできないが、振り払うことも出来なかった。


 ハワードから目をそらせることができないまま、じりじりと後退した。


 後ろを全く見なかったため誰かにぶつかってしまった。


「あ、すみませ……」


 クリスは顔をハワードに向けたまま、ぶつかってしまった誰かに謝った。

これではぶつかった相手に失礼だと思いながらも、ハワードから目を外す余裕がなかった。


「いやいや、何かお困りかな?」


 どこか芝居がかったような、ゆったりとした声がぶつかった相手からした。

聞き覚えがあるその声の主は歩み出るとクリスの隣に立った。


「セシル……」


 そこにいたのはクリスたちの同級生のエドワード・セシルだった。

 栗色の髪を一つに束ねているセシルは穏やかに微笑みかけてきた。

くっきりとした目鼻立ちは彼の意志の強さを物語っているかのようだった。


「知らない仲じゃないんだし名前で呼んでほしいけどな」


 残念そうに呟いたエドワードはクリスの肩を抱き寄せた。

いつの間にかホールの外に出来ていた野次馬の中から黄色い悲鳴が聞こえてきた。エドワードだけでなくクリスも女生徒に人気があった。


「で、どういうことになっているのかな?」

 

 エドワードはクリスに向けたものとはまるで違う氷のような冷たい目をハワードへと向けた。

睨まれたハワードは何も答えることが出来ず、代わりにエドガーが事の次第を説明した。


「こいつがクリスに学院を卒業したら侍れって迫って来た。ついでに来週の儀式に俺たちが参加するのが気に食わないらしい」

「なるほど、ね」

「……っ」


 頷くエドワードにハワードは声を詰まらせた。彼の家はハワードと同じく公爵家。そのためハワードも下手なことは口にすることは出来なかった。


 エドワードはクリスから手を放すと二人の前に立った。


「儀式は貴族で適齢の者であれば誰でも参加しなくてはならないし、階級は関係ない。それを決めたのは王家だから、それを否定するのは王家を否定することに繋がると思うけど」


 ――不敬罪という罪がある。

 ユリウスの血統である王族を侮辱したりしてはいけないというものだ。

これを犯したら一般市民であれば処刑は免れない。

貴族であっても重罪であることに違いはなかった。処刑はされないものの、領地や財産没収の上に爵位の剥奪、そして無期限の懲役が待っている。

 それほどまでにこの国ではユリウスという存在は重要なものだった。


 エドワードのその言葉に青くなったハワードたちはすぐにその場を立ち去った。


「ありがと、助かったよ」

「いやいや。君たちの助けになったなら嬉しいことだよ」


 言動に芝居がかっているところがあるのは以前からだが、不思議とわざとらしさは感じなかった。むしろ、公爵家なのに驕った様子の無いエドワードに好感を抱いていた。


「ところで……」


 エドワードが何か言いかけた時だった。


「「「エドワード様ぁ」」」


 ホールに何人もの声が響いた。

 いつもの事なのでクリスもエドガーも驚きはしなかった。

エドワードは「やれやれ」と軽く肩を竦めた後、クリスとエドガーに軽く腰を折ってみせた。


「では失礼」


 颯爽と身を翻したエドワード後を数人の女生徒が追いかけていった。


 エドワード・セシルは背はクリスより頭一つほど高く、緑の目はいつも宝石のように輝いていた。

手足は長くすらりとしていて無駄な肉が付いていない。運動も勉強も出来るし物腰がやわらかい。女子たちの間でファンクラブができるほどの人気者だった。


「何か、疲れたな」


 先ほどとは一転して静まり返ったホールでエドガーはため息を吐いた。


「そうだな」

「そういえば、何の話をしてたんだっけ?」


 エドガーが訊くとクリスはユリウスの像に目を向けた。


「…ま、いいや」


 クリスはエドガーと共にホールを後にした。


***


 ベッドの上に横たわったクリスは暗い天井を見上げていた。

 窓から差し込んだ月の光が部屋の中に伸びている。その先にある机の上には分厚い本が乱雑に積まれていた。

帝国興亡記、ユリウスの生涯、大陸見聞録なの歴史書がほとんどだが、中には騎士を題材にした有名な物語もあった。


 本を机に並べたのはいいものの、読む気にはならなかったクリスはベッドの上に転がったのだった。

 学院には入ったばかりで勉強するべき事柄はたくさんある。学院生活に不満がある訳ではなく、むしろ入れてくれた両親と兄に感謝していた。家族仲が悪いというわけでもなく、学院でいじめに遭っているわけではない。


 悩んでいるのは卒業してからの事だった。

 クリスは勉学に励んではいるものの、状況に流されていることに不安を抱いていた。

学院で学んでいて分かったのは自分の中に芯みたいなものが無いということだった。


 やりたいこと、成したいことがクリスにはない。

まだ学院に入ったばかりだから、そういうことは追々考えればいいのかもしれないが、学院生活は二年しかないということが余計にクリスを焦らせていた。

貴族としてどこかの家に婿入りすることにはなるだろうが、それでも、ただ流されるだけでなく自分で考えて正しい道を選びとりたいと思っていた。


(何か、見つけたい)


 クリスは窓の外にある満月に向かって手を伸ばした。

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