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「………父さん、お願いが、あります」
鈴音はかしこまった口調で蔵人に呼びかける。
蔵人はゆっくりと鈴音を見ると一言「……言ってみろ」と身体を鈴音に向ける。
「……これから私は、花菱や父さんに頼らずに生きていきたいと思います。もう花菱家には戻りません。私が今やりかけている仕事は一週間以内に必ず完遂させます。──だから」
そこまで言い切ると鈴音は言葉を探すように黙り込む。
不安げに俺や千鶴を一瞥した後、息を整えるかのように浅く深呼吸をした。
意外だったのはその間蔵人は話を遮らず黙って鈴音の言葉を待っていたことだった。
少しして鈴音は、俺の隣に立つ。
何をするのかと疑問を抱いたのは、一瞬だった。
鈴音は、俺と同じように蔵人に土下座をしたのだった。
「………だから、私を自由にして下さい」
娘の土下座を目の前にして、蔵人はほんの一瞬だけ、驚いたような表情を見せた、気がする。
「妹にも、母にも、佐倉家にも手を出さないで下さい。私の大切な人なんです。……お願いします」
「私からもお願いします。姉を解放してあげて下さい」
最後は千鶴だった。
鈴音とは反対側にちょこんと座り込むと倣うように頭を垂れる。
俺は、もう一度はっきりと蔵人に頼みこんだ。
「お願いします、2人を自由にして下さい」
──やがて。
「……………そういえば、初めてだったか。こうしてお前にお願いとやらをされたのは」
昔を思い返すような口ぶりで蔵人は呟く。
「鈴音」
「は、はい!」
「そしてお前らも頭を上げろ。いい加減見下ろすのにも疲れてきた」
その言葉を聞いて俺たちは立ち上がる。
眼前には相変わらず蔵人の氷の様な鋭い眼光がある。
無表情なその顔からは何も窺い知る事は出来なかった。
「──いいだろう。好きにしろ、出来損ないめ」
そんな捨て台詞を吐いて、蔵人は部屋の出入り口へと向かう。
「お前がやるはずだった仕事についてだが、もうやる必要はない。後の事は鷲津に手配させる。精々そこの世間知らずに守ってもらえ。──家族というのは、助け合うものなのだろう?」
その言葉を最後に蔵人はそのまま音も無く応接間を後にした。
「……ありがとうございます。
──さようなら、父さん………」
そんな鈴音の言葉が届いていたかどうかはついぞ解らなかった。