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「それは、ダメです」
千鶴はそう一言、優しい声色でゆっくりと告げた。
「…だって…私一人が幸せになるなんて出来ません……。もしも私が会長と離れ離れにならなければ、きっと状況は違ったと思うんです…」
先程千鶴が話していた言葉の切れ端。
それは千鶴の後悔の思いだ。
「こうなってしまった原因の一端は私にだってある…。──だから、もし私が身代わりになれるなら……それが一番じゃないか、なんて思ってしまいました…」
「千鶴!」
鈴音が叫ぶ。
その必死な声に千鶴は。
「──でも、違ったんですね」
そう微笑んだ。
「会長は言ってくれました。──私を家族だと」
その言葉はまるで歌声のように胸に響いていく。
「兄さんは言ってくれました。──血も繋がってない、接点すらないただの後輩だった私が、大切に思えてきたんだと」
俺も鈴音も、蔵人ですらも。
その旋律に、その歌声に魅了されているようだった。
「いつか会長が言ってくれた、弱い所や足りない所を見せあってなお寄り添い合う。それが理想の家族像だという言葉は、誰か1人が犠牲になってしまう選択をするという事ではないんだと思います。私が身代わりになるのも、会長が全ての荷を背負うのも違う。……それを、忘れてしまっていました」
やがてそれは強い意志を持つ力強い響きへと変わる。
「私は、あなたの思い通りになんてなりません。姉にも手を出させないし、花菱家の繁栄のために犠牲になる気も、ありません」
そう言い放った。
──その眼は見慣れた千鶴の、子犬なような愛らしい瞳ではなく確固たる意志のある眼光に。
──その声は、澄んだ穏やかで優しい、凛とした風鈴のようで。
──その表情は怯えを見せず、蔵人の眼光にも怯まず相手を見据える。
まるで花菱鈴音のように。
本当の強さを持つ少女は真っ直ぐに父親の思い通りにはならないと断ずる。
──それが佐倉千鶴が出した答えだった。
その姿に、心臓が高鳴った。
「花菱蔵人…さん」
俺は無意識的にその名前を呼ぶ。
身体の奥が何故か熱かった。
そしてその熱は全身を伝わり、最後には言葉となって降りかかっていた。
「俺は、あんた達にしてみればその辺に転がっている石ころ並みの価値しかないんだと思う。何の力も無い平凡なクソガキだ……自分が嫌になるくらいな」
「…………」