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~幕間・鈴音~
深夜に佐倉家から帰った後すぐに、うんざりする量の書類とパソコンの中にある膨大なデータに目を通すことを命じられた私、花菱鈴音は自室にて未だ終わる気配のない作業に追われていた。
決して難しい作業ではないし、この後命じられたスケジュール内容を考えれば大した苦ではない。
けれど1つだけ、昨日の会合からずっと、本当に嫌でたまらないことがある。
昨日、蔵人から街のお偉い方との会合でのことだ。
私はすごく嫌な事を思い出し、溜息をついた。
──あの日、会場である街外れの旅館の一室に通された時、私はわずかの違和感を感じていた。
気づいたのはすぐだった。
いつもこういう場には決まった面子が揃うはずだ、私はもう何回も会合に連れられてきている、知った顔しかいないはずだ。
なのに今この場にはたった一人知らない顔の男がいた。
対面に座っているその見知らぬ男性──恐らく私の倍以上の年齢だろう──は、小さく会釈すると私に値踏みするような視線を人知れず送る。
やがて男は、その視線を私の全身に送り、ニタァと口角を上げた。
私はそれに必死で気付かない振りをしていたが、今思えば罵詈雑言を浴びせた上で顔面に蹴りの1つでも入れてやればよかったと後悔するくらいだ。
話し合いは滞りなく進んだが、男のそのねっとりとした、鳥肌が立つ様な視線は会合が終わるまで私を逃がさなかったことを良く覚えている。
出来ればもう二度と関わりたくない、そんな印象の私が生理的に受け付けないタイプの人間だった。
蔵人から対面に座っていたその男が私の「婚約者」だと知らされたのはそれから帰りの車内だ。
男は日本でも有数の資産家の1人息子らしい。
花菱の親類の中で既に話はまとまっていた様で私には事後報告という形で今後の私の身の振り方を車内で淡々と告げられたのだ。
まるで身売りだな、と嘆息する。
話を聞いたときこそ取り乱したが、今の私はひどく落ち着いていた。
取り留めの無いことのように話す蔵人の口調にはもう慣れた。
いずれはこういう日もきっと来るだろうと正直何処かで諦めさえしていた。
彼らが思いつきそうな下種な商売だと得心さえいったくらいだ。
私の人生にはもはや学校など不要な場所だと学校すら行かせて貰えなくなった。
虫唾が走るほど嫌だが、仕方ない。