目の前の君。
第2話
手を引いて歩く岸辺君の後ろ姿は、どこか落ち着きがなかった。
こちらを見ようともしないし、前を歩いている人々の間をするりと抜けていくし。
少し様子がおかしいように見えた。通勤ラッシュになれていないせいなのかもしれないが。
「春山さん」
考え事をしていた私の目の前に居た彼は立ち止まり、こちらを向く。
頬はほんのりと赤く、耳は少し熱を持っているようだった。
「帰りって、予定とかありますか……?」
「ううん、ないけど」
「じゃあ、夕飯ご一緒しませんか?」
「……うん」
間を置いて返答すると、心底嬉しそうな顔で私の手を握ってきた。
はっとして手を離すと背を向けて、また腕を握ってくる。
手を握ればいいのに、と思うが、そうはいかないのだろう。
私だって、もしもこの男性と手を繋げと言われても、そうそう出来るわけではない。
岸辺君は握りしめた腕を引きながら、また歩きだした。
改札が近づく度に、少しだけ速度が落ちている気がする。
私の気のせいだろうか。いや、私の願望なのだろうか。
自分でも分からないが、何故だか時間が遅くなっているような感覚に陥っていた。
「岸辺君」
「はい」
「会社に着いても、私に会ったこと……言わないでね?」
「何でですか」
「その……恥ずかしいし、きっとバレたら怒られちゃうから」
「……分かりました」
顔は見えないが、背中からは落ち込んでいるように見えた。
何と分かりやすい性格をしているのだろう。
正直、心が読めてしまって、こちらが恥ずかしくてたまらない。
ポケットの奥にあった鍵を握りしめると、今日も間違えて持って帰ってしまえばいい。
明日もまた、こういう風に会えたらいい、なんて思ってしまう自分が居た。
そんな幻想は束の間で、改札につくと彼は握っていた腕をぱっと放した。
「すいません。痛くなかったですか?」
「全然。力こめてた?」
「いや、分かんないっす。頭んなかごちゃごちゃしてたんで」
「仲間だね」
そういって微笑むと、彼は目を泳がせて、俯いた。
「とりあえず、また会社で」
「うん、またね」
「帰り……どこで待ち合わせします?」
「駅の出口で待ってて。会社に近い方でいいよ」
「分かりました」
岸辺君は私に手を振ると、自分のビジネスバッグを握って改札を出た。
心臓がバクバクと音を立てて踊っている。
もう、破裂してしまいそうなくらいに胸が痛い。
こんな感覚、初めてかもしれない。
「どうしよう……」
ポケットの中にあったSuikaを取り出し、改札口を出ると、会社への道を歩いていった。
会社に着くと、部署内では一番乗りだったようで、オフィスには何の音もなかった。
ふぅ、と一息つくと、羽織ったジャケットを脱ぎ、首からかけるネームプレートをぶら下げる。
そして、昨日誤って持ち帰ってしまった資料室の鍵をジャケットから取り出し、本来あるべき場所へとかけた。
「よかった……」
怒られないで済む、と思うと一気に安堵感が押し寄せてくる。
安堵感と共に、睡魔が私を襲ってきた。
「やばい……」
自分のパソコンを立ち上げ、眠い目をこする。
頭の中では起きなければいけないと分かっているのだが、昨晩思い悩んで中々寝れなかったせいか、瞼が思うように開かなかった。
こんなことならば電車の中で寝ていればよかった、と今更後悔するが無駄だ。
もう、意識が遠退きそうになっていた時、後ろから首に冷たいものを当てられた。
「ひゃぁっ!」
警戒心など無かったため、自分の声とは思えないような声がオフィスに響き渡る。
「そんな驚かなくてもいいじゃないっすか、缶コーヒーですよ缶コーヒー」
そう苦笑しながら立っているのは、先程私の事を満員電車の中で守ってくれていた男性だった。
彼は左手に持った缶コーヒーを私に差し出すと、「遠慮なく飲んでください」というなり自分のパソコンを立ち上げ始めた。
「ありがとう……」
あっけなく終わった会話に、少し寂しくなりながらも、もらった缶コーヒーをあけて口をつける。
「ぶっ……苦っ!」
想像以上の苦さに、思わず吹き出す。
幸い電子機器にはかかっていなかったようだが、あまりにも苦すぎる。
「春山さん、子供ですね……ぷっ」
「う、うるさいわよ!」
貰った缶コーヒーのデザインを見ると、【大人のブレンド】と書いてあり、その下には大きく【無糖】と書いてあった。
毎日飲むコーヒーには砂糖が少し入っているため、このコーヒーは私にとっては苦すぎる。
大人の味とはこういうことを指すのか、と一人で納得していると、向かいのデスクでツボにハマっている岸辺君が視界に入った。
「笑いすぎでしょ」
「はは、すみません。いやぁ、春山さんってやっぱり俺の想像通りっすわ」
「はぁ?」
「家で飲むコーヒーとか、砂糖とミルクないと飲めないでしょう?」
図星だったため、無言でにらみ続ける。岸辺君は余裕の表情でこちらを見ると、鼻で笑い、
「図星っぽいですね」と一言いうとキーボードをカタカタと弾き始めた。
「何よ……」
悔しいと思いながら、私自身も今日の仕事の準備に取り掛かる。
まずはエクセルを開いて、設定をして。それからワードの設定もして、自分のオフィスで使われているコピー機に新しい用紙を入れる。インクも切れているようだったので、新しいインクも詰める。
これで完了だ、と呼吸を落ち着かせると、オフィスの扉が開き部長が入ってきた。
「おはようございます」
そういってお辞儀をすると、部長は驚いたような声でおはようといった。
それもそうだ。毎日点呼の10分前に来るような女が、今日は自分よりも早く来ているというのだから。
驚くのも仕方がなかった。
その様子を見ていた岸辺君は、クスッと笑うと挨拶をした。
部長は慣れたような様子で挨拶を返すと、自分のデスクのパソコンを立ち上げ、自分の上着をイスにかける。
察するに、彼は毎日この時間帯に来ているということだ。
では、今まで準備をしていたのは彼で、いつもいつもコピー機の用紙を入れるのも彼だったということになる。
数か月前までは自分がしていた仕事を、今度は彼がしているのか。
何だか、先輩ということを今やっと自覚した気がする。
――こんなだから部長に毎日怒られるのだが。
と自嘲気味に目を落としながら椅子に座る。
目の前に座り、無言でキーボードを打つ岸辺君の顔をうかがうと、彼は既に仕事人の顔をしていた。
自分とは対照的すぎるくらいにタイピングは早く、しかも集中力もある。
その上気遣いも上手い。こんな新入社員、部長が気に入らないわけがなかった。
しかもこんなに朝早くに一人で来て、準備までして。
きっと、彼は部長の中で株が最高に高いんだろう。そして私は最下位。
聞かなくても分かるほど、目に見えていた。
「はぁ……」
そう考えると気が重くなるが、気持ちを切り替えよう、と身体を伸ばし、よしっと意気込み、目の前にあるデスクトップの液晶画面と、資料を照らし合わせる。
液晶の横からちらちらと見える彼の顔を見ると、真剣そうな表情で仕事に取り組んでいた。
胸の奥の何かがどきどきと疼いているのが分かる。
「ダメだ、集中しよう」
顔をぱんぱんと叩くと、目の前に置いてある仕事に取り掛かったのだった。