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音シリーズ

七つの音をあなたに

作者: 伊那

 それをこなすのは容易ではない。だが彼女の矜持が足を動かしていた。ただ自分を弱い人間だと見せたくない一心で、長い指で弱い足を隠す。

「ごきげんよう」

「こんばんは」

 装いは宵闇の下でも輝けるようにと艶やかできらきらしい。その中でただ一人、身のどこにも装飾品をつけていない女性がいた。少女のように細身だが、背は低くも高くもない。

 入り口から奥へと進むと現れる広いホールの下、照明の光を反射させ人々は華やぐ。彼らは日のない夜でもきらめきをその身に受けようとやってきた者たちばかり。流行の衣装を着、それぞれの益になる事を、自尊心を満足させる相手と、自分のために口を開く。

「稀少なワインが手に入りましてな、是非貴殿と、と思いまして」

「それで、その殿方はわたくしになんとおっしゃったと思います?」

「では、一度我が社の商品をお試しになってください」

「残念だけれど、あの方はおすすめしないわ、あら、何故ですって? それはね……」

「困るのは其方だろう、いつまで強情を?」

 己の事しか主張しない彼らは、その社交の場を彩るものに気がつく事はない。磨きこまれた食器に置物、常に新鮮なものを揃えた食事、色とりどりに咲き誇る花々。カーテン一つ取っても丹念に計算された重ね方をしているというのに、彼らはその裏にあるものを何も知らない。テーブルクロスを真っ白に保ち、ぴんとしわ一つない完璧な姿に仕上げるのに、どれだけの人間がどれだけの時間をかけてきたか知る由もないし知ろうとも思わないだろう。楽の音を奏でる楽師たちが何のためにそこに居てそうしているのかも、見当がつかないだろう。その一つなのだ、ドロシーが座る椅子の前にあるものも、彼らには何だか分からないに違いない。

 今夜もドロシーはピアノを任されている。“場にふさわしい音楽であれば何でもいい”というリクエストの元、鍵盤を沈ませる。夜会にショパンの夜想曲(ノクターン)という自分の安易な発想には鼻で笑いたくなるが、どうせ何を弾いても彼らの耳には届かないに違いない。

 七色の音色を奏でる間だけは足の事もドロシーとは無関係になる。この一瞬は何も勝る素晴らしい時間なのだ、この際ピアノを弾けるのならどんな曲だっていい。彼女が自分を取り戻せるのはこの瞬間しかないのだ。

 それでも、制限時間(タイムリミット)は刻々と迫ってくる。足のせいか病気のせいか何にしろ、ドロシーが長時間音楽を奏で続ける事は出来ない。右足の不調がとてもうるさく、指にも力みが生じてくる。たった一本の足がドロシーの体全てを阻害する。右足からじわじわと侵食してくる痛みは、いずれ精神もむしばむほどに肉体全てを支配する。苛立ちが彼女に浸入してくる。

 少し休もうと決め、ショパンを終わらせて、長い長い息を吐き出す。これまで我慢してきたものだ。これを出すと全て終わってしまったように感じる。せっかくの鍵盤の時間がなくなってしまったのだ。ドロシーがドロシーでいられる間が、泡のようにはじけてしまったのが分かる。ピアノがなくとも、夜会はなめらかに進行していく。一体何の意味があってドロシーはここに居るのだろう。彼女自身はピアノが弾ければ何でもいいが、彼らは音楽を必要としてはいない。ここでなくとも音楽は奏でられる、出来ればどこかちゃんとした人間の居る世界で鍵盤を叩きたかった。

 痛む足を休ませている間も右足はドロシーの健全な精神を蝕んでいく。もう膝の上まで鈍い痛みを訴えてくる。今少し、休ませる時間が必要だ。ドロシーがドロシーでいられない、苦痛の時間。

 奇妙にカーブを形作る、グランドピアノ。黒曜石のようにシャンデリアの光を反射して、まるで宝石だ。ピアノ、不思議な楽器だ。弦をハンマーで叩いて音を出そうなどと、一体どういう発想で思いついたのだろう、先人の知恵には驚かされる。この奇妙に大きくて重厚なピアノが、たった一台で三次元的な深みと奥行きのある音を奏でるのだ。十本の指とこの鍵盤楽器で、長い歴史と厚みを持った書籍のように重みがあり、何度も絵の具を重ねた絵画のように色鮮やかで、長い計算の後に生み出された数式のように美しく、五感の奥を刺激する旋律を奏でる。もちろんモノクロの鍵盤を叩く指の持ち主が音楽の才能を備えていなければ、その振動が生み出す芸術は芸術足りえない。ドロシーは自分に才能があるとは思っていないが、重ねた練習だけは人一倍だと信じている。だからこそピアノを弾く間だけ、なりたい自分になれる。けれどこれを突然失って、明日はピアノのオファーが来なかったら? と、手に入らないかもしれない未来に怯える。

 一つ鍵盤を押し込むと、清らかな音色が意味のない振動となって空中に飛んで行く。ドロシーはこうした音のひとつになりたかった。ぽんと鳴ると、人の耳に届く存在。目には見えないが、他のどの感覚よりもはっきりと人の心に何かを残す。触覚よりも、視覚よりも、嗅覚よりも、味覚よりも、心臓に直接訴えてくる。そんなものになりたかった。絵画や彫刻など視覚情報による芸術だって好きだ。絹や天鵞絨(ビロード)のような心地よい手触りも、ごつごつした木肌を触るのも嫌いではない。鼻腔をくすぐる香辛料を嗅ぐのだって悪くはない。もちろんそれを口に含んで舌で味わうのも。だが音楽には、意味のある音には、美しい振動には叶わない。ドロシーは音楽を愛している。七つの音を奏でる事に心血を注いでいる。

 だが世界はドロシーを愛してはいなかったのだろう。こんなところに追いやられるのではなければ、彼女は神だって信じていたはずだ。右足が彼女の前途を阻むまでは全て順調だったのに。

 ドロシーの雇い主が、鳴り止んだ音楽の再開を催促するために彼女を睨みつけていたのだが、遠くにあってドロシーは目を伏せているため気づかない。まるで目に見えぬ何かを探るため一部五感を遮断しているかのようだ。

「よく出来た彫刻だ」

 不快な音に邪魔されるまで、ドロシーは瞼の下で黄金色の音を聴いていたというのに。

 目の蓋を持ち上げ、水晶体の中に入ってきた映像に顔をしかめる。

「またあなたなの」

 ドロシーは額にしわ寄せ、嫌悪をあらわにする。それを受けて相手はむしろ楽しそうにしてみせた。あまり上品とはいえないが、粗野というのでもない、どこか皮肉な笑みだ。

「驚いた。ピュグマリオンにでもなった気分だ」

 ダレル・フェアフィールド。このお行儀のよい社交の場では少しばかり襟元がゆるんでいるようだが、きちんと身なりを整えた青年。夜会で唯一ドロシーの事を視界に入れる事が出来る人物だ。彼は演奏の邪魔をする。そして、今のような持って回った彼の台詞が大嫌いであった。足の事があってからは、ドロシーの容姿など「美しいのにあの足じゃ」という“豚に薔薇”の代名詞のように使われてきたから、ダレルが言う神話の中の人間になった彫刻(ガラテア)と一緒にされるのはごめんだった。ダレルがピュグマリオン王であってドロシーが彫刻だと言うのなら、まるで彼は王のようにドロシーに恋しているかのようではないか。いい迷惑だったが、ダレルがドロシーに対して真剣なおつきあいを考えているようには全く見えない。彼は心にもない言葉を口にしてドロシーをからかうだけ、彼女が苛立ちを見せたらすぐに退散するだけ。

「何か用なの」

 言ってから、黙って演奏を再開させればよかったと後悔する。ドロシーは自分の仕事に戻って、彼を相手にしなければよかったのだ。

「さあ、何だったか。アフロディーテのような君の美しさを前にして、全てが消え去ってしまった」

 あんな移り気な女と一緒にしないで、と言葉にしかけてやめた。どうせダレルは美と愛の女神が幾人もの男と浮名を流した事になど興味はないのだ。神話から引っ張り出して自分の言葉に壮大さを与えたかっただけ。

「ではあなたもどうぞ、その“全て”とご一緒に退散なさったらいかが」

「ふむ、今宵の君はアルテミスのように手厳しい」

「アクタイオンのようになりたくなければ、早々にここを去るべきね」

 この神話修辞ごっこがいつまで続くのか分からないが、早速ドロシーは言葉を直接的なものにする。狩りの女神(アルテミス)の怒りを買って矢に射られるといい、そういう意味をもこめて。

 ダレルはドロシーに近づいてこない。彼の指定席はグランドピアノの少し窪んだところ、鍵盤から離れた場所だ。紳士的な距離を保ったままに淑女に接する。

「女神の裸身を盗み見た覚えはないのだが、そのためだったら何頭の犬とも戦おう」

「あなたのそういうところが、嫌いよ」

 女神アルテミスは沐浴の瞬間をアクタイオンに覗かれ、怒ってアクタイオンを鹿に変え犬たちに襲わせる。ドロシーをアルテミスにたとえるというなら、ドロシーの裸を見たいと公言しているようなものだ。たとえそれが真実で、そんな事にはなり得ないと分かっていても、そんな場面を想像させる一言は必要ない。一歩嫌味に踏み込んで言えば、下品な冗談、だ。それでもきっとドロシーにはやましい心を抱いているのではないだろう。彼はドロシーをきちんと正面から見た事などない。ごく稀にホールの隅でピアノを弾くドロシーを見つけ出し声をかけてくる男性もいるが、彼らのような“意味深”な瞳を向けてきた事は一度もない。ダレルはただ暇つぶしの相手にドロシーを選んでいるにすぎない。

「残念だな。俺は君のそういうところが好きなんだが」

 “そういうところ”がどこを指しているのか気にはなったが、わざわざ問うようなドロシーではない。やはり自分の作業に専念しようと両手の指をモノクロの鍵盤に広げる。シューベルトを選んだのに特に理由はない。ただ、彼の音楽は嫌いではなかったから、嫌いな人間を前にして親しみを持てるものが何か一つでもほしかったのかもしれない。十本の指がそれぞれ奏でたのは、どこか辛気臭いところのある小夜曲(セレナーデ)。ドロシーも明るい曲ではないと思いながら好きな曲だ。彼女は明るい曲調よりも、どちらかというと暗い印象を与える曲調の方が好きだった。何故だかは分からない。いつからか彼女に巣食うようになった、後ろ向きの精神と合致するところがあるからかもしれない。もう二度と、あの明るい場所には立てないと知っているからかもしれない。

 引きつるかのように自由を失っていく右の足が、とっくにペダルも踏めなくなっていたのに石のようになっていく。彫刻から人間になったガラテアとは正反対に、ドロシーは大理石の彫刻になろうとしているかのようだった。重たい半身だ。ピュグマリオンが覚えた感動とは反対の方向に向かう、命を失っていく、気の遠くなるような思いに脳内が侵食されていく。一度、左の薬指を上手く動かしそこねた。足がああだから、自由な手の指だけはミスをさせたくないのに。苦いものがドロシーの中に広がっていく。

 静かでありながらも盛り上がりのある曲を弾くには、苛立ちをぶつけるような情熱があふれすぎている。ダレルは今の演奏にそう評価を下した。彼は自分の存在を無視してピアノを叩くのに没頭しているドロシーを飽きる事なく見つめていた。二つの目で、真っ直ぐに。

 明るいだけの曲は彼女には似合わない。社交辞令の一部のような作り上げた笑みではなく、ほんのわずか口元を上げるだけのそれで、ダレルは瞳の中のドロシーを見つめ続けた。

 いつの間にか夜会はほとんど解散の域にまで達していた。閑散としてきたホールに音楽は必要なくなった。それを教えるためにドロシーの雇い主がゆっくりとやってくる。シューベルトを次の曲に変えようと思っていたドロシーは、咳払いによってそれを止められる。

「もう今日は帰ってよろしい」

 ただそれだけ。ねぎらいの言葉一つない。いつもの事でドロシーは慣れたものだったが、ダレルはそっと眉を寄せた。仕方がない、ドロシーはかつての音楽界の寵児、しかし今は落ちぶれた元人気者。有力なパトロンを失った彼女にはその日払いの細々とした仕事だけが頼りだ。雇い主がノーと言ったらドロシーは職を失うのだ。

「なあ、ドロシー。君さえよければこれからどこかの店に行かないか?」

 去っていった雇い主を視界から遮るようにドロシーの前に立ちはだかると、ダレルは提案してきた。ドロシーは椅子の背をしっかりと握ってから立ち上がる。決してよろけてはいけない。右足はもうまともに動かないが、気力でそれをねじ伏せる。動かなくたって、動いているように見せるのだ。

「今が何時だとお思いで? 子供は帰って寝る時間よ」

 ダレルはどんな悪態をついても嫌がらないのに、子供扱いをひどく嫌う。やはり交渉が決裂した商人みたいに不機嫌になる。

「君は、どうしていつもそうなんだ?」

 夜会の会場には招待客がいなくなっていた。これから着替えて帰宅するドロシーも、すぐにホールからいなくなるだろう。ダレルがそこに立ってさえいなければ。二本の足では歩けないけれど、まるで右足が動くかのように振舞わねばならず、ドロシーはダレルの対応がおろそかになっていた。

「なあ」

 手首を掴まれて、必死に保ってきたバランスを崩される。近づきかけた地面、叫びそうになったところを、ダレルに支えられる。

「離して」

 彼のせいでドロシーは体の体勢を崩してしまった。それなのに彼に支えられて立つなんてまっぴらごめんだ。

「いつも、俺の言う事なんて信じていない。違うか? 信用なんてしないもんな」

「そうよ、その通り。だったらどうだっていうの」

「どうして信じない」

「あなたの言葉には誠意がないわ」

「どうしてそう言い切れる」

「あなたは私の目を見て話さないじゃない」

「そんな事はない」

「――人間の作る音は嘘ばかり」

 ぐっと、相手の胸を押しやった。ドロシーは転びそうになるのを覚悟で無理矢理にダレルから離れようとしたのだ。意外にも、それを押しとどめるような妨害は入らなかった。

「ドロシー」

 挨拶のひとつもなしにそのピアニストはホールを後にした。隠す事の出来ぬ右足を引きずる姿をダレルに見せながら。ドロシーは背中に降ってきた声が持っていた音の響きも、こめられた感情も何もかも自分と関係ないものだと見なして、控え室へのドアへと消えた。


 ドロシーはかつての栄光のピアニストだ。今は日雇いの、規模の小さい催しものの一角で音楽を奏でるだけの存在。ある日突然不自由になった右足のせいだ。元からなかった才能が途切れてしまったのかもしれない。とにかく場末に追いやられたただの楽師に、目をかける者などなかった。夜会の会場でダレルに見咎められるまでは。彼の事が嫌いだ。ドロシーがピアノを弾く時間を奪うからだ。ポンコツの右足と一緒だ。ドロシーからピアノを奪った右足。

「やあ」

 屋敷の裏口から出てきたドロシーを待ち構えていたのはダレル・フェアフィールド。きっとドロシーの右足以上に忌々しい存在。

 相手を無視し、不恰好に歩くドロシーを、ダレルは焦りながらも引きとめた。

「待ってくれ、条件を聞こう。どんな理由があれば俺の同行を許してくれるかな」

「まさか、私の家に来るとでも?」

 テレビの前で他者を罵倒した政治家でも見るみたいな目でドロシーが振り返ったので、ダレルは慌てて訂正する。

「いや、どうしたら食事(ディナー)にご一緒してくれるのか、っていう意味だ」

 尚も非常に胡散臭いものを見る目をやめないドロシーに、ダレルは言葉選びの難しさを思い知る。

「世界にたった一つしかレストランがなくて、そこに客としてあなたがいたらの場合、他に行くところがないので同じ店に入ってもいいでしょうね」

 もらえた返事もすげなく、ドロシーは気丈に立って、歩き出す。ダレルは半ば呆れながらも諦めかけ、せめて彼女と歩く時間だけは確保しようと後を追う。

「それなら、お気に入りのレストランを言ってくれ。そこ以外は全部つぶそう」

「そんな事、出来ないくせに」

「それくらいの気持ちでもって君を食事に誘っているんだ」

 分かるだろう? というダレルの懇願は効力を持たない。ドロシーはむしろその“嘘”にうんざりしたようだ。無言になった彼女に、ダレルは自分の意思に反して動く舌が恨めしくなる。真実にはなり得ない事ばかり口にするからドロシーの信用を勝ち得ないのだろうか? 一種の冗談や、場の空気を円満に保つ言葉のあやだと思っているのだが、彼女にとってはそうではないらしい。ドロシーは、人に真摯に接してほしいのだ。

「では……今の言葉を真実にするのと、他の真実を口にするのと、どちらがいい?」

 言われて、ドロシーは頭が混乱した。彼女の困惑が分かったのだろう。ダレルはゆっくりと繰り返す。

「君の信頼がほしい。レストランを買収するか塵に帰す。そうでなければ君にちっぽけな真実をあげよう」

 ダレルの瞳は、ドロシーを見ている。まるで過去に嘘など一度もついた事のない人間のように、誠実そうに見えるくらいに、真剣そのもの。彼が本当に世界のレストランをたった一つにしてしまえる力があると思い込みそうになる。信じ込みそうになるが――彼のいう“ちっぽけな真実”とは何を指すのだろう。

「真実なんて、いつもちっぽけなものだわ」

 それを了承と取ったダレルは、首を捻る事で喜色に満ちた顔をドロシーから隠した。それに、ドロシーと長い間目を合わせておくのは彼にとって問題なのだ。

「実はもう、レストランの予約を二人分、取ってあるんだ」

 想像していたものと違って、ドロシーは拍子抜けした。用意周到なのだか、気が早すぎるのか。まだ決まってもない家族旅行の話を聞いてはしゃぐ子どもみたいだ。ほころびそうになる口元を引き締めると、ダレルが彼女を向いてないのをいい事に、わざとぎゅっと眉を寄せてみる。

「では、お一人で行ってらっしゃいませ」

「さっきも言ったのに、もう一度直接的に言わないと駄目なのかな。ドロシー、君と俺との二人で、これから食事をしませんか?」

 ダレルはドロシーに顔を向けていた。彼女がついと視線を合わせると、慌ててそれをさまよわせ――それでも顔を逸らしたりはしなかった。

「しつこいのだとお思いなら、これで最後にするから」

 まるで片思い中の人間が思い出だけでも作ろうとしているかのような嘆願。ドロシーはこの日、いつもより疲れていた。右足からくる体の疲労は元より、いつも以上に他人と接する機会を与えられて辟易していた。それなのに、まだこの男と会話を続けなければならないのか。それでも、ダレルの申し入れは今後を思えば楽になるように感じられた。一回ディナーにつきあうだけで、もうつきまとわれなくなるのだろう。それならば。

「……分かったわ」

 ダレルが長年にわたる研究の成果が出てほっとした研究員みたいな顔をしたので、ドロシーはちょっとだけ承諾を後悔した。この男が約束を守るなんて事があるのかしら? そう思ったからでもあるが、自分の頬が盛り上がりそうになって困ったのだ。


 ドビュッシーの夢想。高級そうなレストランのどこにもピアノは置かれていなかったから、音楽再生機器を通しての音色だろう。ドロシーはこの選曲に満足した。

「この曲は本当に夢を描いているみたいだわ。甘くて、切なくて、まるで届かないものに手を伸ばしているかのよう。それでもきっと、届かないままなのにうっとりと眠るんだわ」

 アルコールなど一滴も飲んでいないのに、ドロシーは自分の意に反してしゃべり出す口に驚き手で押さえた。何を夢見がちな少女のように語っているのだろう。顔が熱くなっているのが分かる。

 食事はとても美味しく気分がよくなっていたのだろうか。お気に入りの音楽に、素晴らしい料理。それから相手がダレル・フェアフィールドではなければ、最高だったろうに。

「……仮にも音楽に携わる人間なら、もっと学術的な事を語れと、お思いでしょうね」

 自らの言葉に自身で横槍を入れて少し憤った様子のドロシーに、正面に座るダレルはちらと視線をやった。彼は右手で頬杖をつき、残る手で赤いワインのグラスを揺らしていた。時折手の中のグラスを見つめて、ふと思い出したようにドロシーに目をやるだけ。

 このレストランに来て、どうにも彼は寡黙になってしまったようだ。そのせいでもあるのだろう、ドロシーがおしゃべりになってしまったのは。気まずくはないが、沈黙を保ち続けるのははばかられる。

「いや。俺の方こそ音楽にも造詣の深い自分を演出できなくて残念だ」

 小さく笑むと、ダレルは急に顔をしかめた。「何?」ドロシーはここまで来た事に後悔をしながら問いかける。

「今ので君が自分の事を話すのをやめてしまうのではないかと思って、もっと気の利いた事を言うべきだった、と」

「自分の事なんて話してないわよ」

「でもドビュッシーを聴いて君が思った事だろう?」

 ダレルの手がグラスを手放すのを見ながら、ドロシーは相手にいつもの調子が戻ってきたのだろうかと、少しだけ息が楽になったのを知る。

 スピーカーからのドビュッシーが終わり、音楽再生機器の放出する振動が、ハチャトリアンの仮面舞踏会のワルツへと変わる。出し抜けにレストランの空気が静から動へと変わったのが分かる。まどろみの中から煌々と輝く明かりの下に連れてこられたかのようだ。

「あんなのは感想にすぎないわ。所感じゃ音楽なんて語れないもの、意味なんてない」

「そうかな。音楽っていうものは、一人一人感じるものが異なるから素晴らしいものだと考えているんだが」

 机上のワイングラスとドロシーを行ったり来たりしていたダレルの視線がドロシーで固定された。

「あなたって、自分に都合のいい言葉ばかり口にしてるみたい」

「そりゃそうだ。誰だって自分を通してしか世界を見られない。言葉だって一緒だろう」

 なんという理屈だろう。確かに、人はいつだって自分の主観からは離れ切れないのかもしれないけれど。ドロシーは笑ってしまった。ここがどこで、相手が誰であるかを忘れてしまっていた。誘いを受けたのはそう悪い事ではなかったかもしれないと、錯覚していた。


 レストランを出ると冷えた風が二人に吹きつけてきて、揃って肩をそびやかした。店を出る前から会話は減った。お互いにこれが最後と分かっていたからだろう。レストランを出て、歩く事もせずドロシーとダレルは沈黙を守るのに専念していた。

 ドロシーにしてみても、名残惜しいという気持ちこそないものの、何と告げてダレルと別れたらいいのか分からなかった。これでつきまとわれる事もなくなると、すっきりしていいはずなのに。店の中では座っていて楽になっていた右足も、存在を訴えるかのようにまた重たくなってきた。まるで今の彼らの間をただよう空気のように。

「さよならのキスを」

 唐突に言われて、ドロシーは戸惑ってしまった。最後だからと言われてしまうと拒む事が難しくなってくる頼みだから。

 どうしたらいいか分からず、顔に触れられるのは嫌だったので、右手を差し出した。ダレルは不満そうだったが、ドロシーがそれを引っ込める気配がないのでその手をとった。

 手にキスをするために、顔はうつむいていたというのに、ダレルの瞳はまっすぐにドロシーを見つめていた。挑発的な、獣の目。それでいて少し、悲しみと憂いを帯びる。唇を離してからは、ドロシーの手に視線を注ぐ。彼女の五指を宇宙人のものだと思っているかのようにじっくりと眺めて離さない。触れられている手がくすぐったくて、ほんの少し熱かった。ドロシーはその熱が相手に移るのを恐れ、急いで自分の手を取り返した。

「ディナー、ごちそうさま」

 それだけ言うと、ドロシーは踵を返した。料理は美味しかったし、店の雰囲気は悪くなかった。だからそれくらいは言ってもいいと思ったのだ。ダレルは「タクシーを」と車を自分の下へと呼び寄せた。ドロシーの手をもう一度取ってゆっくり引き寄せると、タクシーの中に押し込んだ。一度もドロシーの顔を見なかった。

 ガラス越しについダレルを見上げると、彼は何かを堪えるような苦しそうな顔をしていた。彼は、本当にドロシーとの別れをこれで最後にしようとしている? それを悲しんでいるのだろうか? 動き出した車が、ゆるやかにダレルの姿を背後に置き去りにする。ドロシーは首を曲げてみた。もう表情なんて見えないくらいに遠くなってしまって、見えなくなるまで彼女は彼を見つめていた。

 そういえば彼があんな風に長い間ドロシーを見つめるのははじめてだった。ドロシーをからかうように、親しげに話しかけるくせに彼は人見知りする小さな子供のように、彼女と目が合うとすぐ他所を向いてばかりいたから。

 今日のダレルはこれまでに接してきた彼より真っ当だった。だからこそ、ドロシーには不釣合いな人。彼女は自分の身分をよく理解していた。現代の社会は貴族がいない分、富裕層がそれに取って代わっただけ。身分違いんて古臭い事は思わないが、そうでなくともこの右足を抱えるドロシーには見合う人など居ない。

 昔も今も、ドロシーにはピアノが全て。白と黒の世界に没頭していれば、きっと彼の事も忘れられる。何もはじまらなかった関係は、すぐに余白に変わるだろう。目覚めたら忘れる夢のように。届かなかった事も忘れて、夢想していた事もなくなる。

 遠い未来に思いをはせた時、体中に感情が溢れそうになった。それが何かは分からない。ただ破裂しそうなそれを押さえ込むように、ドロシーは自身の両腕を抱きしめただけだった。


 ダレル・フェアフィールドが海外へ飛び立ったという話を、ある日の夜会で耳にした。ドロシーは、遠方へ旅立つ予定があったからのあのディナーだったか、と感じた。彼はある企業の社長で、海外支店を増やすために自ら実地に赴いて、年単位で帰国しない予定だとか。聞きたくもないのにドロシーの鼓膜に届く情報。

 彼は異国の地で、遠い空を見ているのだろう。ドロシーは鍵盤に集中するだけ。ドビュッシーの夢想を奏でながら、ドロシーはグランドピアノの一部分に視線を動かしていた。洋梨のようにくびれたそこには、誰の影も差さなかった。

 ドロシーが、唯一彼女らしくいられる時間。常ならそれが楽しくもあり、快感であったはずなのに、その日は何度もミスを犯し、苛立つようになった。きれいな曲。大好きな曲。彼女がそう見なしているはずの音も――今は耳障りだ。

 目眩がしたかと思えば、突如の不協和音。ドロシーには何が起こったのかすぐには分からなかった。会場の少なくない人間がドロシーに目を向けている。一体何が起こったのだろうか。

 彼女の雇い主がやって来て、手を貸した。ドロシーはやっと自分がピアノの鍵盤に倒れこんだのだと知った。控えの間へと連れられ、ぼんやりとした頭で、ドロシーは常用している薬を飲むのを忘れていた事を思い出す。

 せっかくのドロシーの時間が、シャボン玉のように弾けて消える。儚い夢のように。

 控えの間では、雇い主が困惑しながらも尖った声でドロシーに告げた。

「君は足に不調があるだけでなかったのだね? 倒れるような体であれば、君との契約は考えなおさねばならん」

 この会場ではもう音を鳴らせない。長椅子にうずめた自分の体が、ひどく重たいのに今は忌々しいとは感じなかった。いずれ来るべき事態が訪れただけの事。世界は皆、ドロシーを忘れていく。誰もが皆、彼女を見放す。長い夢が、終わりを迎えたのだ。

 その日ドロシーは職を失ったが、この小さな事件は彼女に対する大きな波紋を呼んだ。

 ドロシーの存在を知る人間が、彼女の元に現れたのだ。


 長い間踏んでこなかった地に思えるそこは、しかしダレル・フェアフィールドの故郷だった。あれから何年、なんていう数を設定しても意味のない事だからやめた。もう一度会いたい人への思いは何年たっても変わらない。

 ダレルは当初、仕事で海外へ向かうつもりなどなかった。彼女との約束も、平然として破ってやるつもりだったのだ。誰があれで最後になどするものか、そう思っていたはずなのに、若き社長に対する重役たちの対応は冷ややかなものだった。結局は社会的な事情が、ドロシーをダレルから遠ざけた。空白の時間は短くなかった。帰国後すぐ彼女に会いに行こうと考えはしたが、さすがに実行に移す気はなかった。古い新聞記事を読むまでは。

『かつての天才ピアニスト、精神病院へ』

 日付はダレルが帰国した今からもう一年も前だ。ピアニストという文字に反応して目を通してしまったが、そこに羅列された内容のひどさに、見知った名前に、焦がれた(ひと)のフルネームに、彼は目を見張った。

 記事にもなったのは、そのピアニストが裁判沙汰まで起こして親族と戦い、敗北したのちに病院へと送り込まれたという悲劇的な最後を迎えていたからだろう。

 何が何だか、国を長く離れていた彼には分からなかった。その事実が今は腹立たしくて、古新聞を握りつぶした。


 それは地平線がどこまでも続く先にある田舎の小さな病院だった。常に誰かが声を上げていて、賑わった病院だった。それでも明るいというよりも、どこかこもった感情をそのままにしているような――とにかく、ダレルには少し居心地の悪い場所だった。というのも、ピアノの音一つしないこの場所に彼女がいるという事実が信じられないでいるからだ。音楽の欠片すら見当たらない、薄暗い病棟に彼女が居るのか。

 本当に、この病院にドロシーが? 自社の権力を使ってまで吐き出させた病院名だ、間違いがあっては困るのだが、あの娘がこの場にいるのだとは思いたくない。精神を病んだものがいる場所なのだ、ここは。そういった偏見をダレルは持ちたくないのだが、ドロシーがどうにかなってしまったというのなら――。一体、何が。

 覇気のないダレルは廊下を進んだ。看護婦に教えられた廊下の先に、一つの病室があった。簡単にたどり着いた扉を前に、いっそ迷子になってしまいたいような思いに囚われた。

 決意を閉じ込めるようにして握った拳で、戸を叩く。

「どうぞ」

 はっきりした返事が返ってきて、心臓を跳ね上がるのを感じながらダレルは扉を開いた。

 そこには痩せた娘が一人座っていた。ピアノの前に座っているのが似合いのドロシーがいた。驚いた顔をして、すぐにそれを引っ込めようとする娘。ダレルは思わず彼女に飛び掛るかのようにして抱きしめた。

「放して」

 彼女は以前より痩せてしまった事以外に、悪いところなどなさそうに見える。まるっきりの健康とまではいかなくとも、精神的に疲弊しては見えない。それどころか自分を拘束するダレルをうっとおしそうに押しやって、非難する。

 何年ぶりのドロシーの感覚に、腕の中に閉じ込めた事などないのにダレルは懐かしく思い、安堵する。これは、彼女のぬくもりだ。冷たく他人をあしらっても、一人で歩こうとしていても、消える事のなかったもの。何ひとつ失われてなんかいないじゃないか。

「あなたまで頭がおかしいと思われるわ」

 構うものかと思いながらも、渋々とダレルは腕を放した。すぐ近くで、苛立ちと困惑を混ぜた顔でダレルを睨み上げる娘の姿がある。どうして、何故彼女はこんなところに? ダレルの疑問が分かったのだろう、ドロシーは観念する事にした。自分の座る寝台ではなく、簡素な椅子を示してダレルを座らせた。嘆息して、ダレルからは視線を外してどこか遠くを見た。

「私には、家族が祖母しかいなかったの。彼女は多額の遺産を残していたわ。祖母にとっても私にとっても、家族といえるほど近しい存在だったのはお互いだけだったから、当然かもしれないけれど。遺言書がなかなか見つからなくて、その他法的手続きなどに時間がかかって、死後半年たってから、“彼ら”はやってきたわ――今まで祖母の事も私の事も他人と見なしていたはずの、親戚たちが」

 ドロシーの瞳は諦観を表わしていた。何もかも諦めた、病人のように。きっとその親族たちを恨むほどの気概もないのだろう。

「祖母は私に多くの遺産を渡すつもりだったから、彼らには私が邪魔だったの。もし彼らが私に与えられた財産を管理するならば、私の事も管理しなければならない。でも足を弱くした病弱なお荷物は迷惑なだけ。彼らは私を精神病院に閉じ込めて財産を取り上げようとした。私は抵抗して裁判所に訴えたわ。結果はご存知の通り、ここに追いやられて終わり」

 ダレルは、ドロシーの事を何ひとつ知らなかった。彼女の親しい家族が彼女の祖母しかなかったなんて。それも、資産を多く残せるような人物。更には、他者を簡単に蹴落とせる親類がいたなんて、知りもしなかった。

「これで私のお話はおしまい。分かったでしょう?」

「それでいいのか? これで?」

 何も知らなかったくせに、ダレルは勝手に口走っていた。

「私はもう働く事は出来ないの。足のせいで、こんなに貧弱な体になってしまった。それを世間に公開したようなもの。心の病も真実だと思う人はいるでしょうね」

 ドロシーは嘲るように笑った。それは自分に向けられているのだと思うと、ひどく胸が悪くなるような歪み。

「きっと誰も私を雇ってはくれないわ」

 取り上げられたのは祖母の遺産ではない。彼女のピアノ。それを弾く場所。なくなってしまったのは、ドロシーがこうありたいと思う彼女でいられる場所。

「君は、ピアノを弾くのが好きだったんじゃないのか?」

「好きなだけじゃ仕事はやっていけないわ」

「そうじゃないだろう、君はどうしたいんだ」

 どうもしたくない。平穏に、もうあんな風に親類という名の金の亡者と関わらずに暮らしていきたいだけ。それも本心だったのだ。

 ダレルは悔しかった。もちろん彼女をこんなところへ押しやった彼女の親類も憎くてたまらなかったが、何一つ彼女を自由にしてやる言葉を思いつけないなんて。自分自身が歯がゆかった。

 なんてちっぽけな自分。ちっぽけな、真実。いつか口にした事は本当だったのだ。ダレル・フェアフィールドは何の役にも立てない。爪の食い込む手の平が、強く拳を握ったところで何も出来ないと彼に教える。

「もう、ほっといて頂戴」

 さっとドロシーは顔を背けた。はっきりとした拒絶だった。こんなの、これまでに彼女に何回もされた。けれど、今回はダレルも強く出る事は出来なかった。彼女は諦めてしまった。ピアノから離れて、か細く続くだけの人生に抵抗もしない――。

 どうしたらいい。ダレルの思考は加速するが、何一つとしてまともな解決策が思い浮かびやしない。全くもって情けない。ドロシーとの会話や、出会って間もない頃の記憶がよみがえる。あの頃も、どうしたらいい、どうしたら彼女とお近づきになれるのかと煩悶していた。

 はじめてドロシーを目にした時だって、彼女はあの黒曜石のようなピアノと一緒だったのに。

「……きっかけは、君のピアノだったよ」

 黄金(こがね)色の音を聴いた。

 はじめてダレルがドロシーを見つけた時に彼女が奏でていたのは、ラヴェルの亡き女王のためのパヴァーヌ。曲そのものはよく耳にするな、程度にしか思ってなかった。

 聴くうちに、じわりじわりとしみこんできた気持ちを、ダレルは何と言おう? ただの空気の振動が、ダレルの心の奥深く、彼も知らなかった深遠にたどり着いた。自分には豊かな感性などないと思っていた彼が、ピアノの曲を聴くだけで、琴線を揺らされるなんて思いもしなかった。

 昼下がりの午後、太陽光が黄金と見まごうばかりに庭園を照らして、白い衣装を着た婦人が小さな子供を伴って歩いていく。幸せな、午後。だけれども、どうしてか涙の出そうな胸の奥が引きつれるように切ない。

 彼の心に映された光景は、ピアノの音が作り出したものだった。彼に空気の振動以上のものを与えた楽器とその奏者に、ダレルは火に惹かれる虫のように近づいた。

「君が俺の心臓を震わせたんだ」

 そこに居たのは、一人の女性でしかなかった。けれど、人は人の心を動かす力があるのだと、ダレルははじめて知ったのだ。あの音色の造り主。彼に美しい光景を見せたのはドロシーだったのだ、その手の持ち主も美しかった。ピアノを弾いている時の彼女が一番彼女らしかった。全身を使って全てを注ぎ込むかのように鍵盤を叩く彼女の音は、彼女そのものだった。ドロシーが一番自分らしくいられる時間だったからこそ、ダレルは強く惹かれたのだ。

 彼女があまりにもダレルの心臓を騒がせるものだから、彼はドロシーを正面から見つめる事なんて出来なかった。顔を合わせてはじめての挨拶も、いいところを見せようとして余計な事を言ってしまった。ドロシーはダレルを“うさんくさい変人”と見なしたような目つきをしていた。幾度か話すうちに、ほんのわずかでもドロシーが自分に気を許してくれていると分かった。それでも彼女がダレルを視界に入れてない時でなければ、彼はドロシーを見つめる事は出来なかった。

 またおかしな事を言ってしまうかもしれない。彼女に触れたくて仕方がない。顔が不恰好にゆるんでしまう。それらを全て飲み込むために、ダレルは目を合わせて会話をするのを諦めた。

「君が……」

 あふれ出そうになるのは、彼女への思慕ばかり。今はきっとそんな事はドロシーも聞きたくないだろう。しかしそれ以上に言う事が思いつかなくて、ダレルは彼女の様子を一瞥すると踵を返した。また来るつもりだった。どうするかまではまだ考えていないが、こんな場所、いさせやしない。出て行こう。駆け落ちを申し込むかのような、一番言いたい事が言えなくて、引き返すのだから自分はなんて臆病者だろう。それでも、もう一度訪れずにはいられない。

 扉を閉めると、ほとんど床にへたりこむようにしてダレルは戸に全身を預けた。

 部屋の中でドロシーがどうしてるなんか、考えたくもなかった。

 けれどダレルはそこを離れられなくて、もたもたしていた。その間、ドロシーが何を感じていたかなんて、彼が知るはずもなく。突如たてられた小さくない物音に、顔を上げるまで、ダレルは憂鬱に顔を染めていた。何があったなんて考えるまでもない。ドロシーの右足は一般の人間より強くない。何かに躓いてしまったのだろう。ドアノブに手を伸ばしかけて、ダレルはためらった。


『君が俺の心臓を震わせたんだ』

 一目惚れしたという陳腐な言い換えで片付けられるものだったかもしれない。ダレルはドロシーに気があるような素振りをしていた事があるので、そうなのかもしれない。

 けれど。ドロシーには自分の音楽があったからこそダレルは彼女に近づいたのだ、というような事を言ったのだ。彼女が一番大事にする時間を、何よりも素晴らしいと感じる芸術を、彼女が作り出したものを、よいものと思ってくれたのだろうか? 彼女の音色がかけがえのないものだと、まるでそう言ってくれたかのように錯覚した。

 ドロシーが常にほしがったのは、自分自身への賛辞ではない。自分の音色。ドロシーが音にすると動き出す、空へと飛んで行くそれへの賞賛。彼女の音楽。彼女のピアノ。彼女の全て。これを耳にしてほしかった。素敵だと言ってほしかった。

 はじめはピアノだったと、彼は言った。彼女が何よりもほしかったもの。彼女は音になりたかった。目には見えないのに、はっきりと人の真ん中にまで入り込む振動。美しい空気の動き。何にも勝る、至上の調べ。

 誰かに聴いてもらうために奏でていたはずが、いつしか誰にも届かなくなり、ドロシーも人のために音を作らなくなった。それなのにダレルは、彼女が編み出したものを聴いて何かを感じてくれたという。

 ダレルは何を感じたのだろうか。知りたくなって、ドロシーは重たい右足を引きずって、寝台から下りていた。忘れていた椅子にけつまずくと、案の定ドロシーの世界は反転する。みじめな自分。無様で、あまりにもかわいそうで仕方のない、あわれな娘。誰にだって相応しくない自分を知りながら、甘い夢を見ていた。自分は一人で生きていけると信じ、左足でふんばってきたけれど、もう矜持は失われてしまった。

 それでもドロシーは感じてしまった事を、止める事は出来なかった。

 もう一度、誰かの心をふるわせたい。

 ずっとしてきたかった事。技巧でもなく、栄光でもない。そんなものよりドロシーがほしかったのは、自分の十本の指が作り出す音で誰かに何か、世界にピアノがあってよかったと思うようなものを――届けたかった。もう一度ピアノを弾く。這って、部屋の出入り口を目指した。

 教えてくれたのがあなたなら――もう一度、あなたに。

 ドロシーが手を伸ばす前に扉が開いた。怪訝そうな顔のダレル・フェアフィールドは床の上のドロシーに血相を変えた。ドロシーの右足はそこまで悪くないというのに、ダレルはひどく負傷した兵士でも抱えるみたいに気を使って彼女の体を起こす。彼はドロシーを部屋の中の寝台へと連れて行こうとしたので、彼女は首を振った。

「私、ピアノが弾きたいの」

 ドロシーはゆるく微笑んだ。

「あなたに、聴いてほしい」

 ダレルは彼女の細い肩を強く抱きしめた。




 ある企業の社長が、とある病院の患者を一人退院させるためにいくらかの資金を動かしたと知るのは、病院の関係者とその社長しかいない。患者が誰で、社長とどういう関係性かを探ろうとする者もいない。彼らがどこから来てどこへ行くかなんて、誰も知らない。

 かつて栄光に包まれたピアニストが一つのレストランで再び音を奏でているなどと、知る者はなかった。彼女を追いやった親類も、病院関係者も。終生彼女の傍にいた男を除いては。

 ピアノを演奏する彼女の姿はとてもきれいで――自分の夫と目が合うと、彼女は一層美しい表情になるのだ。目元をゆるめて、まぶしげに。

 七つの音を奏でながら。

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― 新着の感想 ―
[一言] 音楽のことはあまり詳しくありませんが、ピアノを通じて1つの想いが成就してゆく様がゆっくり丁寧に描かれ、とても読み応えがありました。 派手な事件もそれらしいトラブルもないですが、淡々…
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