或る騎士の転機
「彼は、長き間にわたって我々に苦汁をなめさせた悪竜を、その剣の下にひれ伏させ、追放した。私は、この者に莫大な財宝と我が娘を、王位と共に与えたく思う」
王はうわずった声で国民の前で宣言する。すると、国民は熱狂してちぎれんばかりに彼に手を振る。白い薄絹をまとった麗しの姫君は頬を赤く染め、紫水晶の瞳で彼を見つめる。
しかし、彼は毅然として口を開く。
「誠に勝手ながら、陛下、私はそれらを賜ることはできません」
どよめく群衆。姫君は唇を噛みうつむいて、長いまつげの向こうから恨めしそうに彼を見上げる。王は顔色を変え、あわてふためきながら彼に問う。
「何故か?」
彼は姫君の手を優しくとり、甲に優しく接吻する。
「姫君、あなた様に不満があるからではございません」
姫君の瞳を見つめていた彼は、ふいに王の方を向き、片膝をつく。
「陛下、私は旅に出たいと思います。この世の果ての果てまで、この足で歩いてゆき、全てのものをこの目で見とうございます」
「そうか……」
王は残念そうに目を伏せる、だが、次の瞬間には笑顔を浮かべた。
「行って参れ。そして見てくるがよい、世界の全てを。旅に疲れたらこの地に戻ってくればよい」
「ありがたく存じます」
深々と頭を下げる彼。その傍らで姫君が彼の腕をしっかとつかむ。二度とはなさない、というように。
「我が娘と共に旅立つがよい、勇者よ」
人々の歓呼の嵐の中で、彼は立ち上がった。腕に姫君のほっそりした体のわずかな重みを、肩に幾千もの民衆の期待を感じながら。彼を称える声がこだまする……。
男ならば、一度はこんな夢を見たことがあるだろう。生あるうちは勇者と称えられ、死してからは英雄と崇められ、歴史に輝かしい功績とともに自分の名を残したいと思うのは、どの世界のいつの時代でも、男の常である。
だが、それはあくまでも夢でしかない。勇者とか英雄と呼ばれるには資質と力と運の三つが不可欠であって、それらを守護する三女神の寵愛を受けられる人物はごく稀にしか現れないからだ。
ジェルク=ダヴィエンもそうだった。否、34才を迎えた現在でもそうである。彼の住む世界での人の寿命は約60才であるから、こんな思いを抱くジェルクが多少奇異の目で周囲から見られている、ということも頷ける。
しかし幸いなことに、彼には良き理解者がいた。妻のリェインである。ジェルクとリェインは、同じ辺境のとある村の出身である。二人は、村で畑を耕し山羊の乳を搾って老いていく生涯に嫌悪感を抱き、村をとび出し王都ディラホーンに根付いた。
王都で最初に泊った宿屋で二人は監禁されていた当時15才の、ヴェナル公爵の娘であるセーナを偶然に救い、その功績を認められ、ジェルクはヴェナル家の騎士として任ぜられた。以来、セーナに仕え、セーナが王家にこし入れした後も仕えている。34才の今では、国王直属の一騎士小隊を指揮する騎士隊長にまでなっていた。だが、王都ではなく辺境の村で生まれたジェルクでは、それ以上の出世は望めなかった。
40前に騎士隊長に任ぜられたのは、600年にわたる王国史上でもジェルクで7人目であり、リェインとの間に生まれた現在8才の息子は、大賢者ラベールの生まれ変わりと称され、将来は神官長か王国宰相かと囁かれている。辺境の村で畑を耕しているのよりは、より、彼の夢に近づけたと言えよう。だが、それでも彼は幸せではなかった。
「俺が望んでいた生活ってのはこんなのだったのかなあ」
寄りかかった白い城壁の上では幾億もの星が瞬いている。騎士隊長とは言えども、このような平和な時代には夜警が重要な仕事なのだ。
だからと言って、平和より戦争時の方がよいと思うほどジェルクは若くはなかったし、好戦的な性格でもなかった。今の仕事に不満がある訳でもない。むしろ彼は今の時代と仕事に満足を覚えている。
城壁を背にし、門の側に直立不動。出入りする人々に少々威圧的な視線を浴びせる。これがジェルクの主な仕事だ。御陰で王族や貴族の「お近づき」になれる……と言っても、ごく事務的な会話を二、三、交わすだけなのだが。時々、王族や貴族でもまだ幼い子供達の相手をすることもある。セーナ妃の娘であるルイヌ姫が幼い時も、何度か馬になったりするなど、極親密なつきあいをしていた。深窓の姫君と称せられ滅多に人前に現れない乙女でも城門をくぐったことがあるならば顔を見たことがある、というのが彼の自慢である。
「おいジェルク、この生活の一体どこが不満だっていうんだい」
独言したところで答えが天から降ってくる訳でもない。
ところが、ジェルクの目の前に何かが落ちてきた。いうまでもなく、答えではない。よく見ると、それは白い石のかけらであった。城壁を形作っている、300年程前に国境付近の採石場から運びこまれたという石のものだ。
ジェルクは体に緊張をみなぎらせ、帯びている剣に手を伸ばした。風もないのに石のかけらが自然に降ってくるなどということはありえないからだ。何者かが城壁を越えようとしているに違いない。
剣を握りなおす。冷たい汗が背中を伝っていく。
何者かはジェルクより十歩ほど城門に遠いところに着地し、彼の方に向かってくる。
「何者かッ!」
鋭く誰何し、抜刀する。星光を受けて刀身が閃き、静かな闇夜を引き裂いた。
剣を向けられた者はへなへなとその場に座りこんだ。ジェルクは座りこんだ者の顔を見て、目をみはった。それはジェルクのよく知っている者だった。否、王都に住む者ならば、物乞いでも知っているに違いない。
彼女の名はルイヌという。つまり、この国の、今年16になる姫君である。
「ルイヌ殿下……」
驚きを通り越した呆れ顔でジェルクは姫君を見やった。
「ジェルク? あなた、金鷲騎士隊長のジェルクね?」
ルイヌの声が弾んでいるのがわかる。肯定の返事をすると、姫君はにっこりと笑った。ルイヌ姫とジェルクの間には多少の面識がある故であろう。
予測どおり姫君はジェルクに厄介なことを言ってきた。
「お願い、私を見逃して」
「それはなりません。お部屋にお戻りなさいませ」
噂には聞いていた。我らがルイヌ姫は隣国のやんごとなき身分の男性に御心を寄せられている、と。まさか、かけおち、などという破廉恥なことをなさろうと……。
こう考えるジェルクは、自分が故郷の村でかけおちしたと言われていることを知らない。もっとも、彼がリェインと共に村を出たのもその後結ばれたのも、彼にとっては予想外の出来事であったのだが。
困ったことに、この国と隣国との仲はあまり良くない。争いこそ起こらないが、貴族同士の小競り合い程度のことなら建国以来尽きたことがないぐらいだ。
「嫌っ。城には戻らないわ。私、ディオスのところにいかなければならないの」
ディオスというのはその隣国の皇太子の名である。ジェルクの顔色がさっと変わった。
「もう一度お考えなおし下さい」
よりによって皇太子殿下とは……。ジェルクは舌打ちする。ジェルクは男女の仲を引き裂くことを趣味としている訳ではない。だが、こればかりは頼まれても承知できない。
もし仮に、ここでジェルクがルイヌ姫の城出を黙認したとしよう。責任を問われ、騎士隊長を辞職。ジェルクとその妻子は路頭に迷う。
そんな未来が見えるジェルクは、文字通り必死にルイヌをなだめる。なだめつつ、貴族とは大変なものだなと平民出の彼は頭の片隅で思った。
「お願い、ジェルク……」
「なりません」
ジェルクはルイヌの手首を握る右腕に力をこめた。その時ジェルクは、この国の姫である少女の瞳から零れ落ちる、涙という液体の存在に気づいた。
「殿下……」
数瞬の沈黙の後、ルイヌは言葉につまりながらも語り始めた。
「……ディオスが、彼の従妹と結婚させられそうなの」
王族の近親婚。よくあることだ。当のルイヌも従兄弟やら義兄弟やらと見合いの経験がある。親戚が少なければ、その分、富と権力の一人あたりの割り当てが大きくなるからだ。
「私、ディオスを愛しています。心から。私、……私、ディオスがいなきゃ生きていけない」
ルイヌ殿下も御成長されたな、とジェルクはぼんやり思った。だが、30歳を越えるジェルクから言わせてもらえば、たかだか16の娘が愛を語るなど、お笑いだ。相手は、愛の美しさは知っていても醜さは知らず、しかも、世間の厳しさを知らない「お姫さま」でしかないのだ。羽ばたくことは知っていても、天に強風が吹いていることを知らないひな鳥なのだ。
名も知れぬひな鳥のために、鷲たる自分の未来が狂わされてよいわけがない。
しかし、ジェルクはルイヌの涙を見て、ある事を思い出した。ルイヌの母であるセーナ妃の事である。
あの日。セーナが15才も年上の王と結婚することになった日。セーナは王の求婚を受け入れた日から、悲しい顔をすることは一度もなかった。或いは、王の求婚を拒絶すれば一族に明日はないとと考えて振る舞っていたのかもしれない。そんなセーナが泣きながら自分より一つ上のジェルクに言ったのだ。
「わたし、本当はあなたが好きだったのよ」
ジェルクは驚き、セーナは彼に口付けし、王のもとに嫁いだ。妻にも話したことのない若い日の思い出だ。だから、せめて御子様には自由に恋愛して欲しい。ルイヌが生まれた時、ジェルクは密かにそう祈った。
そして今、彼はルイヌの道を阻もうとしている。運命の女神を憎まずにはいられない。もし、彼に家族がいなかったならば、もしくはもう少し若かったならば迷わずルイヌを通していただろう。
だが、今のジェルクには、妻がいる。子供がいる。そして、もう若くはないのだ。ルイヌが愛する男のもとに走ったとしても、幸せになれるという確証はない。
それならば、ここを通さなければいい。時間がたてばいずれは思い出となる。かえってルイヌが傷つかずにすむかもしれない。
ジェルクは決断を迫られていた。
王の怒りを受け、騎士をやめさせられて周囲の冷たい視線に耐えることになったとしても、少女の、一時的にせよ純粋な深い愛を貫き通させてやるべきか。それとも、家族と今までと変わらない平和な時間を過ごすべきか。
翌日のことである。リェインは夕方まで帰ってくるはずのない夫を家の戸口に見たのだ。
「すまない、俺は騎士でなくなってしまった」
そういう夫にリェインは微笑んで「あら、そうなの」とだけ答えた。二人にとって必要なのは、お互いと自分達の子供だけなのだ。
王が次の王位継承者を決めることなく崩御したのはそれから3日後のことだった。ディラホーンでは、王位をめぐり、内乱が起きた。
これをしずめたのは、王の唯一の子供である後のルイヌ妃と、その夫で自国の王位継承権を投げ出して婿入りした後のディオス王だった。
この内乱鎮圧でめざましい活躍をした騎士がいた。彼は当時は騎士位を剥奪されていたが、内乱鎮圧後、ディオス王の治世に全騎士指揮官に任ぜられた。王国歴史書には、その名をジェルク=ダビィエンと記されている。
――Fin




