前編
どん、と、鈍い音がした。
自分が車に轢かれたのだという事実が、咄嗟に直哉にはわからなかった。彼はちゃんと青信号を渡っていたし、余所見をしていたわけでもない。
覚えているのは、急に真横から湧いて出たような、黒い巨大なトラックの影。目線よりも高い位置にあるフロントの窓から、驚愕のあまり間抜けに口を開けた若い男の顔が、一瞬、見えた。
体が投げ出される。不思議なことに、痛みは無かった。ただ、ひどく息苦しい。
時間が奇妙にゆっくりと流れ、落ちているというよりは、浮いているような感覚だった。背中に風が吹き付けてくる。いつまで待っても、コンクリートに体が叩き付けられる衝撃は、襲ってこなかった。
全身が鉛のように重く、指一本動かすのも苦痛だったが、それでも、直哉は、気力を振りしぼって必死に目を開けた。
途端、視界いっぱいに広がった、果てしなく続く碧空。
どこもかしこも科学の残滓に覆われた日本では、こんな抜けるような空はきっと見られない。青色があまりにも色鮮やかで、目に染みた。雲の影など欠片も無く、遠くに響いた何かの鳥の声が、天の彼方までも突き抜ける。
「一体、何が……」
訳がわからず混乱しつつも、直哉は、この有り得ない光景にいつまでも固執はしなかった。
自らが、途方もなく高い場所から落ちているのだという事実を、一瞬のうちに認識する。上体を捻って見下ろすと、はるか眼下に、丈高い森の木々が、小山のように群がり広がっていた。そこに蠢く小さな生き物の姿は、まったく見分けることが出来ない。
墜死の二文字が、脳裏に浮かんだ。
「マジかよ……!」
落下の速度は容赦なく速くなる。
物理の力学の法則など、受験のときに付け焼刃で覚えた直哉にとっては忘却の彼方だったが、このまま地面に激突すれば、間違いなくぺしゃんこになることだけは、嫌というほど理解できた。
「くそったれ!」
手を伸ばしたが、樹木の枝にはかすりもしない。ちょうどたすき掛けにしていた鞄を、無我夢中で振り上げた。うっそうと茂った緑の天蓋が、それを運良く受け止めてくれた。肩が抜けそうな衝撃とともに、落下が止まる。地上から何十メートルという高さの所に、あまりにも不安定な体勢で、直哉は宙吊りになっていた。
「助かったと喜ぶべきなのか……これは」
人ひとり分の体重も支えられそうな太い枝にしがみつき、幹を伝って、直哉は何とか地面に降りた。緊張と恐怖のあまり、背中にはじっとりと嫌な汗をかいていた。
「で、どこだよ。ここ……」
生命の危険が去ったところで、改めて、事実の再確認。
とりあえず、日本ではない。それは確実。どこかの山奥のようだが、居場所を特定できるような都合のよい立て札なども見当たらない。むしろ当然。
平凡な日本人大学生の直哉には、サバイバルの経験などもちろん無かった。無かったが、必死に心を落ち着けて、とりあえず、これからどうするかを考えた。
「水と食い物だよな。必要なのは」
耳を澄ます。少し歩く。また、耳を澄ます。
幸運の女神は彼に味方した。微かな川のせせらぎの音を、やがて、とらえた。
「川だ!」
川があれば、飲み水には困らない。これを下っていけば、いずれは人のいるところにも出られるだろう。直哉は勇んで駆け出した。川のせせらぎの音に紛れて、その時、ばさりと、実に耳慣れない羽音を聞いた。
「鳥……?」
おおおおぉぉぉん、と、今度は、まるで大気を貫くような、物悲しい慟哭の声を聞いた。
「呼んで……る?」
獣の吼え声を、なぜそんな風に感じたのかは、直哉にもわからない。これまでだって、動物の言葉を、ただの一度だってまともに理解したことなど無かったのに。
ただ、奇妙な確信をともなって、浸透してくる。まるでそこに人間がいるように、高く、低く、音の連なりに過ぎないその声が、意味を持った言葉として、頭の奥深くにひらめく。
ここにいるよ。
ここにいるよ。
助けて。
見つけて。
見捨てないで……。
いつしか直哉は駆け出していた。夢中で、必死に、慣れない山道を、幾度も幾度も転びそうになりながら。
鬱陶しい枝葉をかきわけると、不意に、見えた。小川に半ば沈むようにして、巨体を横たわらせる、伝説上の生き物。幻想の世界にしか生きていないはずの、本とテレビ画面の向こう側の存在であるはずの、不可視の神獣………………竜が、そこにいた。
天空の青よりも、なお鮮やかな、蒼碧の鱗。宝珠にも似た大きな紫色の双眸が、じっと直哉を見つめていた。竜が微かに体を動かすだけで、真昼の陽光を弾いて、辺りに燦然と虹が広がる。
「竜……」
竜は、一頭ではなかった。その美しい体で庇うようにして、一人の人間を、大切に、愛しげに、懐に守っていた。
人間は、若い女だ。一目でそれとわかる、騎士の装束を身に着けていた。だが、全身が激しく傷ついて、今にも断ち消えそうな儚い命の火を、辛うじて繋ぎ止めているに過ぎない。事切れるのも時間の問題と思われた。それなのに、なぜか、満足げな、穏やかな表情をしていた。
「大丈夫……ですか」
呼びかける。大声を出して、竜に守られている騎士を驚かせないように、静かに。
「誰……」
女騎士はうっすらと目を開けた。竜の鱗と同じ、どこまでも青い、澄み切った色の瞳だった。
「声が、したから……」
はるか上空で、ごうと風がうなった。驚いて見上げると、黒い無数の影が、空いっぱいに散っている。
「な、なんだよ。あれ……」
「くっ……。トゥリアの翼蛇どもか……」
そこで、直哉は、女性騎士が、これまで聞いたこともない異国語を話しているという事実に、ようやく気付いた。何を言っているのか、さっぱりわからないのだ。
見知らぬ土地なのに言葉が通じるという都合のよい現象は、直哉の場合、全く当てはまらなかった。異国語と日本語との間に、共通項など砂粒一つほども見出せない。
「奴らの狙いは、私だ……。君は逃げろ!」
騎士が切羽詰った様子で叫ぶが、直哉は眉根を寄せて首を捻るばかり。騎士は最後の力を振り絞り、立ち上がった。言葉が通じないのなら、後は態度で示すしかないと考えたのだ。自らが囮となって、敵の目から、巻き込まれた異邦人を守ってやるつもりだった。
「う……」
だが、限りなく致命傷に近い傷が、疼く。出血で大量に失われた血は、気力や根性で補えるものではなかった。倒れた女騎士を、直哉が慌てて支えた。買ったばかりの真新しいTシャツが、見る間に赤く染まってゆく。
「無理だ……。その傷じゃ……」
言葉がわかれば。
直哉は歯噛みした。今の状況がまるで理解できない。理解できないから、何をすればいいかもわからない。迷子のように、なす術もなく、いつか差し出される救いの手を待つだけの、無力な自分。
「言葉さえわかれば……」
爪先が白くなるほど、拳を握り締める。もう一度、天を振り仰ぐ。上空から、殺気と熱気が吹き付けてくる。かつて味わったことの無い、それは、紛れもなく、戦場の匂いだった。
「いいや。わからなくても……」
落ち着け。直哉は自分に言い聞かせた。言葉はわからなくても、同じ人間だ。心は伝わる。意思は通じる。自分がやるべきことは何だ? 考えろ。考えろ。そのための頭だろう。
騎士は、空の影を見て、明らかに表情を変えた。毒づいた。自分に害を及ぼすものだからだ。敵だからだ。そう。あれは、敵。
傷ついた体。竜に守られている、美しい女性騎士。彼女が悪人とは思えない。それに、声を聞いた。助けて、と。あれは、きっと、竜の声。見捨てないで。そう言った。
「見捨てるもんか……」
心は決まった。騎士を助ける。やるべきことが見えてきた。空を覆う、あの無数の敵から逃れるには、もはや強行突破しかない。森に隠れながら逃げ切るのは、不可能だ。騎士にはそれだけの体力が残っていないし、そもそも、山狩りでもされたら一発で発見されてしまう。
「竜……竜に乗って、逃げるんだ……」
直哉は、青い鱗に触れてみた。操るための、手綱を掴んだ。やれるのか? 不安がじりじりと胸を焦がす。竜はおろか、馬にだって乗ったことなどないのだ。だが、無理ですでは済まされない。
「わかるな? 竜……。騎士を連れて、逃げる。お前の力が必要だ。俺は、お前の操縦の仕方なんか、知らない。お前はお前の意思で飛べ! 出来るな? お前の主人を守るためだ。わかるな!?」
語りかける。日本語で。通じるはずなど無いのに、竜は一声いなないた。横たわっていた巨体を起こす。翼を広げる。首を空に向かって振り上げた。今にも飛翔せんとする、まるで生まれ変わったような、その雄姿。
「アルヴィス……」
呆然と、女騎士が呟く。気高き竜は、決して、彼女以外の人間の命令には従わないはずだった。それが、素直に、従順に、直哉の全てを受け入れようとしている。
「頼むぞ。アルヴィス」
直哉は騎士を担ぎ竜の背中へとよじ登った。滑らかな鱗の上に、立つ。鞍は、ほとんど余力の無い騎士に譲った。靴では滑りすぎるので、裸足になった。
命綱すら無い、危険な挑戦。
「どこへ行けばいいんだ?」
直哉が尋ねる。騎士は、はるか向こうに見える、高く連なる稜線を指した。
「……………西へ!」
竜が翼をはためかせた。風がうなる。草木が揺れ、小さな竜巻が生まれたように、地面が巻き上げられる。竜が鳴いた。そこに、嘆きはすでに無い。わずかな希望を見出して、強く、遠く、響き渡った。
「突破する!」




