第10話
───はるか。
恐らく女性。
従姉妹とかそういう近しい間柄の人間には、あゆむの周りで『はるか』という親類は居ない筈。
少なくともリカコが把握している範囲での話だが。
同級生にそういえば一人そんな名前の女の子が居た。
でもきっとその子の事ではないだろう。
普段然程当てにならない直感が、今は当てにしろと囁いて居る。
リカコの知らない知る筈もない女の子の名前。
今のあゆむがきっと少なからず思う事がある人。
リカコは倒したサイドシートに横になってあゆむの方を向いたまま、側から見れば至って冷静な表情で状況を飲み込んでいた。
本当は今にも目の前に居る人が起きてしまうのではないか、と気が気でなくて早々に窓側を向いてしまいたい。
しかし心とは裏腹に直ぐに運動神経の方は反応してくれない。
つまり見た目で判断した程冷静ではなかったという事なのだが・・・・・・。
表情も身体も、そして心も止まりかけたまま、かろうじて脳神経はややまともに働いているのか、ただじっと息を潜めて思案を巡らせている。
あゆむが寝言で呟いた名前の主は一体誰なのか・・・・・・。
考えてもあくまで憶測くらいにしか辿り着けないのだろうが、今のリカコには知ってか否かそれをせずには居られなかった。
そんな出口の見えない迷走をしていると、つと目の前で穏やかな寝顔で眠っているあゆむが軽く笑みを浮かべたように見えた。
愉しそうな夢でも見ているのだろう。
リカコは幼い子供以外で寝顔で微笑む者を見たことがなく、あゆむがどんなに純粋に夢を見ているのかと思うと胸が締め付けられそうになった。
どうやら先程よりは身も心も緊迫から解き放たれたようである。
呼吸を怠っていたのか酸欠気味で頭も痛い。
そして時間が経つにつれ興奮は止み、冷やされた心だけが残される。
やっと自分が置かれた事態を把握して溜息を漏らす。
愕然としながらも再び思案を巡らせた。
あゆむには彼女が居る。
いや、好きな子なのかもしれない。
以前彼が風邪をひいて熱を出した時たまたまリカコが家を訪れた際、あゆむは『頼る人が居ない』と言っていたから。
その時は女性の陰なるものは感じられなかった。
しかし遠距離恋愛ならどうだろう?
それなら大体の説明がつく。
つまりあゆむがどんなにリカコに優しく接してくれても、彼女以外に深く想っている誰かが居るという事なのだ。
今まで彼には幾度悲しい現実を突き付けられる状況を与えられたが、今夜の出来事ほど目を背けたくなるような事は今まで無かった上、過去最悪の事実だ。
寒くて暗い、何処かも解からない谷底へ落とされたような気がしていた。
心臓の鼓動が早く強く高鳴っていく。
目頭が熱くなり過ぎて痛い。
息をするのも困難な程喉の奥が詰まり、胸の底から何かが大きな波のように押し寄せて込み上げてくる。
表に出したくない何かを塞き止めるのに意識を集中させた。
苦しくて苦しすぎて、もう目の前で穏やかに眠るあゆむを直視出来ずに居る。
車内は暖房がよく効いて熱すぎるくらいの温度を保っていたが、それとは逆にリカコの指先も頬も心もとても冷たくなっていた。
瞳を逸らせば今にも涙が落ちるスタンバイは整っている。
それを必死に耐えるように口唇を噛み締め、くるりとあゆむに背を向け窓側に体を倒す。
そして自分で自分を犒う(ねぎらう)ように僅かな希望を見出そうとした。
まだ何も決まっていないのだと。
まだ何も判っていないのだと。
他の可能性があるのかもしれない。
『はるか』とあゆむの関係がどうと判ったわけではないのだから。
しかしその僅かな希望はやはり絶望感に勝てないのか、リカコの心は青息吐息だった。
眠気は何処かへ飛んで行ってしまったが、目を固く閉じて眠ろうと努力する。
眠ってさえしまえばせめて夢の中だけでも、愉しい気持ちになれるかもしれない。
自分の思う様な世界に行けるかもしれない。
意識を手放してしまえばきっと朝目覚めるまでは楽でいられる筈だから。
そして目が覚めた頃、今よりは幾分か気持ちも落ち着くだろう。
そう祈るしかなかった。
リカコは熱い目蓋を冷たくなった両手で冷やし、涙が零れないようにそっと押さえる。
鼻水も出そうだったがあゆむに聞こえるのが嫌で、気を使いながら静かに鼻を啜った。
こんなにも側に居るのに手が届かないくらいあゆむを遠くに感じた夜だった。
太陽が南中を通り過ぎた頃、徐に目を開けたリカコは昨夜の悲しみを半分くらい忘れていた。
元々立ち直りは早い方である。
一晩寝てしまえば楽観的になれる性格のお陰で、自分よりも先に目を覚ましていたあゆむに素直に『おはよう』と言えた。
どのくらい前から起きていたのだろうか?
すっきりと晴れ渡ったクリスマス・イヴの朝に相応しい、心地の良い笑顔が隣にあった。
思えばこんな風にクリスマスだとかその類のイベントの日に、こうして好きな人の隣で目を覚ますなんて事は今までに無い。
つとリカコはまだ家族全員が揃ってクリスマスを祝っていた幼い頃を思い出した。
幾つかあるイベント事を厭わしく感じていた自分は、本当はきっとずっとこんな風にイベントを大切に思えるような過ごし方をしたかったんだろう。
思い通りには行かない現状に背を向けて、自分自身の中にある気持ちは否定し続けて頑なに他の人格に成り代わろうとしていたのかもしれない。
リカコはあゆむの優しい笑顔を見て、正直になりたがっていた気持ちと向き合う事が出来たような気がした。
そんな忘れかけていた思いを取り戻して嬉しくなり、リカコもまたあゆむに微笑みかえす。
「よく寝てたな。大口開けてるからおにぎりでも詰めてやろうかと思った!」
人の顔を見るなり開口一番がこれである。
「嘘?!マジで?あたし口開けて寝てたの?!」
「ハハハっ!ウソウソ。寝顔は可愛いらしいんじゃねーの?」
「何それっ『寝顔は』って。寝顔もでしょ!」
あゆむはリカコが一々うろたえる様子が面白いかのようにからかう。
自分の前だけだからこそリカコがそうなる事は知らないのだが。
リカコもからかわれて満更嫌な気はしなかった。
下らなくてもこんな会話を交わしている間だけは、彼と凄く親密になれているような錯覚に陥るから。
一頻り(ひとしきり)笑い合った後、あゆむは車を発進させた。
少しの間沈黙が車内に充満する。
会話が途切れてしまうと嫌でも昨夜の出来事を思い出してしまうものだ。
なかった事にしたい、聞かなかった事にしたいあの名前・・・・・・。
───ねぇ、あゆむ。
誰なの、はるかって・・・・・・。
寝言でも呼んでしまうくらい大事な人?
教えてよ・・・。
いっそ声に出したい。
一思いに聞いてしまいたい。
でもどう切り出していいかも分からないし、あゆむが答えた後の自分の作る空気も想像が付かなかった。
正直いって平常心を保つのにも限界があるし、帰り際くらいは笑っていたいというのもある。
それに色々気にしながら相手に尋ねるのも何だか億劫だ。
この問題は後回しにしよう。
そう決めてリカコは家につくまでの道程を、取るに足らない会話でやり過ごすことに骨を折った。
何となくぎこちない雰囲気は決して壊されることはなかったが、あゆむはそれにも気付かないように何か考え事をしているようだった。
リカコが家に着くと留美は起きていて暇そうにテレビを見ていた。
彼女もリカコ同様、23、24日と連休を貰ったのだが特にする事もなく時間を持て余しているのだろう。
「ただいまー。」
声には力がこもっていない。
本人も事務的な感はよくわかっている。
「おかえりぃ!随分と遅い朝帰りですこと!」
「ははは・・・・・・。」
やはり潤いもない。
普段なら留美に冷やかされれば照れ笑いなど見せるリカコも、今日ばかりはただの苦々しい引きつった笑いしか出ない。
不覚にも曇ってしまった表情を留美は見逃さなかった。
「何か・・・あったの?」
さっきとは打って変わって神妙な面持ちで。
「・・・・・・・・・うん、まぁ・・・ちょっと。」
「あゆくんの事?」
「・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・?」
「聞いてくれる〜?」
「まさか振られたとか?!」
「まだよ!・・・・・・さすがにカズと別れて一ヶ月も経ってないのに、その親友に告白するほどあたしは無鉄砲じゃないわよっ!」
「あ・・・そう?」
「・・・でも・・・・・・振られたのに近いかも。」
突然捲くし立てたと思いきやまた沈む・・・・・・。
「何、何?彼女居たとか?あっ。だったらリカちゃんにもっと余所余所しいはずだよね。好きな人が居るとか?」
「ん〜・・・・・・。そうかもね。あたしもはっきり分かったわけじゃないんだけどさ〜。昨日あゆむが寝言で言ってたんだよね・・・・・・。」
「何て?」
「はるか。」
「はるか?」
「うん、はるか。」
「誰それ?」
「知らない。留美も知らないの?」
「留美が知ってるわけないじゃん!この前まで全く連絡とってなかったんだから、あゆくんとは。」
・・・・・・確かにその通りである。
そもそも留美とあゆむが付き合っていたのはとうの昔、しかも一週間程。
それからリカコが連絡を取りたいと言い出すまで、留美は彼と音沙汰なしだったのだから。
「一体誰なんだろう。彼女かなぁとも思ったんだけど、もし彼女が居たら普通彼女以外の女の子と夜一緒に過ごしたりしないじゃん?メールとか電話とかもするだろうし。でも少なくともあたしが居るときはそういう素振りとかなかったんだよね。」
「好きな子とかなのかな〜?・・・・・・あ!!元カノじゃない?!もう別れてんだけどあゆくんの方が引きずってるとかさ。」
「あ〜!元カノの線で考えるの忘れてた!盲点だったわ。」
留美の新たな指摘でリカコの表情は心なしか安堵の色を取り戻す。
「結構それっぽくない?元カノならさ別にあゆくんが誰と居ようが家に泊めようが相手は知ったこっちゃないじゃん。」
「だよね・・・。そうか〜元カノ。そうだと仮定して一体どんな子なんだろう?すっごい気になる!」
「留美もなんかわくわくする!」
「・・・・・・わくわくかよ。」
「でもさ、名前だけじゃ難しいよね?」
・・・・・・・・・確かに。
名前だけではどうしようもない。
それだけで相手を知ろうとする事自体不毛すぎると言えよう。
リカコが勇気を出してあゆむに直接聞けたら万事解決!とまではいかなくても、謎だけは解けるだろう。
しかしそれが出来るのなら悩み相談室はいらない。
新しい障害を前にリカコは、どうする事も出来ずただ地団駄・・・いや足踏み状態を続ける羽目になった。
とりあえずこれから先あゆむとの話の中に、その『はるか』という女の子の事を聞ける機会を見付けられるかもしれない。
それまで極力気に留めないようにしよう。
考えたところで結果は得られないのだから。
昨日から累計してリカコは彼女の割りに随分悩んだ。
悩みは僅かに悩めばいいのだというのが彼女の流儀だ。
何とかなる、成せば成る成さねば成らぬ何事も。
前向きに楽観的に持っていくのがリカコの良い所でもある。
───今晩留美とクリスマスパーティーでもしよっかな・・・・・・。
そう思いついたリカコの顔はもう自然に笑えていた。
その晩二人は女二人で厳かにクリスマスパーティーをした。
今年もあと僅か。
色々あったがなんだかんだ言って、今年のクリスマスが一番満ち足りているように思えたのだった。
───元旦
リカコと留美は大晦日の夕方から起き出した。
二人ともカウントダウンは夢の中ではしたくないというこだわりがある。
まだまだ若い証拠である。
まあ確かに年が替わる瞬間を寝て過ごすよりも、起きて味わった方が何となく実感が湧くような気がしないでもない。
彼女達は昨日───大晦日からもう正月休みに入っていて、外に出る事もなければする事もなく、だらだらと一足早く寝正月を決め込もうとしている。
つけっ放しになっているテレビは休む事無く専ら正月番組だけを放送している。
見始めの4,5時間はいい。
しかしそれも些か飽きた。
リカコも留美もお互い引きこもりではないし、どちらかと言えば出好きなのだが当てもなく出掛けるというタイプでもない。
だからだらだら寝正月にするのもどちらかが提案した訳でもなく、二人共それでいいとは決して思っていない。
だってまだ若いのだから・・・・・・。
そう、ただ出掛けるきっかけがあればいいのだ。
この寒くて人の多い中消極的になりがちな気持ちを奮い立たせてくれる何かが・・・・・・。
♪♪♪〜♪♪〜♪♪♪♪♪♪〜
タイミングがいいのか悪いのか、リカコの携帯が鳴り出した。
人の良さそうなおじさんが屋台を引きずりラーメンを売る時に聞けそうな、昔懐かしのあのメロディを奏でる携帯を指差し留美が吹き出す。
「何その音楽〜!」
一体発信の主は誰なのだろう。
こんな代名詞的な着信音に設定された方は、知れば何だか複雑な気持ちになりそうだ。
「これ、カズだわ・・・。」
きっと彼専用の着信音なのだろう。
画面も見ずに即答するリカコの表情は自信に満ち溢れている。
「あははは!何でこの音楽なの?」
とりあえず何でも良かったからだろう、と予測したいのだが。
「・・・・・・・・・カズの実家がラーメン屋だから。」
「・・・へぇ・・・・・・。」
・・・・・・新事実である。
一応その音を設定した由来はあるようだ。
それにしてもあゆむの着信音と比べると、格差があるような気がしたのは恐らく留美だけではないだろう。
「まだ、鳴ってるね。」
「・・・・・・・・・しつこいなぁ。」
こんな会話を続けている間も引切りなしにラーメン屋のおじさんは頑張っている。
「暇だし、出るか。」
本当は何を言われるか分からなかったので、リカコ自身気は進まなかったのだがいつも以上に執拗に鳴らす携帯と、この暇が少しでも潰れるかも・・・と相手にとって失礼な思惑で電話に手を掛けた。
「明けましておめでとう!今年もよろしくな!」
電話に出るのを待っていましたと言わんばかりに、カズヒロの何事もなかったような明るい声が聞こえた。
「・・・・・・明けましておめでとう。」
リカコは断固として『今年もよろしく』とは言わない。
よろしくする気が毛頭ないからである。
「リカ、今何してた?暇?」
「今留美とテレビ見てて忙しかった。」
壮絶な暇さ加減を物語る欠伸をモロに出しながら、いけしゃあしゃあと嘘を吐くリカコ。
さっきの着信音といい、何処までも失礼な女だ。
しかし暇だろうが忙しかろうがカズヒロに言ったところで何の効力もない。
言いたい事がある時は勝手にしゃべり始める。
その間多少の暇つぶしになる事が聞ければラッキーである。
「ふ〜ん、そっか。今日の夕方にでも初詣行かね〜?あゆむも誘って三人で。」
・・・・・・それは悪くない。
リカコはそう思ったが、三人の意味が分からない。
カズヒロは留美の事も割りと結構知っていて、面識も十分にある。
それに今さっきリカコは留美と居る旨を伝えたのに、何故初詣に行くのは三人なのだろうか?
何かおかしい・・・・・・。
訝しんで返事を言い淀むリカコに、カズヒロは意外な事を口走る。
「別れても、俺ら友達じゃねー?」
意外だったがリカコにしてみれば少しほっとした。
「別に行ってもいーよ。留美も連れてくから。」
「うん、了解!じゃ五時くらいで!」
「はいはい。」
「じゃ後でなー!」
電話を切った後妙に違和感が残った。
カズヒロは一体どういう風の吹き回しだろう。
声だけで判断すると吹っ切れたようにも取れるが、彼の性格も考慮すると何か企みがあるのも否めない。
まあ留美も連れて行くし疑えばキリがないので、とりあえず素直に行ってみよう。
あゆむにも逢える。
リカコがOKの返事をした理由はそれに尽きている。
この時電話の向こう側で一人北叟笑むカズヒロをリカコは勿論、他の誰も知る由はなかった。
ある人物を除いて・・・・・・・・・。
第十話 完