雨は予兆
藤原美世は雨が好きだった。世の中の多くの人、少なくとも美世の周りの人は晴れているほうが良いという。それでも、雨が好きだった。
雨が地面を叩く音が単調なリズム。それはいつまで聞いていても飽きる事がない。細い水滴が窓に付くのをジッと見ているのも楽しかった。出かけるときに荷物が濡れてしまうのは少し困るけれど、それは雨を嫌うほどの問題ではない。それよりも、雨が降ったときに感じるあの涼しさや、匂いの方がよっぽど大切だと思う。
でも、雨が降ると憂鬱な気分になる。それは、雨が好きなこととすごく矛盾しているように聞こえるけれど、間違ってはいない。
雨が嫌いだから、雨の日が嫌いなのではない。雨が降ったあとに、晴れることが嫌なのだ。今ふってるこの幸せがいつか止んでしまうということがどうしようもなく悲しくなる。雨が降ればいつかは晴れる、それは自然な事であり太陽がでなくなるなんてありえない。それでも美世は祈る。雨の日になるたびに。どうかいつまでも雨がやみませんように、と。
その日、天気は朝から大雨だった。とうぶんの間は止まないだろうと思えるような激しい雨。美世は教室から窓の外を眺めていた。周りの人から見ればその表情に普段と変わりはないけれど、美世の友達の中でも特に親密な友人である梨乃にはその変化がわかったようだ。
「嬉しそうだね」
「梨乃。うん、すごく」
「相変わらずだねぇ。あたしなんてせっかく髪の毛うまくいったと思ったのに、もう台無し」
髪の毛を持ち上げながら、訴えるように梨乃は言う。いつもとそんなに変わりはないように思えるけど……。美世の身だしなみに対する興味が薄いだけかもしれないので言葉にはしない。
それよりも、今は遠くで鳴っている雷のほうが重要だった。家で飼っている猫のナナが怯えているかもしれないなぁ。ひどい場合だったら、パニックになって暴れているかもしれない。帰ったときに家の中がひどい事になってなきゃいいな。
そんな美世が考えてることは気にせず梨乃は
「美世はねー、サラサラストレートだからいいよねぇ。どこのシャンプー使えばそんな髪になれるのさぁ。っていうかさ、せっかく美世が珍しくテンション高いんだから、なんかもっと喋ろうよー。雨ばっか見てないでさぁ。そういえばね……」
と一人で喋り始める。いつものことすぎてスルーするのに慣れたってばれたら怒られるかもしれない。
その後、梨乃の話を半分聞きながら――半分聞き流しながら――あいずちを打ったりして休み時間が過ぎていく。
残りの授業もあと1つとなり、美世の意識は本格的に授業とは関係のないところにとびはじめる。 こんな日は家でぼーっとしていたい。そう思いながら雨を見ていたとき、不意に景色がぶれるのを感じた。テレビの画面が砂嵐に変わるのと同じような状況が美世の視界でおこる。景色のぶれは瞬きをしたときにはおさまっていた。
めまい?何かよくわからないぶれを不思議に思う。今まで体験したことのないような感覚に頭をかしげながらも先生の訝しげな視線を感じ美世は授業へと意識を戻した。
放課後になり、傘をさし雨の中へと出る。雨はさっきから激しさを変える様子はないが、雷が鳴ったのは美世が聞いたさっきの一回だけだ。
お気に入りの傘を内側から見上げながら、ほんの少しいつもよりも軽やかな足取りで美世は歩きはじめた。雨の中でも消えることはなく、まるでそこに浮かんだ月ではないかと錯覚させるほどの鮮やかな黄色の傘。何件もの店を回って手に入れた逸品だ。
最近の雨の中で一番ひどいと思われるほどの今日の豪雨。傘をさしてしても足はもうびしょ濡れになっているけれど、せめてかばんの中まで浸水する前に家へ帰ろうと足を早める。
もし鞄もなにも持っていなかったら今すぐ傘を投げ捨ててこの雨の中にはいっていくことができるのに、というそんな欲求をおさえひたすら下を向きながら、アスファルトの水溜りばかりなった道をただただ歩く。
脱いでしまいたくなるほどに水を吸い、あまりにも重くなった少し靴に嫌気がさしてきたころ、ふとさっきと同じぶれを感じた。
「…………っ」
最初は少しのぶれで気のせいだと思える程度だったのがだんだんひどくなる。
周りの景色がかすみはじめて心なしか自分が回っているような気さえしてきた。
これはもうめまいじゃないと思うけど…あぁもうクラクラして考えが追いつかない。それでも、この雨の中止まるわけにはいかないと、足を踏み出したとき。
「……え?」
一瞬自分の目がおかしくなったのかと思う。
足元にはなにもなかった。
さっきまで踏んでいたコンクリートがない、水溜りがない、地面がない。そこにあるのは底も見えぬ暗闇だけだ。まるで世界が自分だけを残して消えてしまったかのようにあたりが黒一面になる。
地面だけがないのか、景色すらもないのかもう見分けがつかない。
足が地面につかないまま暗闇の中に飲み込まれていく。
黒のなかでどっちが前でどっちか上だったのかも曖昧になった。倒れていく体を立て直すことも、なにが起こっているのかを理解することもできない。
クラクラする頭で、遠くの方でなっている雷の音を聞きながら美世は、意識を手放した。