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人魚姫に転生しました。泡になってる暇はないので、自分の領地を治めます。

作者: くみの
掲載日:2026/10/05

嵐の海は、思っていたよりずっとうるさかった。


雷が鳴るたびに、水の中までびりびり震える。


(やっぱり、来なきゃよかったかな……)


そう思いながらも、私は海面へ向かっていた。だって、人間の船だ。気になるでしょ、普通。


頭を出した瞬間、横殴りの雨が顔面に突っ込んできた。目の前の帆船は、マストが折れて大きく傾いている。次の瞬間、空が真っ白に光って、船が真ん中からばきっと割れた。


「うそうそうそ!」


人が落ちてくる。助けようなんて立派な決意じゃない。目の前で人が沈んでいくのを、見なかったことにできないだけだ。


ひとりだけ、動かずに沈んでいく男の子がいた。私と同じくらいの年で、やたらと豪華な服。尾びれを蹴って追いつき、腕を掴む。


「重っ! 人間って、こんなに重いの!?」


雷の合間に、崖の下で小さな灯りが揺れていた。あそこだ。波に押し戻されながら、六人姉妹の末っ子として鍛えた泳ぎで、ひたすら進む。


砂地に引きずり上げて、仰向けに寝かせる。濡れた黒髪、真っ青な唇。胸は上下している。生きてる。


「……え、顔、よくない?」


思わず声が出た。濡れてぐしゃぐしゃなのに、この顔面。さすがイケメン。……イケメン?


(いやいや、今それどころじゃないでしょ私)


彼のまぶたが、うっすら動いた。黒い瞳が、ぼんやり私を捉える。


「……だれ、だ……」


「あ、起きた? ごめん、ちょっと寝てて!」


返事を待たずに言うと、彼はまた目を閉じた。息はある。


そこへ足音。ランタンの灯りが近づいてくる。私は慌てて岩の陰に飛び込んだ。灯りの主は、黒い修道服の若い女の人だった。倒れている彼に気づいて、息を呑む。


この人なら大丈夫。そう直感して、岩の陰から声だけ張り上げた。


「その人、海から上げたばっかりなの! 早く温めてあげて!」


「えっ? あ、あなたは――」


「お願いね!」


波の中へ潜る。ここから先は、人間の仕事だ。


◇


沖へ泳ぎながら、私はさっぱりした気分だった。人助けをした。今日は夕飯がおいしく食べられそう。


そのとき、岸から声が聞こえた。


「殿下! 殿下、しっかりなさってください!」


(殿下……? 王子様とか、王太子とかに言う……)


頭の奥で、何かがぱちんと弾けた。


嵐。船。溺れた王子様。助ける人魚。浜辺の修道女。私は海の真ん中でぴたりと止まった。


「……これ、人魚姫じゃん」


声に出したら、全部はっきりした。前世。日本。スマホ、コンビニ、ミルクティー。子どものころに読んだ絵本。アンデルセンの『人魚姫』。


あらすじを必死にたどる。王子様を助ける。恋をする。声と引き換えに足をもらう。そして王子様は、別の女の人を好きになる。愛されなかったら、泡になる。


岸の灯りを振り返る。


「あの人じゃん。本命」


指を折って数えた。


声を失う。嫌。


歩くたびに痛い。もっと嫌。


王子様は別の人が好き。もう勝負が決まってる。


愛されなかったら泡になる。論外。


「いや、これ負け戦じゃん」


顔はよかった。それは認める。でも、顔だけで声も足も命も差し出すのは、割に合わない。


「うん。負け戦! 撤退!」


口に出したら、びっくりするくらいすっきりした。あの二人には幸せになってもらおう。私は私で、別の人生を探せばいい。


人魚姫、十五歳。恋に落ちる前に、撤退完了。我ながら素早い判断だった。


◇


「アンジェラ! あの嵐の日、どこにいたの!」


朝食の席で、一番上の姉様に詰め寄られた。食堂には、父様と祖母様、そして六姉妹が揃っている。


「船を見に行ってました。割れちゃったから、ひとりだけ岸まで運んだけど」


しーん。


「アンジェラ。まさかとは思うが、その人間に……」と父様。


「恋してません」


「そうか! よかった!」


「それに、人間になるのはないなって。歩くと痛いらしいですし」


「誰が言ってたの?」


「噂です。たぶん」


あぶない。私はスプーンを置いた。


「父様。私、領地を持ちます」


王族は好きな海域を選んで、自分の領地を作る。その代わり、食い扶持は自分で稼ぐ。それが家訓だ。


「一番上の姉様は、海藻の養殖で安定してますよね。三番目の姉様のところは……」


「うちは去年、地図から消えたわね!」


「堂々と言うことじゃないでしょ!」


「ちょっと休んでるだけよ!」


「地図からは消えてるじゃん」


姉様たちがげらげら笑う中、祖母様が静かに言った。


「成功すれば残り、失敗すれば消えていく。それだけのことよ。それでも、やりたいの?」


「やりたいです」


祖母様がにっこり笑った。


「いい返事ね」


「父様の、そばにいてもいいんだぞ? 食い扶持なら父様が……」


「父様! 甘やかさない!」


姉様がバンとテーブルを叩く。父様がぐすっと鼻をすすった。


「大丈夫、困ったらすぐ帰ってきます」


「……約束だぞ」


「応援するわよ、アンジェラ!」


本当に、うちの家族は優しい。


(よし。まずは人手だ)


その日のうちに、廊下で侍従長をつかまえた。


◇


「誰か職探してない?」


「補佐役、でございますか。……ひとり、おります。今年、王立学園を卒業した青年が。成績は上位、礼儀作法も申し分なく、体力もあって。ええ、いい子なんですけどね……」


侍従長が気まずそうに声を落とす。


「哺乳類なんですよね」


「……うん? それで?」


「ですから、哺乳類でして」


同じことを二回言われた。意味が分からない。ただ、微妙な扱いを受けているらしい、ということだけは伝わった。


「会わせて」


「よろしいので?」


「成績上位で礼儀正しくて体力があるんでしょ? 会うしかなくない?」


翌日。応接室の扉が、ぎし、と鳴った。


入ってきたのは、でかい人だった。扉の枠に頭をぶつけそうになって、ひょいと屈んで入ってくる。全長は二メートル半くらい。肩幅も腕もすごい。青みがかった灰色で、おなかのあたりが白っぽい。


(……クジラだ)


その巨体が、私の前でぴたりと姿勢を正して、深々と頭を下げた。


「初めまして、姫様。ブルーノと申します。王立学園を、今年卒業いたしました。……海棲哺乳類型です。ご存じかと思いますが」


予防線を張るみたいに、言葉の端が少し硬い。


「知ってる知ってる! 座って座って!」


出された海藻茶を、ブルーノは大きな手で包むように持って、ゆっくり味わった。


(所作、きれいだな……)


「学園では何を?」


「算術と、文書の作成と、地誌と、交渉術を。護身も少し。力仕事は得意です」


(デカい。強い。頭いい。礼儀正しい。学歴つき。開拓要員にぴったりすぎない?)


私は勢いよく立ち上がった。


「採用!」


「……はい?」


「今日から私の補佐ね!」


「面接は」


「今ので十分!」


「姫様、僕は哺乳類で」


「うん、聞いた。それで?」


「それで……」


「デカくて強くて頭がよくて礼儀正しいんだよね? 何が問題なの?」


「あの、色々と」


「色々って?」


「……具体的には、あまり……」


「じゃあ問題なし!」


固まるブルーノ。後ろの侍従長も同じ顔をしている。


「ずっと、そういうものだと思っていましたので」


「ふうん。私は、いい人材いたー! って思ったけどね」


ブルーノはカップの水面をじっと見て、小さく、でもはっきり言った。


「……精一杯、務めさせていただきます」


「やった! よろしく!」


握手した手が、でかい。私の手が丸ごと埋まった。


「あ、姫様。お茶、おかわりをいただいてもよろしいでしょうか」


……この人、けっこうマイペースかもしれない。


◇


領地、補佐役。次は、何をやるか。


岩場の砂に貝殻でがりがり図を描きながら、ブルーノに話す。


「食べ物は海にいくらでもある。でも人魚ならみんな持ってる。つまり売れない」


「誰が欲しがるか、ですね。……人間でしょうか」


「正解!」


姉様たちの宝箱が頭に浮かぶ。流れ着いた陶器のカップ、レース、ガラスのボタン。海で手に入らない物は貴重なのだ。


「ってことは逆もあるはず。人間にとっても、海の物は珍しい」


「真珠やサンゴは珍重されると、学園で習いました」


「でしょ! 海の物を陸へ、陸の物を海へ。交換する」


砂に矢印を二本描いた。あと、陸のミルクが欲しい。ミルクティーが飲みたい。動機の六割はそれだ。


「問題は、誰が行くか。私は足生やすの嫌。痛いし、声取られるし」


「声を、取られるのですか?」


「え? 一般論として!」


そこでふと、目の前の大きな人を見上げた。


「……ブルーノ。哺乳類って、肺呼吸?」


「はい、肺呼吸です」


「陸上は?」


「息の問題はありませんので、多分、姫様よりは得意です」


「それだ!」


「えっ」


人魚姫って、足が生えたんだよね。魔女に頼んで。もともと肺で息をしてるブルーノなら、足さえあればいい。


「魔女に会いに行くよ!」


「ま、魔女……ですか」


ブルーノが椅子ごとずずっと下がった。


「大丈夫、たぶん怖くないよ」


「たぶん、と」


「たぶん」


◇


薬の魔女の工房は、岩場の裂け目の奥にあった。天井に光る小さなクラゲが浮かび、棚には瓶がずらり。


奥から出てきたのは、透き通った人だった。魔女帽子みたいな傘が頭の一部で、長い触手が髪みたいに、ゆらゆら揺れている。


「薬の魔女、ルージュよ。あら、立派な体格ね。うちの棚が全部倒れそう」


「アンジェラです。こっちは補佐役のブルーノ。……人魚って、足できるよね?」


「ずいぶん直球ね。出来なくはないわよ。誰の足?」


「ブルーノです」


ルージュさんが、ブルーノの腕をつつき、胸元に触れ、背中にまわる。直立不動で耐えるブルーノ。


「あなた、肺呼吸ね。なら簡単だわ。魚系の子だと、足だけじゃなくてエラも肺も薬で調整しなきゃいけないから高いし、声が出なくなったり、歩くたびに痛んだりするの」


「ほらやっぱり! 無理!」


「何の話?」


「こっちの話です!」


「この子なら副作用もほとんど出ないわ。体が、もともと陸向きなのよ。海に入れば尾に戻る、陸で飲み直せばまた足、って切り替えもつけてあげる」


「……陸向き」


ブルーノがぽかんと呟いた。そんなふうに言われたのは、初めてなんだろう。


提示された値段を聞いて、私は固まった。ゼロがひとつ多い。


「今、お金ないです」


「でしょうね。対価は声でもいいけど」


「却下!」


即答。声も寿命も、髪も鱗も全部ダメ。ルージュさんがお腹を抱えて笑った。


「冗談よ。今の私は、商売で生きてる魔女なの」


商売。ぴんときた。


「じゃあ、投資しませんか?」


「私、これから人間と交易します。ブルーノが陸と海を行き来すれば、今まで手に入らなかった素材が入る。陸の薬草や素材を、優先してルージュさんに回します。私が成功すればルージュさんも得。失敗したら損です」


「ずいぶん正直ね」


「保証はできないので」


ルージュさんは、にんまり笑った。


「面白いわね。魔女に頼みに来る子って、たいてい追い詰められた顔をしてるのに、あなたは商談に来たみたい」


「商談ですけど?」


「ふふ。乗ったげる。……ところで、陸には甘いものがあるって聞いたけど、それもおまけでお願いできる?」


「めちゃくちゃあります!」


こうして、私と魔女の最初の取引が決まった。


十日後。浜辺の岩場で、ブルーノが薬をごくりと飲んだ。尾びれがほどけて、二本の足になる。


「……立てました。痛みも、ありません。むしろこちらのほうが動きやすいです」


陸に上がったブルーノは、二メートルを軽く超えていた。見上げると首が痛い。


「デカい! すごい! 似合う!」


「ありがとうございます……?」


照れた笑い方が、ちょっとかわいかった。


◇


次は領地の場所。王宮の海図には、びっしり円が描かれている。シャボン玉を並べたみたいだ。


「ここは水がきれいよ」「こっちは深くてひんやり」と姉様たちが勧めてくれる中、私の指が止まったのは、人間の陸地のすぐそば、ぽっかり空いた空白だった。


「……そこ? 陸が近いと、領地を広げにくいのよ。みんな避けるの。海はいくらでも広いんだから」


「うん、そうだよね。でも私は、近いほうがいいの」


にっこり笑う。


「だって、人間に近いなら、交易に便利じゃん」


「あの辺は浅くて穏やかで、水も温かいわね」


祖母様が海図を眺めながら教えてくれた。


「父様。私、ここにする!」


父様は海図と私を見比べ、ふーっと長い息をついた。


「……やってみなさい。お前が決めたことだ」


「父様、大好き!」


「ぐっ……」


胸を押さえる父様に、姉様たちが「陥落!」と笑った。


◇


領地予定地までは五時間。ブルーノは速かった。


「姫様、お疲れではありませんか」


「ぜんぜん……はあ、はあ……」


悔しい。


領地の海は、きれいだった。水がやわらかく温かくて、白い砂に光の網がゆらゆら揺れている。遠くに陸の影。


「サンゴ! ラッキー!」


赤や桃色の小さな枝が、岩のあいだから顔を出している。砂地には貝がごろごろ。その中に、ちょっと大きめで平べったい貝がいた。


「これ、真珠貝じゃない?」


前世の記憶だと、貝に小さな核を入れて待つと真珠ができる。それしか覚えていない。どうやるのか、どれくらい待つのか、まるで分からない。


(ほんと、ふわっとした記憶しかないな私)


「やあ、お客さんかい。珍しいねえ」


岩陰からのんびり顔を出したのは、鮮やかな紫とオレンジの、ひらひらした人。ウミウシ系の人魚だ。


「ここに領地を作ろうと思ってるの。何か困ることある?」


「領地ねえ。ここ、何にもないよ? まあ、食べ物には困らないけど」


「それって、すごくない?」


「そう? 今日食べるものがあれば、それでいいかなあ」


私とブルーノは顔を見合わせた。見渡すと、アメフラシの人、ヒトデの人、イソギンチャクの人、浅瀬好きの人たちが、ぽつぽつ顔を出している。みんなのんびり。


「お仕事をお願いするかもしれないけど、いい?」


「のんびりでいいならいいよお」


交渉成立。真珠貝のことは、岩場のおばあちゃんが詳しいと教えてもらった。結果が出るのは、まだずっと先の話だけど。


◇


荷車は、沈んだ船の積荷だった。流れ着いた荷台を、ブルーノが「これなら直せます」と器用に修理してくれたのだ。


魚、貝、海藻、エビ。サンゴを何本か。荷台に山盛りにする。


「シーフードはあるでしょ? サンゴも大丈夫!」


「姫様、サンゴの値付けはどうしますか」


「え、値付け? ……高く?」


「相場はこれくらいです。姫様が考えていた額の、三倍は取れます」


「ブルーノ、頼もしい!」


買い物メモを渡す。お茶、ワイン、ミルク、果物、お砂糖、お菓子。


「ミルクは一番大事なやつ! それと、商会みたいな大口の人が来たら、あれ渡して。ちゃんと取引しましょう、ってやつ」


「姫様のお名前で、契約書を用意してあります」


もう私より頼りになる。


「頼んだわよ! ブルーノ」


と言いつつ結局、私はついてきてしまった。港町の桟橋の柱の陰に隠れて、水面すれすれに顔を出す。


市場は桟橋のすぐ近く。ごろごろ、と荷車の音がして、人々が振り返った。二メートル超の大男が、山盛りの荷車を一人で引いてくる。


「なんだあれ」「でけぇ」「馬は? 馬どこ?」


ブルーノは人混みの前で荷車を置き、一礼した。


「いらっしゃいませー」


声が、やわらかい。一瞬の静寂のあと、誰かが吹き出した。


「いらっしゃいませって言ったぞ、あの熊」


「海から参りました、行商のブルーノです。魚、貝、海藻、エビ。いかがでしょう」


「海から? 冗談だろ」


「とれたてです」


持ち上げた魚は、目が澄んで、鱗がきらきら光っている。


「確かに新鮮だ」「この鮮度でこの値段?」「サンゴもあるの?」


あっという間に人垣ができた。私は桟橋の陰で口を押さえる。売れてる。ブルーノ、すごい。


(私、完全に初めてのお使いを見守るお母さんじゃない?)


一時間もしないうちに、荷車は空になった。拍手まで起きている。


そのあとブルーノは、市場を回った。お茶屋の前では茶葉を前に長いこと立ち尽くし、「お、おすすめを、お願いします」と声が上ずっていた。ワインの樽、桃とぶどう、砂糖に焼き菓子。最後に牛乳。


(完璧……!)


その夜、入り江で荷物を広げた。売上を数えたブルーノが言う。


「思っていたより、利益が出ました」


革袋を覗いて、私は両手を突き上げた。


「バブル到来やー!」


「ばぶる……?」


「……弾けないようにしないと」


「はあ」


「いや、こっちの話!」


あぶない。前世の言葉がぽろぽろ出る。


その夜、私は生まれ変わって初めて、ミルクティーを飲んだ。ブルーノが静かにカップを置く。


「姫様。これは、とてもおいしいですね。海藻茶とは全然違います」


「でしょ!?」


「毎日、飲んでもよろしいでしょうか」


「毎日飲んで! 経費で落とす!」


――ミルクティー、最高。


◇


それから、ブルーノの行商は続いた。最初は「でかい熊」だったのが、いつの間にか「ブルーノさん」になって、「今日は何がある?」と待つ客まで出てきたらしい。報告するブルーノの胸が、少しずつ張ってきている。ほんの少し。私以外、誰も気づかないくらい。


その日も私は桟橋の陰にいた。もう日課だ。


人混みの向こうから、仕立てのいい上着の男の人が歩いてくる。買い物客の歩き方じゃない。店をひとつひとつ見比べて、さりげなく話を聞いて、次へ。商人だ。


その人はブルーノの店の前で足を止め、貝を手に取って、じっと確かめた。


「……なかなかの商品だ。噂を聞いてね。海から来る、でかい行商人がいると」


「はい、海から来ております」


「ははっ」


笑ったけど、目は笑っていない。


「この鮮度でこの値段。商会に卸したりはしないのか?」


「あ! 商会の方には、これを」


ブルーノが畳んだ紙を差し出す。契約書だ。男の人は、数量、価格、納期、支払いを一つずつ目で追った。


「……よく出来ている。これは君が?」


「姫様のお名前で用意しております。商会の方にお渡しするようにと」


「姫様?……その姫様に、会うことは可能か」


「はい。海岸へ来ていただければ」


「会おう」


私は桟橋の柱を蹴った。先回りしなきゃ! 泳ぎなら人間の足に負けない。


入り江に着いて、息を整える。(なんて言えばいいんだっけ!? 名刺……ないし!)


足音がした。ブルーノと、さっきの男の人。浅瀬から上半身を出して、岩に腕をのせる。


男の人は私を見て一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに引っ込めた。


「……本当に、海から来たのだな。アルバという。小さな商会をやっている」


「アンジェラです。ここの領主、みたいなものです」


挨拶もそこそこに、一番言いたいことを口にした。


「うちと取引しましょう!」


「ずいぶん早いな。まだ挨拶しかしていないが」


「商品は見てもらったし、契約書も読んでもらったし! 海の物は、うちが出します。これからは真珠も。それで、陸の物も買いたいんです。お茶、砂糖、お菓子、ミルク、お酒。それと、布」


「布?」


「海では作れなくて、すっごく貴重なの」


アルバさんの目が変わった。


「待ってくれ。売るだけではなく、買うのか。こちらの商品を、海へ流すと」


「はい!」


長い沈黙。それから、ぽつりと言った。


「海から直接仕入れ、海へ直接卸す。……誰も持っていない道だ」


静かな熱のこもった声だった。


「なぜ、私の商会を?」


「ブルーノの魚を、ちゃんと見てくれたから。契約書も、最後まで読んでくれたから」


「……それだけか?」


「十分じゃないですか?」


アルバさんは、ふっと笑った。


「正直だな。商人として、嫌いじゃない」


差し出された手を、濡れた手でぎゅっと握る。後ろでブルーノが静かに言った。


「姫様。価格の欄は、後でもう一度確認しましょう」


「え、そこ? 今そこ?」


「大事です」


◇


アルバ商会との取引は、あっという間に軌道に乗った。


そしてある日、荷馬車から大きな包みが降りた。開けると、綿、麻、絹!


問題は、海では布はふにゃふにゃになること。そこでルージュさんの出番だ。


「いい素材ね。水の中でも使えるようにすればいいのね」


数日後、加工された絹は水の中でふわりと広がった。軽くて、しなやかで、光を受けてきらきら輝く。


「布だああああ!」


ブルーノが耳を押さえた。姉様たちに見せたら、みんなで取り合いの大騒ぎだった。


得意げなルージュさんに、お礼の焼き菓子を渡すと、彼女は一口かじって固まった。


「…………何これ。甘い! こんなの海にないわ! もう一個!」


その日から三日に一度顔を出すようになり、やがて「通うのが面倒だわ」と、工房ごと領地に引っ越してきた。理由は聞くまでもない。お菓子だ。


ブルーノが小声で言う。


「完全に、胃袋をつかまれましたね」


聞かなかったことにした。


◇


夕方の入り江は、毎日お祭りみたいだった。桟橋には荷馬車が並び、ウミウシさんがのんびり魚の箱を積んでいる。加工された布の包みを抱えて人魚たちが、王都へ泳いでいく。


桟橋の端に座って、尾びれをぱしゃぱしゃさせながら眺めていた。


海から陸へ。陸から海へ。物と人が、行ったり来たりしている。絹を積んだ荷馬車が行き、その絹が海を越えて届く。その光景が、前世で見た何かと重なった。


「まるでシルクロードみたい!!」


ブルーノが振り返る。


「シルクロード?」


(しまったあああ! こっちにそんな言葉ない!)


背中に冷や汗が流れる。どうごまかす。東西を絹が行き交って……ああもう、説明できない!


その間にブルーノは、顎に手を当てて真剣に考え込んでいた。


「……ああ。もしかして」


「え」


「王都まで、絹を運んでいるからですか?」


純粋な善意で、自分なりの答えにたどり着いた顔だった。


「そう!」


全力で乗っかった。


「なるほど。絹の道、ですか。分かりやすいですね。私たちがひいた、シルクロードですね」


「そう!」


後ろで荷運びの人が「シルクロードか、いいな」と言っていた。アルバさんの帳簿には「海のシルクロード」と書かれ、ひと月もしないうちに、市場でもそう呼ばれ始めた。


「待って待って、私そんなつもりじゃ」


「いいじゃないですか、姫様。いい名前です」


……いいのかなあ。


◇


アルバさんが、封蝋のついた手紙を掲げた。


「アンジェラ殿。王宮から、お呼びだ。海から直接商品を仕入れる商会が話題でね。王宮が、この交易を正式に扱いたいと」


差出人は、王太子シュバルツ・カーディナル。


(あの人、やっぱり王太子だったんだ)


胸がどきどき……はしなかった。頭に浮かんだのは、(王宮が後ろ盾なら、ミルクと砂糖の仕入れも安定するかも)だった。


「行く行く! 商談でしょ?」


ルージュさんが工房で、ふふんと笑う。


「いいもの作ってあげる。車輪付きの、移動用水槽」


「ルージュさん天才!」


「当然でしょ」


◇


王宮は、でっかかった。白い石の広間、高い天井、ずらりと並ぶ大臣や貴族たち。その中をブルーノが、布をかけた水槽をごろごろ押して進む。中の私は息を潜めていた。


(演出どうします、って聞かれて、軽い気持ちで「任せる!」って言っちゃったんだけど)


「本日は、お時間をいただき、ありがとうございます」


ブルーノが丁寧に頭を下げる。大臣が咳払いをした。


「うむ。貴殿が噂の行商人か。このたびの交易について――」


「その前に。まずは、ご覧いただきたいものがあります」


「……ご覧?」


ブルーノが布の端を掴む。


「失礼いたします」


ばっ。


水槽、バーン!


広間じゅうの視線が、一斉に私に刺さった。水面にひょこっと顔を出して、手を挙げる。


「どーも、人魚姫です」


「…………」


しーん。誰かが書類を落とした。


「ひ、ひめ……?」「人魚……?」「本物か……?」


大臣が口をぱくぱくさせている。


(思ったより衝撃だったかな。まあいいか。商談はインパクトも大事って言うし)


そのとき、玉座のそばから声が響いた。


「……君は」


立ち上がった青年は、黒い髪に、黒い瞳。濡れてなくても、やっぱり顔がいい。さすがイケメン。


「あー! お久しぶりです……?」


「あの嵐の……」


「はい。どうも、人魚姫です。覚えていますか?」


あらためて名乗ってにっこり笑うと、彼はゆっくり息をついた。


「覚えている。ずっと探していた。命の恩人に、礼を言いたかった」


王太子が、水槽の前で深く頭を下げた。広間がざわっとする。


「ありがとう。あの時、君がいなければ、私は今ここにいない」


「あ、いえいえ! 顔上げてください! どういたしまして! 無事でよかったです!」


それだけ。恋にすらならなかったのだ。恨みも未練も、当然ない。


彼の隣で、静かな目をした女の人が私を見つめていた。


「浜辺で聞こえた声は……あなたでしたか。私が駆けつけたとき、もう誰もいなくて」


「温めてあげてって言ったやつです! ちゃんと温めてくれて、ありがとうございます!」


「ふふっ」


ジュリアンと名乗った彼女は、嵐の日に浜辺で王太子を見つけた人だ。二人の距離感を見れば分かる。王太子はごく自然にジュリアンの隣に立っていて、ジュリアンもそこにいる。


(うん。負け戦、撤退して正解)


ちっとも悔しくない。むしろ、ほっとする。


「アンジェラ・プロテウスです。人魚の王家の末娘です」


「シュバルツ・カーディナルだ。この国の王太子をしている」


自己紹介が済んだところで、私は水槽の縁に腕をのせた。


「ところで! 商談をしたいんですけど!」


王宮の人々が一斉に「えっ」という顔をした気がした。


「……商談?」


「はい。うちの領地、人間の国に近くて。海と陸の物が行ったり来たりしてるんです。王宮が正式に扱いたいって聞いたので」


ぐっと身を乗り出す。


「私の領地と交易を! ぜひ!」


一瞬の静寂のあと、ジュリアンが口元を押さえて笑い出した。


「失礼いたしました。ただ、命の恩人の人魚姫が、最初に口にしたのが商談だなんて」


シュバルツも、とうとう噴き出した。


「分かった。喜んで。命の恩人に報いるには、これ以上の方法はない」


「いえ、恩返しとかじゃなくて、普通に商売です」


「そうか」


シュバルツは、また笑った。


契約書の草案に目を落としていたジュリアンが、ふと顔を上げる。


「この価格、そちらの国が損をしているように見えます。こちらに有利すぎませんか?」


ブルーノが咳払いした。


「姫様は最初、もっと先方に有利な数字を書かれていました。それでは長続きしないと、僕が直しました」


「ブルーノに怒られました」


「怒ってはおりません」


ジュリアンがくすっと笑って、シュバルツを見る。


「殿下。この方は、信用できます」


「ああ。私もそう思う」


……なんか、すごく評価されてない? 私は、ブルーノの言うとおりにしただけなんだけど。


◇


海に戻った私は、まっすぐ父様のところへ飛び込んだ。


「父様! 人間の王国とも交易できることになった!」


「ほう! それはよかった」


父様が笑顔で頷いて――ふと、動きを止めた。


「……人間の、王国と、と言ったか?」


「うん。王太子殿下が直々に。ちゃんと書面も交わしたよ」


父様がこめかみを押さえる。


「……それ、国交だな」


「交易だけど?」


「アンジェラ。王国と、人魚王家の領地が、正式に、継続して行き来をするという取り決めだ。つまり、国交だ」


「…………え?」


背後から、姉様たちの声が飛んできた。


「うちの子すごい!」「国交!? 結んできたの!?」「さすがアンジェラ!」


あっという間に取り囲まれる。胴上げされそうな勢いだ。


「いや、待って待って。私、ただ、もっと商売したかっただけなんだけど」


「それが一番すごいところなのよ」と祖母様が穏やかに笑う。


「そんな大事な話だったの……?」


父様は床にへたり込み、「うちの末っ子が国交を……」と呟いていた。喜んでいるのか泣いているのか、たぶん両方だ。


後ろのブルーノは、にこにこしていた。いつもより、ほんの少しだけ胸を張って。


「ブルーノは気づいてた?」


「おそらく、そうなるだろうとは」


「言ってよ!」


「楽しそうでしたので」


「ひどい」


けど、笑ってしまった。


◇


それから、数か月。


領地は、すっかり変わった。桟橋が増えて、倉庫が増えて、ルージュさんの工房も広くなった。真珠貝も、やっと最初の収穫ができそうだ。


「姫様。報告があります」


ブルーノが言った。


「先日、海棲哺乳類型の方が三人、領地を訪ねてこられました。人魚姫様の領地なら、哺乳類でも働けると聞いた、と」


「え、もちろん。能力があれば働けるでしょ?」


「……ええ」


ブルーノが微笑む。


「イルカ型の方は足が速いので荷運びに。ラッコ型の方は手先が器用なので、真珠貝の世話を」


「人手が増えた! やった!」


「ありがとうございます、姫様」


「え、なんでブルーノがお礼言うの?」


「いえ、なんとなく」


それ以上は言わなかった。入り江の向こうでは、新しく来た人魚たちが、ブルーノの淹れたお茶を真剣な顔で味わっている。気のせいか、今日のお茶は、いつもよりいい香りがした。


◇


夕方。桟橋の端に、私とブルーノは並んで座っていた。私の手にはミルクティー。ブルーノは足をぶらぶらさせながら、紅茶をゆっくり。


海が橙に染まっている。荷馬車と人魚たちが行き交い、沖へ向かう絹の包みがきらきら光る。


思い返す。ブルーノを見て、優秀じゃん、と思った。ルージュさんを見て、すごいじゃん、と思った。海と陸で値段が違うなら、交換すればいいじゃん、と思った。


それだけなのに、気づいたら領地ができて、交易が始まって、国交まで結ばれていた。


(なんか、すごいことになってるなあ)


全部、普通にやっただけなんだけど。


「姫様。いかがですか、この領地は」


「いいね」


私は伸びをして、カップを置いた。


「さて、もっと稼ぐわよ!」


「さすが姫様!」


ブルーノの背中をバシンと叩く。


「あなたも、しっかり胸張って!」


「は、はい」


ブルーノが背筋をぴんと伸ばした。二メートル超の巨体が、さらに大きくなる。


その横顔を見上げて、ふと思った。


(……旦那候補にいいかもね)


ほんの少しだけ。ほんとうに、ほんの少しだけ。


すぐに、ぶんぶん首を振った。


「さあ、次は何を売ろうかしら!」


夕日の向こうで、私の領地が光っていた。


人魚姫には、泡になっている暇なんてないのだ。


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