婚約者が大丈夫じゃないのに追い詰めてくる
「無理しなくていいんだ」
「……はい」
婚約者が無理をしなくていいと言うから、しなくなったら「なんだか最近、変なんだ」と相談されたものの。だからどうしたと言いたくなったが、淑女の仮面をつけた笑みで「大変ですね」と慰めておいた。
無理しなくていいと言った彼のことだ、無理しなくていいという口癖をこちらも同じく、使わせてもらうことにしただけ。そうなると、どうだろうか。
彼は忽ち躓き始めたではないか。無理しなくていいと言う言葉は多分最初から気遣いではなかったと思う。婚約者に気を使う己を周りからよく見せたかっただけの見せかけ。
いわば、パフォーマンスやトロフィーみたいなもの。周りには良い婚約者、気遣いに溢れた男。未来の妻をこんなに労る、未来の夫の勲章みたいなものなのだ思う。
無理をしないでくれと言った言葉は、丸ごとそのままの意味じゃなかった。なぜわかるのかというと、頑張らずにある程度力と手を抜いて彼と向き合った途端、彼の口から「無理しなくていい」という口癖を全く聞かなくなった。
言葉をかける余裕を今現在、なくしているから。
前々から「無理しなくていい」「頑張らなくていい」「少し休んだらどうだ」といった羅列の言葉を投げかけると言葉にならないモヤモヤと苛立ちが浮かんでいた。その理由をやっと理解できたのは喜べること。なんせ、彼にその言葉をそのまま言ったら。
「やめてくれ。見てわからないか?頑張らなくていいと言われたくないんだ」
なんて、段々今までの余裕そうな態度がかき消えた。正直、初めてその反論を聞いた時、やっぱり!と思わずにはいられなくて。彼の言葉はやはり人の気持ちを逆撫でするものだったのだと、漸く正体を暴けてスッキリできた。
今の今まで、こちらへ無遠慮に言い聞かせてきたアレはなんだったんだ?と問い詰めたくもなかったが。しかし、彼へ似た言い回しを優しく、気遣いのできる婚約者としての顔を全力で浮かべて言うたびに内心、彼の顔が歪むのを眺める毎に。なんて楽しいのだと高揚感さえ感じる。
彼がこの気持ちを同じように思っていたのなら、本当に加虐性があり過ぎる。悪質な闇だ。ハマったら抜け出せないのもわかる。人をわからないように追い詰める感覚はまるで薬であり、甘いお菓子。
そのことをゼミで取っている年若い教授に言えば、然もありなんと腕を組み心理の仕組みを切々と並べる。このゼミに参加してからというもの、婚約者と対面するのがとっても楽しみになった。
心理学というものを知った後に、彼の頑張らなくていいとの言葉や表面のザラザラした部分を垣間見れるようになったのだから。わざとかと聞くと教授は首を振る。
「これは誰であろうとありえる」
人はわざと人を追い詰めようとする心理はなく、殆どは無意識下での本能でやるのだと説かれる。どんな善人でも、足を引っ張る行為を考えるより先にやるのだと。
「私は足を引っ張られていたのですか?」
「そうとも言うし、本当に気遣いの気持ちで言っている部分もある。一つだけではない。様々なものが混じり合うから言葉にできない。お前の婚約者に聞いても、あちらも恐らく言葉にできない。悪意というのは憎いからだけではない。お前は成績がいい。それを実は本人も知らないうちに、妬んでいる……なんて可能性もあるわけだ」
「え?そうなのですか?気付きませんでした。私は例え彼が成績が上でも、気になんてしませんけれどね。興味がないからってだけですが」
彼の悪意を知ってからというもの、パートナーとして見れなくなった。敵意に近い感情がある。
「もしかしたら、家などで親兄弟から揶揄われているかもしれないな。それとも、学園の友人たちに揶揄われていたりするのかもしれない。それは関係なく、本人が勝手に劣等感を感じているのかもしれないな」
「かもしれないばかりですね」
教授は薄く笑って最後に言う。
「今までのかもしれない全てが違っていて、本当は何も関係なく本人の性格だけで言っているかもしれない」
「それが一番、タチが悪いですね」
付箋を貼りながら、いつものように紙の端を整えて机に置く。教授は天才と言われ学園も飛び級をしたので、若くしてここへ学びを教えるために在籍している。
心理学というあまりに眉唾な学問を専門にしているのだ。エンネは心理学を知っていたので、構わず受講すればこちらの心理学の知識を出してみた。
そうしたら思った以上に興味を持たれて、こうして専属の助手のようにお互い情報交換をしている。かなり有意義で、エンネには把握しきれなかった婚約者の悪意なき悪意を紐解いてくれた。
しかし、破談や解消を目的にするには理由が弱く証拠もない。心理学はまだまだ認められていない分野である。法廷で出したところで、一つも認められることはないのだ。
どうしても婚約をなくしたいなと一人で悩んでいると、教授がならばここは一つ、もう一つの専門家を使ってみようと言いエンネを納得させる。
三ヶ月後、夜会があるからと婚約者が迎えにきたものの、どこか落ち着きがなかった。フォローしなくなった時から余裕をやけになくしていたが、今日は一段と悪い。足を揺らして爪まで噛む。不衛生だなと内心、顔を顰める。
「どういたしました?」
「な、なんでもない。気にするな」
「しかし、ここ最近お疲れ気味ですから心配もしてしまいます。父も大丈夫かと聞いてきますし」
「なっ、義父上が」
焦った顔をする男はさらに目をキョロキョロさせ問題ないと、腕を払う仕草をする。どう見ても問題があり過ぎる態度だった。
ここまできてしまうと、父でもちょっと婚約し続けるのはどうなのだろうと、思わせることができるかもしれない。
勿論、父が言った云々は真っ赤な嘘だ。どう反応するか見てみたくてカマをかけた。そうするとあっさり焦りを顔に出す。貴族の男として受けた教育をかなぐり捨てているほど、追い詰められているということが目に見えてわかりやすい。
「大丈夫だと言っておいてくれ」
「大丈夫だと?本当に?」
何もしなくていいの中に、大丈夫かい?などという台詞もある。本人が今までこちらに問いかけてきた癪に障る言葉が、本人から遂に出てきてしまった。そんなに心遣いがないとここまで追い込まれてしまうとは。
「大丈夫ですか?私が見る限り、なんだか顔色も悪いですし。休んではどうですか?誰も急かす人なんていないのですし」
探す人はいないが、今までされたことを真似してやる女がここにはいるが。悪いことはしてない。彼はこちらをずっと気にかけていた。歪んだものを向けていた自覚なく、向けていたとしても。それを許さない浅慮な女であると、この行動がわかっていても。
エンネにも悪気はないのだ。ただ、この人は自分にされたことをされて。自分みたいにならない前提で声をかけていたのだとしたら、言葉を告げても大丈夫ということになる。平気ならよし。
ダメになったのならばエンネは悪くなく、悪かったのは言葉で人を追い込んだこの男という何よりの証明になる。心理学の資料に添付でも、それなりに役に立ってくれるだろう。今後のこの分野の礎にするだけ。
夜会で婚約者を持ち上げて褒めて、凄い人なんですよと紹介した。未来の妻として夫を立てるのは褒められるべきこと。が、彼は褒めを言葉にして人に見せつける毎に、顔から汗を流した。どうしたのだと水を飲むことを薦めると、男はエンネの腕を持って強く握る。痛いなぁもう。
「やめてくれ」
「なにを辞めるのでしょうか?」
「他人にこちらがすごいと紹介するのを、やめてくれ」
「なぜです?私はあなたがいつも発破をかけてくれる言葉を聞き、今までやってこれたのです。それを感謝して私は人に教えているのですよ」
きょとんとした顔を浮かべ、首を傾げると震えた。顔も青ざめていて、心拍も早く辛そうだ。
「嫌なのですか?褒めることも、私が助かったということも。喜ぶことですよね?嬉しくないのですか?」
「そ、れは」
教授が言っていたものが今現在、彼の中でぐるぐるとタチの悪いお酒のように循環していることだろう。言語化できない、複雑な心情。それゆえに言葉にできず本人も無意識にやってきたことを、反論として使えない。言葉にしてしまえば、あっさり二人は関係を無くすのだろう。一言、言えばいいのに。
「どうしたのですか?あなたらしくないですね」
この言葉も彼に投げられた言葉の一つ。この言葉を聞いたあと、自分の何を知っているのかと腹が立った。
「なっ……!もう、いい。帰らせてもらう」
「そうなのですか?大丈夫ですか?お医者様を呼びましょうか」
「いらないっ。大丈夫……と、言うな」
最後は小さな声で付け加えた。その瞬間、やっぱりねと完結させた。この人もこの言葉に追い詰められたのかと。こちらが心配でかけた言葉にじわじわと、攻撃されている気分にでもなっているのだろう。
「え?何か言いました?」
「な、んでもない」
聞こえなかったふりをして、ハンカチを出して汗を拭くとそれさえ煩わしそうに下される。
「というわけで、婚約解消になりました」
一ヶ月後のゼミ終わり。教授に報告してみた。
「というわけで?とは?」
「夜会以来、なかなか会ってもらえなかったので手紙をそこそこ多めに送ったのですよ。気遣いや見舞いを兼ねたものを」
「それはさぞかし……」
「はい。トドメになったみたいで。婚約解消になりました」
少々ノイローゼになったらしく、手紙で精神をやられたみたいだ。エンネはただ婚約者として過剰でも質素でもない、ちゃんとした距離感の言葉を書いただけ。それすらもう嫌だったみたいだ。婚約者の言葉に追い込まれるとは、随分と自尊心がやたら高かったのかと納得した。
「嬉しいのか」
「はい。私が一番アレにはウンザリしてましたから。気遣いが周りの評価を得るためのものなら、言われた方はたまったものじゃないですよ」
エンネも観察してから、彼は周りに聞こえよがしに言うことに気づいた。二人きりの時はシンプルでどこか偽善的で、演じている気がしていた。
なのに、人前になるとまるで愛しているから失いたくないような気迫で、こちらを大切にしている言葉を告げるのだ。白い目で見ていくのも仕方ないこと。
エンネは自らを高める研磨剤ではないのだ。それなのに本人に自覚がないとは。言ってもそんなつもりはないと言われることは、会話をしていたらわかる。自分大好き男なだけだ。しかも、人のプレッシャーには激弱な。
婚約を解消されましたと報告をすると、教授は普段感情を露わにせずクールに対応したりするのに今はなんだか、なんとも言えない生温い目をしている。どうしたのだろう。いつもならば淡々としているのに。
「はぁ〜。で、このままで居続けるのか?」
「いえ、婚約者は勿論、探しますよ」
「そうか……しかし、心理を使って巧みに操るとは」
「え、操ってませんよ」
「は?」
彼は目を丸くして、こちらを見る。今日は初めて見る表情ばかりで新鮮だ。
「操ってない?いや、操ってる。故意に」
「故意?そんなつもりはありませんでしたよ。ただ、同じことをして試しはしましたが、彼が婚約を嫌になるかまでは私に予測なんてできません」
「いや、もういい。深淵を覗くことになりそうだ」
「そうですか?」
教授の疲れた目元がやけに気になったが、聞いても答えてくれそうにない。
「あの、私の婚約って心理学でなんとかなりません?」
「なるのなら、私にとっくの昔に婚約者が居ると思わないか」
「あ」
「あ、じゃない」
バカを見る目で見られて、アハハと誤魔化すように笑う。
「ただ、まあ」
相手の男はこちらを見ずにさらりと告げる。
「好かれたいから、否定をせずに共感をして嫌われないようにしている小手先は、使ったことがある」
「え、いつですか?私にも使えます?」
やっとこちらを見た彼は、ため息をまた吐いて首を振った。
「その鈍感さでは、使っても意味がなさそうだ」
「えー?」
二人きりの室内で、パチンと紙を纏める教授の心情を表したような音が響いた。
最後まで読んでくださり感謝です⭐︎の評価をしていただければ幸いです。全員に悪意はなかったりします。ただ、怒りと恨みが無意識に牙を剥いただけ




