ヒーロー
将来の自分をヒーローにでも思っていないか?
夜の帰り道だった。
終電の時間はとうに過ぎていて、駅前のロータリーにはタクシーが一台だけ止まっていた。昼間は人で埋まる広場も、今は風が通り抜けるだけの空間になっている。コンビニの白い灯りだけが妙に明るく浮かび上がり、その周りにだけ世界が残っているように見えた。
私はイヤホンを外し、誰もいない歩道を歩いていた。
夜は好きだ。
静かだからというだけではない。
昼の世界では、人は何かになろうとしている。優秀な人間。面白い人間。好かれる人間。必要とされる人間。私も例外ではない。学校へ行けば真面目でいようとするし、人と話せば相手に合わせようとする。気づけば、自分がどう見られているのかばかり考えている。
けれど夜になると、それらが少し遠ざかる。
誰も見ていない道路を歩いていると、自分が何者でもなくなったような気がするのだ。
そんな夜、私はよく将来のことを考える。
未来の私は何をしているのだろう。
小説を書き続けているだろうか。
今抱えている悩みを、いつか笑って話せるようになっているだろうか。
あるいは、今より少しだけ強い人間に
なっているだろうか。
そんなことを考えていると、不思議な気持ちになる。
人は時々、未来の自分をヒーローのように想像する。
いつか成功した自分。
いつか認められた自分。
いつか全部を乗り越えた自分。
まるで遠い未来から現れて、
今の自分を救い出してくれる存在のように。
私もそうだった。
苦しい時ほど、未来の自分を夢見ていた。
今は駄目でも、そのうち変われる。
今は何者でもなくても、いつか特別になれる。
そんな期待に何度も助けられてきた。
だが最近になって思う。
それは少しだけ順番が違うのではないか、と。
未来の自分は、どこか別の場所に
存在しているわけではない。
今ここを歩いている私の続きを生きているだけなのだ。
眠れない夜を過ごしている私。
将来が不安で仕方ない私。
誰にも言えない悩みを抱えている私。
未来の私は、その延長線上にいる。
当たり前のことなのに、時々忘れてしまう。
ヒーローは突然現れない。
空から降ってくるわけでもない。
未来から助けに来るわけでもない。
むしろ逆なのだ。
未来のヒーローを作っているのは、
今の自分なのだと思う。
そのことに気づくと、少し怖くなる。
私は決して立派な人間ではない。
他人と比べて落ち込む。
失敗を引きずる。
自分には才能がないのではないかと悩む。
何も成長していないような気がする日もある。
周りだけが前へ進んでいて、
自分だけが取り残されているように感じる夜もある。
けれど、もし未来の私が今より少しでも誇れる人間に
なっていたとしたら。
その人間はきっと、今の私を覚えているはずだ。
報われる保証もないまま努力した日々を。
結果が出なくても続けた時間を。
誰にも見られない場所で悩み続けた夜を。
覚えているはずなのだ。
そしてたぶん、笑わない。
情けないとも思わない。
なぜなら、その未来は今の私が作ったものだからだ。
夜道を歩いていると、小さな自動販売機が見えてきた。
古い機械だった。
蛍光灯は少し弱く、白というより青白い。
売り切れのランプもいくつか並んでいる。
私は温かいコーヒーを買った。
ガコン、と鈍い音がする。
取り出した缶は思ったより熱かった。
両手で包む。
冷えた指先に熱が伝わってくる。
その時、ふと思った。
ヒーローという言葉は、
少し誤解されているのかもしれない。
私たちはつい、特別な人間を想像する。
大勢に称賛される人。
何か大きなことを成し遂げた人。
誰かを救う人。
けれど本当は違うのではないか。
本当のヒーローとは、誰も見ていない場所で自分を見捨てなかった人なのではないか。
不安な朝に起き上がる人。
失敗しても学校へ向かう人。
傷ついても誰かに優しくしようとする人。誰にも褒められなくても、自分の人生を投げ出さない人。
そういう人たちのほうが、ずっと静かで、
ずっと強い気がする。
未来の自分をヒーローだと思うことは悪くない。
むしろ必要なことなのかもしれない。
人は希望がなければ前を向けない。
けれど忘れてはいけない。
そのヒーローは今日という一日からしか生まれない。
五年後の自分を作るのは今日だ。
十年後の自分を作るのも今日だ。
今この瞬間の選択が、
少しずつ未来へ積み重なっていく。
私は缶コーヒーを一口飲む。
少し苦かった。
遠くで貨物列車の音が聞こえる。
街灯は変わらず道路を照らしていた。
世界は静かだった。
私は再び歩き始める。
特別な人間になるためではない。
誰かに認められるためでもない。
ただ、未来の自分が振り返った時に、「あの頃は苦しかったな」と笑えるように。そしてもし、その未来の自分が少しだけヒーローに見えるのなら。そのヒーローはきっと、今夜の私が作っている。街灯の下で伸びる影は頼りなかった。風が吹けば消えてしまいそうだった。それでも、その影は確かに私の形をしていた。未来のヒーローは、案外こんな夜からしか生まれないのかもしれなかった。
今やってもいないのに将来変われると思うのはおかしくないか?




