僅かに変わる 小麦(17歳・高校生・♀)
七月。忌々しいことに、二つ年上の兄が実家に帰ってきた。
いつもあの男は、生ける屍のような目をしている。無気力で、まるで世界に興味がないみたいに。小さい頃は、感情の起伏がほとんどなく、淡々と物事をこなす兄を見て、内心「最高にクールだ」なんて思っていた時期もあった。
だけど、私が十歳を過ぎたあたりから、兄を見る目は変わった。あれはクールなんかじゃない。単に、好きなものが何一つないだけなんだ。全てが中途半端で、適当。そう気づいた瞬間、かつてクールに見えていた兄への気持ちは、明確な嫌悪へと変わった。
高校に入学してすぐに、あの男は実家の息苦しさから逃げるように家を出て、寮生活を始めた。実家の農業なんて、長男に放り出して。家族のことなんて、どうでもいいんだと、背中で語っていた。
それでも、色々気をかけてくれた亡くなった爺ちゃんに恩義があったのか、農作業が忙しい時期になると、たまにこうして実家に顔を出す。私は絶対に手伝わないけど。土にまみれるなんて、まっぴらごめんだった。私の夢は、札幌で美容師になることなのだから。
半年ぶりくらいに顔を合わせたカツヤ兄は、なんだか以前と僅かに違っていた。あの、淀んだような瞳の奥に、微かに光のようなものが宿っている気がする。気のせいかもしれないけれど。
家族も、もちろん私も、その変化に気づいて、訝しむように兄を見ている。一体、何があったのだろうか? あの無責任男が、まさか恋でもしたのだろうか? そんなことを考えると、鳥肌が立つほど気持ち悪い。
台所の隅から聞こえてくる、親兄弟のひそひそ話。カツヤ兄がいないのをいいことに、好き勝手な憶測を繰り広げている。「やっとやりたいことでも見つけたのかしら?」「まさか、恋人でもできたんじゃないの?」
長男のタカヒロ兄は、どこか浮かれた様子で「あいつ、鼻歌なんか歌ってるんだぜ。あの死んだ魚みたいな顔でよ」なんて、信じられないものを見たかのように楽しそうに話している。
突然、タカ兄は私に顔を向け、「小麦はどう思う?」なんて聞いてきた。
「別に……どうでもいいし」
そう答えた瞬間、私はハッとした。今の私の話し方、あのカツヤ兄とそっくりじゃないか。無関心で、投げやりで、まるで他人事のような。
脳裏に、高校時代のカツヤ兄の、あの無気力で淀んだ顔が鮮明に蘇る。途端に、胸の奥に黒い塊が湧き上がってくるような、言いようのない苛立ちに襲われた。あの時の兄の顔を思い出すと、どうしようもなくムッとしてしまうのだ。
カツヤ兄が帰ってきて数日が経った。家族はあの兄の変化にも慣れたようで、食卓ではいつものようにくだらない話で盛り上がっている。
私は相変わらず、あの無気力な兄のことを内心では見下していた。どうせまた、適当に農作業手伝ったふりして、適当に時間を潰して帰るんだろうと。
そんなある日の帰り道。
学校からの帰り道、自転車を漕いでいた時だった。近所の小さな男の子が、はしゃぎすぎて転んでしまったのか、膝を擦りむいて大声で泣いている。よくある光景だ。すぐに誰か大人が気づくだろうと思い、私はそのまま通り過ぎようとした。
その時だった。スーパーのビニール袋を提げたカツヤ兄が、まるで必然だったかのように現れた。そして、泣きじゃくる男の子に、躊躇なくそっと寄り添い、慣れた手つきで傷口を拭き、絆創膏を貼ってあげている。
信じられない光景だった。あんなに無関心で、面倒くさい人間関係を極端に避けていた兄が。
「大丈夫か?」
「お母さんは近くにいる?」
「お家は近いかな?」
まるで別人のように優しい声で、男の子に話しかけている。あの死んだ魚のような目は相変わらずだけど、その眼差しには、ほんのわずかな温かさが宿っているような気がした。コンビニという、様々な人が行き交う場所で働いていたおかげなのだろうか。
気持ち悪いほど優しい兄の姿に、私は内心で小さく「へえ」と呟いた。相変わらずあの覇気のない顔は好きになれないけれど、ほんの少しだけ、兄に対する評価を修正した。本当に、ほんの少しだけ。
その夜。
風呂上がりにアイスを食べようと、スマホを弄りながらダイニングにいた。すると、カツヤ兄がちょうど風呂から上がってきた。昔から変わらない、驚くほどの早風呂だ。湯気でほんのり赤くなった兄の顔を見て、今日の昼間の光景がふと頭をよぎった。
なんとなく、本当に、ただなんとなく、食べようと思っていたチョコミントのアイスを兄に差し出した。
「……え?」
兄は、予想外の行動に驚いた表情を浮かべている。
「別に、余ったから」
そう言い捨てて、アイスを兄に押し付けるように渡し、私は自分の部屋へと逃げ帰った。
ただ、それだけの、いつもと変わらない日常。私の心に、ほんの僅かな変化が起きたこと、無関心な兄はきっと気づきもしないだろう。