カツヤ(19歳・独身・♂)
僕の世界は、モノクロだ。
夢も、希望も、情熱も、僕の世界には存在しない。ただ、モノクロの日常が、永遠に続いていく。
だから、僕は深夜のコンビニで働いている。誰にも邪魔されず、誰のことも邪魔せず、ただ、そこにいる。
そんな僕の日常は、ある夜、突然色めき立つ。
広大な十勝平野に、黄金色の小麦畑と緑の牧草地がどこまでも続く。肥沃な大地は豊かな恵みを育み、朝露に輝く作物は、日本の食を支える力強い鼓動を奏でる。ここは、北の大地が誇る農業王国、十勝。
「なぁ、お前らもう将来決めたのか?」
夕焼けが染みる放課後、友人たちの言葉がやけに遠く感じた。進路希望調査の紙に書くべき言葉が見つからず、僕はただ鉛筆の先を見つめていた。
あれから数ヶ月。地元の高校を卒業した友人たちは、都会の大学へ、憧れの会社へと、それぞれの場所へ飛び立っていった。まるで、春風に吹かれたタンポポの綿毛みたいに。
だけど僕は、まだこの場所に根を張ったまま動けないでいる。
実家の手伝いは気が向いた時だけ。昼間はぼんやりと空を見上げ、夜になると制服に袖を通し、街から少し離れた国道沿いのコンビニエンスストア『サイコーマート』へと向かう。
深夜の店内は蛍光灯の光だけがやけに明るく、時間が止まっているみたいだ。田舎だから仕方ないのかもしれない。深夜に訪れるのは、長距離トラックの運転手さんが缶コーヒーとおにぎりを買うくらい。
僕は今日も、温められたお弁当を無機質な声で差し出す。やりたいことなんて、見つからないまま。ただ、過ぎていく時間を持て余していた。
ある日、眠りにつくと意識はどこか遠くへ連れ去られた。
見渡す限りの荒野、焼け焦げたような大地。鉄と硝煙の匂いが鼻をつき、怒号と剣戟の音が絶え間なく響いている。ここは僕の知る世界じゃない。まるで、物語の中の戦場に迷い込んだみたいだ。
人々は皆、泥にまみれ、傷つきながらも必死に生きている。その瞳には、明日への希望のような、強い光が宿っていた。夢なんて持てないような過酷な世界で、それでも何かを掴もうと、もがき、足掻いている。
そんな彼らを、僕はまるで空から見下ろす神様のような視点で見つめていた。夢を持たない自分が、夢のために生きる人々を眺める。それはどこか奇妙で、胸に鉛のような重さを感じる。まるで、じわじわと責め立てられる拷問のようだった。
その時、頭の中に直接響くような、優しい声が聞こえた。
「ああ、カツヤ。すまないね。君に夢を見る力を与え損ねていたようだ。これから少しずつ、色々な経験を通して、夢を見つける手伝いをさせてほしい。」
掠れた、けれど温かいお年寄りの声。それは、もう何年も前に亡くなった爺ちゃんの声に、どこか似ている気がした。でも、もっと深く、もっと広い場所に響くような、不思議な声だった。
声が消えると同時に、意識はふたたび深い闇へと沈んでいく。さっきまで見ていた鮮烈な夢の光景も、遠い記憶の欠片のように、ゆっくりと薄れていった。
朝、目覚めた時、夢の内容を鮮明には思い出せなかった。ただ、胸の奥に小さな波紋のような、かすかなざわめきが残っていたような気がした。
その日の空気は、重く湿っていた。まるで世界全体が、分厚い灰色のベールに包まれているみたいに。
深夜のサイコーマート。オーナーとバトンタッチし、いつものようにワンオペが始まった。濃い霧のせいだろうか、通りを走る車の音もまばらで、店内はいつもの音楽が流れているが、心なしかシンと静まり返っている。
こんな日は、深夜の常連であるトラックドライバーの姿もほとんどない。僕は、届いていたお弁当やパンを棚に並べ、空になったドリンクケースに補充していく。単調な作業に没頭することで、暇を持て余した脳が余計なことを考えるのを押し込めるように。
外の霧は、時間が経つにつれてさらに濃さを増していく。店の前の国道すら、数メートル先が見えないほどだ。
「こりゃ、本当に誰も来ないな……」
思わず小さく呟いた言葉は、静寂の中にシャボン玉のように弾けて消えていった。僕は再び、無心で商品の整理に戻る。霧の向こうの世界とは隔絶された、コンビニエンスストアという小さな箱の中で、ただ時間だけがゆっくりと流れていった。
深夜二時を少し回った頃だろうか。ウーンと気の抜けた音を立てて、自動ドアが開いた。
やっと来たか、と倦怠感と共に顔を上げると、そこに立っていたのは予想の斜め上を行く存在だった。
でかい。とにかくでかい。二メートルは優に超えているだろうか。そして、何よりも目を引くのはその異質な容姿だ。全身を覆う鱗のような皮膚、細長く裂けた瞳。まるで、ゲームやアニメに出てくるトカゲのモンスターが、そのまま現実世界に現れたみたいだった。
……いや、待てよ?
あまりの非現実感に思考が一瞬停止したが、すぐに脳内である可能性が浮上する。最近、SNSで話題になっているクオリティの高いコスプレイヤーか!確かに、この完成度は素人レベルじゃない。深夜にこんな本格的なコスプレで来店するとは、なかなか強者だ。
面倒臭そうな客だな、というのが正直な感想だった。僕は警戒の色を滲ませながら、いつものように声をかける。
「いらっしゃいませ。」
すると、その“トカゲ”は、慌てたように辺りを見回し、低い声で問いかけてきた。
「ここは、なんだ?食料を売っているのか?」
その声は、見た目とは裏腹に人間と変わらない。しかし、その切羽詰まった様子は、単なるコスプレの域を超えているような……?
「最近のコスプレは、本当に良くできてるなぁ」
心の中で感嘆しながらも、僕は面倒臭そうなこの客に付き合ってやることにした。深夜の退屈な時間を紛らわせるには、ちょうどいいかもしれない。
「ええ、そうですとも。ここは地域密着型コンビニエンスストア、サイコーマートでございます。食料品から日用品まで、なんでも揃っておりますよ、旦那様。何かお探しでしょうか?」
意外とノリがいいじゃん、僕。内心そう思いながら、僕は精一杯の営業スマイルを貼り付けた。この奇妙な夜は、一体どこへ向かうのだろうか。
よく見ると、トカゲ男、略してトカ男のコスチュームは単なる作り物ではないように思えた。何か鋭利なもので切り裂かれたような跡や、擦りむいたような汚れが、リアルに再現されている。本当に、手の込んだコスプレだ。
「そう…ポーションはないか?」
トカ男は、焦燥感を滲ませた声でそう言った。「ポーション」とは、RPGゲームに出てくる回復アイテムのことだろう。まさか、本気で言っているのか?
まあ、暇だし、付き合ってやるか。僕は内心で苦笑しながら、営業スマイルを深めた。
「旦那様、ポーションでございますか。こちらへどうぞ」
僕はそう言って、栄養ドリンクが並ぶコーナーへと彼を案内した。ずらりと並んだカラフルなボトルの数々を前に、トカ男は怪訝な表情を浮かべている。
「これは、なんと書いてあるんだ?」
やっぱり、読めないのか。徹底的に役になりきっているらしい。
「これは、このお店特製のポーションでございますよ」と、僕はもっともらしい声で答えた。「こちらの赤いボトルのものは、タウリンがたっぷり入っておりまして、体力の回復に効果がございます。」
そう言って、一番エナジーがありそうなドリンクを指さすと、トカ男はゴツゴツとした指で、一枚の銀貨を僕に差し出した。
「タウリン?よくわからないが…これで頼む」
マジか。こんな古銭みたいなもの、どうしろって言うんだ?困惑した僕が銀貨を見つめた次の瞬間、それは信じられないものに変化した。僕の手の中で、くすんだ銀色のコインが、鮮やかな五千円札に変わったのだ。
「うわっ!?」
思わず声を上げそうになったが、なんとか堪えた。目の前で起こった奇跡に心臓がバクバクと跳ねている。これは、ただのコスプレじゃない。
「こ、これで、たくさん買えますよ!」
慌てて平静を装い、僕はぎこちない笑顔で言った。
すると、トカ男は少し警戒を解いたのか、声のトーンがほんの少しだけ優しくなったように感じた。
「これで何か他に食い物とか、買えるだけ頼む」
普段なら、こんなイレギュラーな客に特別なサービスなんてしない。でも、今は深夜の暇な時間だ。それに、たまにお年寄りの買い物袋を持ってあげるくらいの親切心は持ち合わせている。まあ、いいか。
僕は五千円札を握りしめ、トカ男にいくつかのおにぎりやパン、アイスクリームに数本の栄養ドリンクを見繕ってレジへで精算し、慣れた手つきで袋に詰めて手渡した。
会計を済ませたトカ男は、受け取った袋からエナジードリンクを一本取り出した。しかし、瓶の蓋の開け方が分からないらしい。次の瞬間、彼は力任せに瓶の頭を弾き飛ばした。勢い余って、中身が少し飛び散ったが、気にすることもなく店内で飲み始めた。
「あの、店内で飲まれる場合は税率が……」
喉の奥でそう言いかけた瞬間、トカ男の身体がまばゆい光に包まれたのだ。傷ついたように見えたコスチュームの破れや汚れが、みるみるうちに消えていく。憔悴していた彼の表情にも、生気が宿っていくのが分かった。
「すごいポーションだ!」
トカ男は驚愕の表情で叫んだ。その声には、先ほどの疲労の色は微塵も感じられない。本当に、あんな栄養ドリンクでここまで回復するのか?ちょっと試してみようかな、と頭の片隅で思った。
光が収まると、トカ男は改めて僕に向き直り、深々と頭を下げた。
「俺の名前はライリーだ。アシュロの国の戦士だ。よろしくな。」
まさかの自己紹介。こんな漫画みたいな出会い、一生忘れないだろうな。
「僕は……カツヤです」
咄嗟に自分の名前を告げると、ライリーは辺りを見回し、感嘆したように言った。
「まさか、こんな辺境の地に、これほど素晴らしい店があったとは……。信じられない。オレは、これから再び戦場に戻らねばならない。だが、この戦いが終わったら、必ずまた礼をしにここに戻る。その時はこの店で売っている、不思議な飲み物や食べ物を、ゆっくりと味わいたいものだ。」
正直なところ、怪物とコンビニ店員の交流なんて前代未聞で、どう対応すべきか分からない。迷惑と言えば迷惑だ。でも、彼の真剣な眼差しと、どこか切迫した雰囲気に、NOとは言えなかった。
「も、もちろん、お待ちしてますよ」
精一杯の作り笑顔でそう答えると、ライリーは大きな斧を肩に担ぎ、僕が手渡したレジ袋をしっかりと握りしめた。そして、高らかと笑いながら濃い霧の中へと、その巨体を消していくのだった。
「お釣り…渡し損ねた…」
後に残されたのは、微かに漂う異質な気配と、現実離れした出来事にお釣りを握りしめて呆然とする僕だけだった。