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 タチアナとガーニャという、家も隣同士で、とても仲が良い女の子たちがいた。彼女たちが住んでいるのは、農夫ばかりの村である。互いの親も農夫で、小麦や芋を育て、日々の糧を稼いでいた。

 彼女たちの生まれ育ったウクライナ人民共和国(当時は、ソヴィエト連邦の一国である)は、小麦がよく穫れる豊かな大地を持つ国である。

 ところが、ある時代から、農夫の手元に残る食糧は激減した。どうしてだか、幼いタチアナやガーニャには分からない。ただ、両親があまり笑わなくなって、朝食も夕食も満足に食べられなくなった。タチアナは、ガーニャを遊びに誘うたび、彼女の頬がこけていくのを心配した。

 ある日、タチアナは、家にあったパンを母の許可を得て外に持ち出した。ガーニャがいつものように家の前まで誘いに来たが、前みたいに思いっきり駆け回る遊びはしたがらなくなった。

座り込んでおままごとをした後、タチアナは、ガーニャにパンを差し出した。といっても、手のひらに収まるくらいの小さな塊だったけれど。

「あげる」

「いいの?」

 やせこけたガーニャはいぶかしんだ。

「いいの」

 タチアナが強く言った。

「でも、これはタチアナのパンなのに」

「いいったらいいの。ガーニャの方が、お腹が減ってるんでしょ? あたしの家には、少しだけ麦が残ってるから……」

 ガーニャは、タチアナの手の中のパンを見下ろした。かちかちに乾いて、今にも屑がはがれて落ちそうだ。だけど、ガーニャやタチアナにとっては、世界一美味しそうなご馳走だ。

 ガーニャのお腹が盛大に鳴る。体内からの激しい欲求に突き動かされて、ガーニャはひったくるようにしてそのパンを取った。

 お礼も言わず、大きな口を開けてパンにかぶりつこうとする。ガーニャの舌が、胃が、腸が、細胞の全てがこの瞬間を待ちわびていた__

 ガーニャは、はたとその手を止めた。

 タチアナが、首を傾げる。

「どうしたの?」

 ガーニャは唾を呑み、パンをポケットにしまい込んだ。

 食べたくなくなった訳じゃない。むしろ、許されるなら今にでもすぐパンを食べ切ってしまいたい。だけど彼女は、家族が待っていることを思い出した。何日も何も食べていないというのに、ふらふらの体を引きずって集団農場コルホーズに働きに向かうお父さん。つい先週、栄養失調のためにガーニャの弟を死産した母さん。ガーニャと同じかそれ以上に飢えに苦しんでいる彼らは、ほんのわずかばかりの食糧を、率先してガーニャに分けてくれた。

「これは……おうちに持って帰るね」

 ガーニャが言うと、タチアナは笑みを浮かべてうなずいた。



 タチアナが家に帰ると、父プローホルが迎えてくれた。

「おかえり、ターニャ」

「ただいま、父さん」

 プローホルは、ゆっくりと玄関をまたぐ娘を、そっと抱きしめた。腕の中の愛娘は、恐ろしく軽く、骨張っている。随分前から、少ない食糧を切り詰めてきたからだ。

「夕食は、スープだぞ」

「ほんと? 父さん」

 タチアナの大きな目が輝いた。

「ああ、本当だ。罠で鳥を捕まえた友人が、骨を分けてくれたんだ。熱々のスープだぞ。今夜は奮発して、キャベツも入れよう。といっても、芯だけだがな」

「やったあ。あたし、キャベツ好き」

 タチアナは満面の笑みで言った。その時、彼女のお腹が弱々しい音をたてる。

「おや、パンは食べなかったのかい?」

「ガーニャにあげたの。きっと、あたしよりお腹が空いてたから」

「ガーニャ……フェディルの娘さんか」

 プローホルは微笑んで、娘の薄い髪を優しく撫でた。

「それは、良いことをしたね。神様もお喜びなさるだろう」

 タチアナは、大きくうなずいた。家の中では、タチアナの母が、鍋の中身をかき混ぜていた。兄のアントンは、椅子に腰掛けて、ロシア語の教科書を読んでいた。かまどに掛けた鍋からは既に、えもいわれぬ良い匂いが漂い出していた。



 国営農場から帰宅したフェディル・ゴントゥイは、娘のガーニャが差し出した一切れのパンを見て、非常に驚いた。

「そのパン、どこで手に入れたんだ。うちには、一握りの小麦もないというのに」

 強張った脚をやっとの思いで動かし、穴だらけのブーツを脱いで背もたれのない椅子にゆっくりと腰掛けながら、ガーニャを問い詰める。

「まさか、ソヴィエトの旦那様方から盗んだんじゃないだろうな」

 ガーニャは、喜んでもらえると思っていた父親が厳しく張り詰めた顔をしているのが恐ろしかった。今もベッドで伏せっている母さんは、パンを見てとても喜んでくれたのに。水に浸して少しだけ柔らかくなったパンを、食べてくれたのに__。

「答えなさい、ガーニャ。このパンは、どうやって手に入れた?」

 フェディルに見つめられたガーニャは、震えながら答えた。

「タチアナが……くれたの」

「タチアナ?」

 フェディルは、ちょっと考え込んだ。

「……プローホル・リトヴィンの娘だな。隣の家の」

 この辺りで、小麦が残っている家はないはずだった。ソヴィエトは、農夫たちが収穫した小麦粉を文字通り全量徴発していったからだ。それは逆らいようのない決定事項であり、例外はないはずだ。

 フェディルは、隣人であるプローホル・リトヴィンのことを昔からよく知っていた。幼なじみだが、向こうの家の方が少しばかり裕福だった。1921年の飢饉では、こっそり蓄えた財産でなんとか食糧を確保し、フェディルや近隣の家にも分けてくれた。あの頃はそれで生き延びることができたのだが……

 フェディルの、生まれるはずだった息子は、母親の栄養失調のために死んだ。それなのに、あちらにはまだ元気な二人の子どもがいる。自分たちはもう何日も、何も口にしていないというのに、あちらの娘にはパンを他人に分け与える余裕がある。同じ村にいて、同じように働いていたはずなのに。

 同じ農夫なのに、こんなにも差があるのは何故か__フェディルはその答えを、前からよく分かっていた。それは、プローホル・リトヴィンが富農だからだ。暗い興奮に突き動かされ、フェディルは立ち上がった。

 娘の手から奪い取ったパンを握りしめ、フェディルは家を出た。

 ガーニャは驚いて追いすがる。

「どこに行くの?」

「村ソヴィエトのところさ」

「何のために?」

富農撲滅運動ラスクウラーチヴァニエだ」

 それっきり、フェディルは娘も、隣家の窓から漏れる灯りも顧みずに、荒れ果てた道を歩いて行った。



 スープは出来上がり、パンも切り分けられた。タチアナやアントンには少し大きめの一切れが配られた。一家皆が食卓につくと、プローホルが口を開いた。

「今晩も、食事をすることができる」

 タチアナは真剣に父の言葉に聞き入った。食べられる物を腹に収めることができる喜びを、幼い彼女もよく分かっていた。彼らが住む村には、ほんのちょっとの食糧の余裕もない。辛うじてリトヴィン家に小麦やキャベツが残っているのは、この間の徴発が行われる前に、小麦を秘密の貯蔵庫に隠したからだ。

「こうして、食卓を囲めることを、神に感謝しよう。そして、また明日も無事に夕食を摂ることができるように、祈ろう。我々はただ、神のお導きのおかげで運が良かっただけなのだから……」

 プローホルは、目を閉じた。瞼の裏に、死んでいった兄弟や父母の無惨な姿が浮かんだ。富農と呼ばれた老父母は全ての財産を取り上げられたのち、収容所に送られ、まもなくして死んだ。兄弟は、ソヴィエトに反抗して銃殺された。残された甥や姪は、ロシアに連れて行かれて、その行方は杳として知れない。

「……スープが冷めないうちに、食べるとしよう」

 鳥の骨を長い時間かけて煮込んだスープは、濃厚な脂が詰まっている。プローホルに倣って祈りを捧げた後、タチアナはスプーンで一匙すくった。


 その時、ドアが叩かれた。

 

 今正にスープに口をつけようとしていたプローホルは、はっとして立ち上がった。こんな夜に、一体誰だろう? 妻が怯えた顔でプローホルを見る。安心させるようにゆっくりとうなずいて、プローホルはドアに近づいた。

「__先に、食べていなさい」

 低い声でプローホルは家族に言った。だけどタチアナもアントンも、両親の発する得体の知れない空気に気圧されて、スープにもパンにも口をつけられないでいた。

 ノックは苛立ったように激しく繰り返される。プローホルは息を吸い込み、思い切ってドアを引いた。

 外にいたのは、3人の青年だった。プローホルも知っている顔だ。彼らの冷たい目に射られたように立ちすくみながら、プローホルはうめき声を漏らした。

「中に入れてもらおうか」

 青年の中の1人がそう言って、プローホルを押しのけた。寒い外から温かい室内に立ち入った3人の目に映ったのは、4人分のスープとパン__プローホルのような立場の者が今持っているはずがないものだった。

「プローホル・リトヴィン」

 青年がそう名前を呼んで、プローホルの肩に手をかけた。

「お前は、富農クゥラークだ」

 その宣告をされた瞬間、プローホルは我を忘れて叫んだ。

「違う! 違います! 私は富農なんかじゃない! 貧農です、ただたまたま小麦が余っていただけなのです!」

「小麦が余るなど、あってはならないことなのだ……」

 静かな憤りを込めて、青年はプローホルに言った。

「善良なる村の同志は、皆自分が収穫した小麦粉を一粒残らずソヴィエトの為に差し出した。お前だけが、ごまかしを行い、小麦をこっそり蓄え込んだ。怠惰で強欲で恥知らずな、階級の敵。それがお前だ。プローホル・リトヴィン、お前はスターリン同志の命令に背き、数千万の同志を欺いたその性根を、矯正されなければならない」

「全部でたらめです……皆を欺いてなどいない! ……そうだ、小麦粉は盗んだのです。飢えに耐えかねて、別の富農から盗んだんだ!」

「この村に残った富農は、お前だけだ」

 青年の灰色の目が、意地悪く輝いた。彼はドアの外に向かって手招きをする。

「入れ。捜査だ。今度こそ食糧の徴発を厳正に行わねばならん」

 入ってきたのは、村ソヴィエトの構成員__農夫の家に隠された食糧を発見する活動分子ブゥクシールたちだった。いや__もう1人いる。今や手錠を後ろ手にかけられ、椅子に無理やり座らされたプローホルは、あっと息を呑んだ。

「フェディル!」

 一番最後に入ってきた隣人フェディルは、まだ固いパンの一切れを右手に握りしめたまま、プローホルの家の中を見回した。立ち上がっておろおろしているプローホルの妻を見た。顔色はよくないが、まだまだ元気そうな二人の子どもを見た。質素だが小ぎれいな室内を見た。

 ソヴィエトの青年は、フェディルの背中を軽く叩いた。

「この同志が、お前の裏切りを通報してくれた」

 プローホルは唖然とした。

「フェディル……どうして。これまでの飢饉でも、私たちは助け合って生きてきたじゃないか……」

 フェディルはそれには答えず、空っぽの食糧庫を調べ回る男たちに「床下だ。プローホルはいつもそこに食糧を隠す」と教えた。

「フェディル!」

 フェディルは、食卓の上に目をやった。まだ一口も手をつけていない夕食が、耐えきれないほど良い匂いを発している。

 ソヴィエトの青年は、皿の中のスープをそっくり鍋の中に戻し、パンをアントンの手から奪い、フェディルに突き出した。

「今日の礼だ。家族と食べるがいい」

 フェディルは青年に頭を下げた。そして、リトヴィン家の夕食を大事に抱え、早足で出て行った。

 


 その夜プローホルはソヴィエトに連行され、家族の元に戻ることはなかった。

 めちゃくちゃに荒らされた家の中を、残された妻と2人の子どもたちが、丹念に片付けた。ソヴィエトの作業班が取りこぼしていった小麦粉が一粒でも見つかれば、それを舐めとった。空腹を紛らわすために飲んだ水は腹に溜まり、体を動かすのが次第に億劫になっていった。

 リトヴィンの家が富農であり、とうとう告発され罰を受けたという噂は、瞬く間に村中に広まった。ソヴィエトの目を恐れ、未亡人と遺児たちに手を差し伸べる中農や貧農は1人もいなかった。いや__ソヴィエトの命令がなくとも、他人に同情できる余裕のある人間がそもそもいなかった。

 食糧ばかりかろうそくも、皿も、衣服でさえも没収された空っぽの家の中で、プローホルの妻は2人の子どもたちを励ました。やせた大地を指で掘ると、地虫が顔を出す。それを捕まえることができると、貴重な蛋白質を摂ることができる。今だけ耐えきれば、また希望が見えてくる。前の飢饉だって、1年余りで終結したのだ。

 そう言い聞かせるプローホルの妻の目には、変わり果てた我が子たちの姿が映っている。アントンの腹は肥満の男のように膨れ上がっているが、手足は枯れ枝よりも細い。発疹が肌を覆い尽くし、かきむしる度に悪臭を放つ膿があふれ出る。タチアナの顔は老婆のように皺だらけで、濁った灰色だ。大きく飛び出した目が、以前のように輝くことは決してない。

 ある夜、母の提案で、3人は食卓についた。

 テーブルの上には何もない。パンやスープどころか、皿や灯りだって。アントンのすさんだ目が、ぎょろぎょろと家族を眺め回す。タチアナは何も言わない。

「アントン、タチアナ」

 母は子どもたちに言った。彼女は水ぶくれのできた足を引きずり、並んで座る子どもたちの肩を抱いた。

「あなたたちは、出て行きなさい__まだ、外に出た方が、生きる希望があるかもしれない」

「母さんは?」

 アントンがゆっくりと尋ねた。

「私は、残る」

 母もゆっくりと、息を切らしながら答える。

「お父さんが戻ってくるまで、ここで待つ」

「僕らも一緒だ」

「それは駄目よ」

 母は、2人の耳に囁いた。

「どんなことをしても、生き残りなさい。愛しい子どもたち……」

 アントンの腹が低く鳴った。

「どんなことをしても?」

 アントンが、驚くほど機敏に立ち上がった。それから、妹に向かって言った。

「タチアナ、出て行け」

 タチアナは首を振る。

「出て行けったら、出て行け!」

 アントンは絶叫し、唯一残された金属の鋤を手に取った。らんらんと光るアントンの目に恐ろしくなり、タチアナはよろめきながら家を出て行った。


 閉じたドアの中から、鈍い音が聞こえる。タチアナは逃げた。何も分からないまま、明かりのある方に歩いて行った。隣家の窓から、温かく柔らかい光が溢れていた。

 虫のように明かりに引き寄せられて、タチアナは窓の中を覗き込んだ。

 

 そこには、たまらなく美味しそうな料理が揃っていた。

 野草や芋を入れたスープに、野鳥のロース。分厚めに切ったふかふかのパン。

 タチアナは食い入るように、その食卓を見つめた。喉がごくりと鳴ったけれど、唾は枯れて湧かなかった。夢中で、タチアナは窓ガラスを叩いた。

 家の中で、食卓についていた少女がタチアナに気がついた。ガーニャだ。タチアナに手を振って近づいてこようとしたけれど、その父親が制止した。タチアナがどれだけ待っても、窓もドアも開かれることは決してなかった。

 やがて、タチアナはその場に崩れ落ち、動かなくなった。



 窓の向こうに少女が見えなくなってから、フェディルは再び食卓に向き直った。誰も知らない、プローホルのへそくりを木の下から掘り出したおかげで、食糧や来年のための種を買うことができた。だが、その娘に食事を分けてやるつもりはなかった。

 一生懸命、久しぶりの肉にかぶりついているガーニャの頭を撫でる。テーブルの向かいには、ようやく起き上がれるようになった妻が座っている。家族を守るためには、どんなことだってしなければならない。

「これで良かったんだ」

 フェディルは呟いた。タチアナや、プローホルを頭の中から追い出して、自分が今家族と食卓を囲める幸せをかみしめた。



 その頃、道ばたに転がるタチアナに気づいた村ソヴィエトの青年が、彼女の遺体を片付けるためにフェディルの家の傍に来ていた。何故、この家にはまだ食糧があるのだろう? そう訝しんだ彼が、同志を連れてフェディルの家に押し入るまで、数時間もかからなかった。


 


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― 新着の感想 ―
極限状態に置かれたとき、家族の命を守るためだとしたら、絶対に他人を犠牲にしないでいられるという自信は、正直ないな、と感じました。 理性を保っていられるのは、最低限の余裕があるうちだけだろうなあ、とも。…
[一言] ホロドモール。 歴史としては知っていましたが、当時のリアルな描写を拝見したのは初めてです。 勉強になりました。 切なくも学びとなるお話を有難う御座います。
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