閑話2:教官たちの空き時間②
*魔法学 ベイルード・エバーグリーン*
私は静かな時間を好む。
静寂の中で思索にふけったり、魔法書を読んだり、魔法を実際に使って理論を裏付けたりする時間は至福と言っていい。それは昔から変わらず、親しい人間はそれをよく知っている、はずだ。
それなのに、どうして彼女はそれを邪魔するのだろうか。
「ねえイル、ちょっと西の端まで行かない?」
「……アイリス」
ノックと言う概念を知らないのかと尋ねたくなるほど、ばあんっ、と勢いよくドアを開けた魔法使いの名前を呼ぶ。実際には毎回ノックをしろといっているため、知らないのではなく無視しているだけだろう。彼女の奔放さは今に始まったことではない。
静まり返っていた魔法室が俄かに騒がしくなる。ため息を深々とついて、ゆっくりと視線を来訪者に向けた。
「いきなり来て何を言い出すんだ」
「聞こえなかったの? じゃあもう一度言うわ、西の端に行きましょう」
言葉が通じるのに、話が通じない。
頭痛の気配を感じながら、語を継いだ。
「聞こえている。私が訊いているのは、なぜそんな遠いところまで行くのかということだ」
「私の魔法があれば、距離なんて無きに等しいから気にする必要はないわよ」
あっけらかんと笑う旧知の友人の、答えになっていない返事を聞き、苛立ちよりも諦めが胸の内に満ちていくのを感じた。どうせ何を言っても、これと決めたら彼女は突っ走る。
つまりこれは、確定事項だ。
小さくため息をつき、視線を手元に落とす。
「悪いが、次の時間は授業が入っている。一人で行くか、日を改めてくれ」
傍にあった授業日程表を確認してそう告げれば、アイリスは何も言わずにこちらへ近づいてくる。
「アイリス?」
「仕方ないから、サービスしてあげるわよ。感謝なさい」
どういう意味だと尋ねる前に、白銀の光が視界を満たした。
光が消え失せたとき、私は陽光を浴びていた。視界を埋めるのは、空と海の青。先ほどまで魔法室にいたのにも関わらず、だ。
「お前は本当に、私の話を聞かないな」
アイリスが得意の転移魔法を使ったことにはすぐに気が付いた。出会ってから、何度となく彼女に付き合わされているせいで経験値が高くなってしまっている。
「海、そしてこの地形……西の海岸リュミレスか」
「ご名答。流石は教官ね」
悪びれた様子など一切なく、アイリスが朗らかに笑う。そういえば、出会ってこの方、彼女が申し訳なさそうにしているのを見たことがない。
「私は魔法学の教官であって、地理は専門にしていない」
「細かいわね。いいじゃない、教官は教官なんだし」
「私が細かいのではなく、お前が大雑把すぎるんだ」
専門分野など、似た分野でもほんの少し違うだけで全くの別物となる。魔法学と地理学を一括りにする研究者や教官はまずいないだろうに。
全く、彼女らしい。
鼓膜を緩やかに揺らす波の音に耳を澄ませ、微かに笑った。
「海を見たのは久しぶりだな」
「あなた、基本的に書庫に引きこもるものねぇ。だめよー、不健康な生活をしていると体を壊すわ。もう若くないんだから」
母親のような台詞に、思わずため息が漏れる。
「生憎、まだ若造の部類だ。それに、よく徹夜で魔法書を読みふけっている奴の台詞ではない」
「私はちゃんと外に出てるわよ」
「私は毎日さっさと寝ている」
言葉に詰まったアイリスを視界の端でとらえながら、久しぶりに目にした海へ足を向けた。靴越しに伝わる砂の感触に、つい少しだけ微笑む。まだ自分の中にも子供心が残っているらしい。
「そういえば、イル。あなた水着持ってる?」
背後からの唐突な問いに、知らず眉が寄る。初耳な上、とても嫌な予感がしていた。振り向く。
「持っていると思うか」
勤務中にいきなり連れてこられて水着を持っている方がどうかしている。
「以心伝心って大事だと思わない?」
「最低限伝える努力もしない奴が言っていい台詞ではない」
今更だが、彼女は情報伝達能力にかなりの難がある気がする。相手が分かっている前提で話す癖があり、はっきり口に出す情報が少ない。
「じゃあ水着はないのね。まったくもう、泳げないじゃない」
「泳ぐ? 確か、お前は泳げなかったと思うが」
「私じゃないわ、イルが泳ぐのよ」
頭痛の気配がした。
「……アイリス、情報が足りない。質問をしてもいいか」
仕方ないわね、と上から目線で頷いた彼女に向けて口を開き、片手の人差し指を立てた。
「一つ目。お前はこの海で私に泳がせたかったのか」
「ええ。私は泳げないもの」
中指をたてる。
「二つ目。それは何のためだ」
「そうねえ……」
アイリスが首を傾げ、ほんの少し微笑んで見せた。
「ねえイル、リュミレスって魔獣が多いのよ」
「知っている。東の森、西の海岸は魔物の生息数も種類も桁外れだというのは研究者の常識だ」
「なんだ、知っているんじゃない。なら分かるでしょう」
説明不要だと結論付けたらしいアイリスは、もう裸でいいかしら、などと恐ろしいことを呟いている。顔が引きつった。
アイリスは他人の、特に男の扱いが雑すぎるきらいがある。もはや何をしてもいいと思っている節があるのだ。裸で魔獣の生息する海を泳げというのは生命的な、偶然が重なれば社会的な死にもつながりかねない。前者に関しては水着があっても同じだが。
「魔獣の調査でもしたいのか?」
「いいえ、それはもう終わっているわ」
そして、あっけらかんとアイリスは言う。
「私、泳げる魔獣が欲しいの」
魔獣が欲しい。つまり、魔獣と個別契約をしたいという意味か。
「お前にはもう魔獣がいるだろう」
「いるわよ? 空属性の銀虎〝月影〟、闇属性の夜烏〝小夜〟ね。とっても可愛がっているし、とっても優秀ないい子たちよ。別に、あの子たちに不満があって新しい子を探しているわけじゃないわ」
他の話題の時には決して見せない穏やかな笑みを唇に刻み、歌うようにアイリスは魔獣たちを語る。人間としてどうかと思うこともあるが、彼女の身内への愛情は素晴らしいものだと思う。魔法技術と合わせて二つしかない彼女の美点だ。
「……ちょっとイル。今、あなた私の事を貶さなかった?」
「口に出していたか?」
「思ってたのは認めるのね。はぁー、ねちっこい男はやだわぁ」
「お前が雑すぎるだけだ。しかも、お前も私を貶しているだろう」
いいから続けろ、と手のひらを向ける。
軽く白銀の瞳で睨みつけた後、アイリスは語を継いだ。
「話を戻すと、泳げないけど泳ぎたいから魔獣が欲しいの」
「お前が泳ぐ練習をすれば全て解決すると思うが」
「無理ね。それとも、あなたが毎日練習につきあってくれるのかしら?」
「魔獣を探そう」
アイリスが有言実行の人だと、私はよく知っている。たとえ私が拒否しようと、予定が立て込もうと、自分の好きな時間に魔法室を訪れて私を誘拐していくのだろうと想像に難くない。それが可能なだけに質が悪いのだ。
「仕方ないわね。イル、服を脱いでくれるかしら」
「断る」
何がどう仕方ないのかを問い質したい。恐ろしすぎる提案に即刻拒否を叩きつけ、頭を回す。
「一般的に、魔獣との契約の時は召喚魔法を使うだろう。なぜ直接探そうとするんだ」
何を言っているんだ、と言わんばかりの顔でアイリスが即答した。
「特定の魔獣に絞って呼び出すの、できないじゃない」
「範囲は絞りこめるだろう。水属性の魔獣の多くは泳げる」
「私を背に乗せられるっていうのを条件に入れて絞り込めるならそうしてもいいわよ」
そんな話は聞いたことがないし、そんな複雑な魔法式を組み立てられる人材はまずいない。手間に成果が見合わないから、誰もやりたがらない。誰が乗る前提で魔獣を探すと思うのか。
「…………」
「無理でしょう? だからここに来たのよ。気に入った子がいたら契約するわ」
だから早く脱いで海に入れと言うアイリスに、一つ、深く深く息を吐いた。覚悟を決め、タスクを負うしかない。二つの意味で命を懸けるくらいなら、多少の過労は引き受けた方がまだマシというものだ。
「アイリス、私が魔法陣を書こう」
「あら、かなり面倒な魔法陣になるわよ?」
「百も承知だ。死ぬよりマシだろう」
虚を突かれたかのように瞬きを繰り返していたアイリスが、やがてにんまりと嬉しそうに笑う。
「持つべきものは優秀でお人好しな友ねぇ」
「言うまでもないが、お前も手伝え」
「はぁ……仕方ないわね。美味しいコーヒーとお菓子で許してあげるわ」
「そもそも誰の我儘なのかを自覚しろ」
ふと我に返って取り出した懐中時計。そこに示された時間に思わず息を呑み、自分の目を疑って二度見した。
「……アイリス、今すぐ学院に転移してくれ。今すぐだ」
「は? どうしたのよ、そんなに慌てて」
「授業時間を過ぎているんだ、早く、早く戻らないと」
きょとん、と数秒白銀の瞳を瞬かせ、アイリスは呆れ交じりの笑みを浮かべた。
「馬鹿がつくほど真面目ね、あなたって」
「教師が遅刻するなど……気を抜きすぎた」
やれやれと言いたげな様子でアイリスは魔法陣を展開させ、視界は白銀の光で満たされていく。
「まったく、私がいてよかったわね」
何やら世迷言を呟いた旧友に、再び顔が引きつる。
「誰のせいでこうなっているのかを自覚しろ」
光が粒となって空気に溶けた時、視界に広がったのは見慣れた静かな部屋だった。




