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15 落とし物

 こぽっ、と耳元を掠めて泡がゆらゆらと昇っていく。少し息が苦しくなってきたが、もう少し大丈夫だろう。

 そう思ったとたん、うっかり口から大きな泡が零れ、俺はすぐさま水面へと顔を出す羽目になった。


「レオ、見つかった?」

「まだ」


 酸素を貪りつつ短い返事を寄越せば、尋ねた少女はさっと顔を曇らせた。そしてその数秒後には笑みを浮かべるのだ。


「探してくれてありがとう。もういいわ、大丈夫よ」


 眉を下げて無理に笑うその顔が痛々しくて、俺は濡れた腕を伸ばして頭を撫ででやる。何で見つからないの、と怒って泣かれた方がまだマシだ。

 こんな時、ノアだったら。あいつならきっと、目の前の少女が無理に笑わなくても良いようにできるだろうに。


「待ってろ、見つけてやるから」


 言うや否や、肺に詰め込めるだけの空気を吸い込んで、水の中へと戻った。

 広い広い湖で、俺は果たして見つけることができるのだろうか。

 小さな、けれど大切な落とし物を。




 事の始まりはおよそ一時間前。

 母親に頼まれた薪割りのノルマをこなし、父親と兄の求めるままに火力の強い炎を魔法で出し続けた後、俺は久しぶりに国境に程近い森に来ていた。もう長らく野生の遊びをしていないから。

 ひょい、と容易く木の上に体を引き上げ、足を枝にかけて昇っていく。そろそろ折れそう、というところまで来て枝に腰掛ければ、遠く家々が見えた。

 やっぱり高い所は気持ちがいい、と知らず笑みを浮かべて、さわやかに頬を撫でる風に従うように目を閉じた。


「あああ! レオ、こんなところにいたの!」


 そしてすぐに目を開けた。甲高い声を探して下を見れば、幼馴染のお転婆少女がこちらを指さしていた。そういえば、帰ってきてから初めて会った気がする。久しぶり、だろうか。


「指さすな」

「帰っていたなら教えてくれてもいいじゃない!」

「話を聞け」


 上がってくるのと俺が降りるの、どっちがいい、と声を張った俺に、お転婆少女は刹那の躊躇いもなく、私が行くから待っててと叫び返した。直後、少女がスカートを豪快にたくし上げたのはもはや日常。


「……母親に叱られるんじゃないのか、それ」

「見られていなきゃ怒られないわよ。大体、ずっと女の子なんてやってられるわけないでしょ」


 桃色のリボンで結ばれた長い黒髪に、似たような色のふわふわワンピース。確実に木登りを想定していない格好の彼女に、上がって来るか、と尋ねた俺も俺だが、躊躇いなくスカートをたくし上げるこいつもこいつだ。


「よいっしょっと。あー、やっぱり木の上は気持ちいいわねぇ」


 少女は身軽に枝へと腰掛ける。幹を挟んで俺の反対側。言葉の通り、両手を広げて風を受け止める少女は酷く気持ちがよさそうだった。


「本当に久しぶりね、レオ」

「そうだな。何か懐かしい気すらするもんな」


 入学してから、この町を出てから、まだ季節は一つしか進んでいない。それでも、些細な日常が酷く懐かしかった。俺はここで生まれ育ったんだな、という感覚がする。


「なあモネ、お前どうしたんだ? 何か変わったよな」


 俺の知っているモネという少女は、いかにもか弱くたおやかな顔をしておきながら、男勝りなお転婆娘である。モネの親もそれを十分によく分かっているらしく、俺は王都へと行くまで、こいつのワンピース姿なんてほとんど見ていない。たまに見た数回は、商人である彼女の親に連れられて町へと出かけるときだけだった。


「ああ、これ? もう十歳になったんだから男の子遊びはおしまいよってお母さんに言われちゃったの。だから木登りも久しぶり」

「……そういうもんか?」

「そういうものよ。あーあ、レオもいなくなっちゃったしつまんない」

「まるで俺が毎日何かしらやらかしているみたいな物言いだな、おい」

「その通りでしょう?」


 他人事のように微笑むこいつだけには言われたくない。どこの悪戯小僧よりもわんぱくな少女がやらかしたことに何度も巻き込まれている身としては同意しかねる。

 ふと、モネがワンピースの裾を、今度はそっと広げて見せる。

 庶民の子供に与えるにしては随分上等な生地と細やかな刺繍は、おそらく相当値の張るものだろうと想像に難くない。どこかへ出かける予定でもあるのだろうか。


「見て。綺麗でしょう」


 本当に嬉しそうに頬を染め、モネは大切そうにワンピースを撫でる。


「あのね、お母さんがこの前町で買ってくれたの。わたし、お下がりじゃないお洋服はあんまりないの」


 モネには年の近い姉がいたから、モネはいつもお下がりを着ていた。俺もそうだが、同性で上に兄弟がいるとめったに新品なんて着られない。


「リボンも買ってくれたの。可愛いの」


 見せびらかしたくて仕方ない、と雄弁に語る笑顔に、俺も笑顔を返す。


「良かったな」

「うん、本当に良かった! でも今は動きづらいかも」

「当たり前だ」


 邪魔になっちゃった、とモネが髪のリボンを解き、まとめて結おうとした時。悪戯に吹いた風がリボンを空へと連れ去り、やがてひらひらと落とした。


「「あ」」


 その先がただの森なら、落ちる先が地面なら、俺たちは何の反応も見せなかっただろう。滑り降りてリボンを拾わなければいけないが、ただそれだけなのだから。

 横で息を飲む音が聞こえた気がした。

 お母さんが買ってくれたのに、と呟く声も。

 そんな短い時間に言い切れる言葉ではなかったから、俺の幻聴かもしれないけれど、俺はそう聞いた。考える前に手を伸ばし、幹を蹴っていた。


「レオっ!」


 少女が俺を呼ぶ頃には、俺の手は無事にリボンを掴み、体は真下の湖へと触れそうだった。まずい、落ちる、と思うのは遅かった。

 ぼちゃんっと音がして、勢いよく湖に落ちた。




 こぽこぽと耳元で水中特有の静かな音に、自分が湖の中に落ちたことを知る。

 こういう時には慌てずにじっとしているのが安全だと俺は知っているので、そのまま力を抜いて自然と浮き上がるのを待つ。水を搔き顔を出した。


「……っは、夏で良かったな、これ」


 全てが水浸しの今、もしも冬だったら風邪では済まない。まず凍った水面に体を打ち付けて死んでいる。


「レオ! 生きてる⁉」

「勝手に殺すな。昔から散々やらかしてるし、慣れてる」

「馬鹿なの?」


 心配を露に駆け寄ってきたモネは、俺の台詞を聞くなり呆れた顔に変わった。そちらの顔の方がいい。


「悪かったな、馬鹿で」

「いいから、早く上がって。今が夏であなたが馬鹿でも風邪をひくわよ」


 俺が馬鹿だという情報は今必要か?


 こちらを心配しているようでさり気なく貶してきたモネに顔が引きつる。お前はどれだけ俺を馬鹿だと思っているんだよ。

 水を掻いて岸へと泳ごうとし、自分の手が何も握っていないことに気が付いた。掴んだと思ったのに。


「待ってろ、潜ってくる」

「は? 何言ってるの、風邪ひくって言ってるでしょう」

「リボンがない」

「え」


 大丈夫よ、と笑うまでの数秒間、いつも笑みを絶やさないモネの顔がはっきと強張ったのが分かった。それを俺に見せまいと笑顔を作ったのも。


「……いいから上がって。リボンは」

「取ってくる。先帰っててもいいぞ」


 言うや、肺に空気を溜めて湖の中へと身を沈めた。


 見つけてやるから、無理に笑うな。


 本人には言えなかった言葉が、泡となって水面へと揺らめいた。




 湖の中はとても静かだった。たまに魚が横切るくらいで、音らしい音は、俺の口から洩れる泡が耳を掠める音くらいだった。

 魔力を使い、水流を操作する。まだ底には沈んでいないはずだ、と水面近くを探していく。柔らかな桃色を探し、俺はしばらく泳ぎ回った。何度か空気を吸いに水面へと戻らなければならなかった。

 そして。

 浅い部分の水草に掴まったリボンを無事に見つけることができたのだった。

 あった、と嬉しくなって全速力で距離を詰める。間違いない、あいつのリボンだ。


『見て。綺麗でしょう』


 嘘の笑顔ではなく、本当の笑顔が見られるだろう。あいつはああ見えて、女の子らしい可愛い格好も好きなようだから。母親に買ってもらったと喜んでいたから。

 あとは渡すだけだ。水流を上向きに操作する直前、ごうっと、静かだったはずの水の中が大きな音を響かせた。音と同時に強い水流が、体を背後の岩肌に叩きつける。


「……っつう」


 ごぽっと漏れた空気に自分の迂闊さを悟るがもう遅い。息がもう持たない。

 体は痛むが、直前で受け身も取ったし、水流を逆向きにしてクッションにもした。大分ダメージは軽減できたはずだ。


 早く上がらないと。


 再び音が響き、俺ごと辺りに影が落ちた。

 冬の晴れた空のような淡い青。雪が煌めくような白。海のような深い青。

 俺の眼前で悠々と泳いでいたのは、酷く大きな魚だった。純白の鱗、淡い青のひれ、深い青の瞳。正しく、湖のヌシ。

 その時視界に映った姿を、俺はきっと一生忘れないだろう。そう迷いなく思えるような、清廉で強靭で美しい姿だった。

 深い青は俺など全く気に掛けず、ただ前だけを見ていた。そして、すぐに泳ぎ去った。通りがかりの魚の群れをバクっと無造作に食いながら。


 岸へと上がるや否や、危ないだの風邪をひくだのと騒いだモネに、興奮冷めやらぬまま大きな魚の話をすると、湖の主って本当にいるのね、と瞳をキラキラさせて、私も見たかったと俺の肩を揺さぶった。ぐわんぐわんした。


「ありがとう。リボン、見つけてくれて」


 帰り道、モネの家の前で別れるとき、彼女はそっと微笑んだ。


「本当は大切なものだから。ごめんなさい、落としちゃって」

「いいさ、夏だしな。冬にやるなよ」


 にかっと笑みを返した俺に、ほっとしたらしいモネが両手を合わせて、我ながら名案だと顔にでかでかと書いて笑った。


「冬ならついでに滑って遊べばいいじゃない! 解決ね」

「その前に死ぬっての、この能天気娘!」


 やっぱりこいつは自由だ、と俺は改めて認識した。


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