中三編
「あたしほんとうはね、猫が飼いたかったの」
蛍光灯の豆電球だけ点けて、並べて敷いた布団に横になって、あたしは香織お母さんに話しかけた。
「猫が? ……何の話?」
優しい声が聞いてくれた。
「仲のいい友達もいなくてひとりぼっちだしさ、親からも見放されてるから、せめて猫と暮らしたいなって……思ってたの」
「猫ちゃんが好きなのね?」
「うん。でも、自分の病院代も払えないのに、ペットショップの猫はお迎えできなくて……。元々保護猫の里親になりたいって思ってたんだけど……」
「アパートに独り暮らしだから、無理だった?」
「資格が厳しくてね。しかもあたし、いつ孤独死するかわかんないし……」
「それで……」
くすっと笑って、お母さんが頷く気配がした。
「わたしを落札したんだ?」
あたしも笑って頷いた。
「人間だったら、アパートで一緒に暮らせるしさ、あたしがもし死んでも、少なくともそれで一緒に死なせちゃうこともないでしょ?」
「そうね。猫と違って」
声が真面目だった。
「でも、死ぬなんて言っちゃだめよ」
「あたし、もう死んでたんだよ?」
「何のこと?」
「社会的にね、死んでる気がしてたの。誰とも繋がりがないし、届く郵便物はダイレクトメールばっかりだし……」
お母さんは否定せず、ただ「うん」と言って、聞いてくれた。
「ゾンビになったみたいだったの」
「うん」
「お母さんを落札してよかった」
「ふふっ」と、お母さんが笑った。
「お母さんが一緒に暮らしてくれるようになってから、あたし、人間に戻れた気がしてるの」
返事はなかったけど、聞いてくれてるのがわかるので、あたしは続けた。
「最初はね、嘘でもあたしに『愛してる』って、優しく言ってくれる人がお金で買えれば、それでいいって思ってたの。でも、お母さんは、3日が過ぎたら愛してくれてるフリなんてやめるのが普通なのに、ずっと優しくて、ずっと一緒にいてくれる。どうして……」
あたしは気になってたことを、遂に聞いた。
「どうして、そんなに優しいの? どうして、変わらずあたしのこと、本当のお母さんみたいに、愛してくれるの?」
「……トモちゃん」
香織お母さんの唇がピチャリと音を立てた。
「あなたの本当のお母さんは、あなたのことを見離してなんかいないわ」
珍しく、お母さんがわかったような、歯の浮くようなことを言った。
「気休めはやめて!」
思わず声を荒くしてしまった。
「そうだ! あたしを籍に入れてよ! 本当の親子になろうよ!」
「トモちゃん……」
「『元お母さん』がね、あたしが二十歳の時に、あたしに生命保険をかけてるの。今でも掛け金を払ってるはず。あれを取り戻して、受取人があいつになってるのを、お母さんに換えさせる!」
「トモちゃん……」
「ね? そうしよう! あたし、お母さんに恩返しがしたいの!」
お母さんは暗闇の中で、黙ってしまった。
あたしは囁くような声で、
「あたし……、お母さんがいなかったら、散らかったままの部屋で、ゴミみたいに死んでたかもなんだよ? 猫にも看取ってもらえずに」
そう言うと、静かに頭の中で計画を立てはじめた。
まずは生命保険の受取人を変更できるかどうか調べて、お母さんに保険金が入るようにできるのなら……
できるのなら……
何ヶ月振りだろう。
あたしは実家のインターホンを押した。
パタパタとスリッパの音が聞こえ、勢いよく小さく開いてすぐに止まったドアから、そいつの顔が見えた。
「智子……」
幸福そうな化粧と服で着飾ったそいつを肩で押しのけると、中へ入った。
「あなた……どうしてるの? ちゃんとご飯食べてる?」
背中から話しかけてくる声がわざとらしい。うざい。
「ねえ!」
乱暴な声でそいつに聞いた。
「メールでアポとった時に確認したアレ、返してよ?」
「そんなものどうするの? 生命保険の証券なんて?」
やっぱり渡したくないようだ。そりゃそうだよね。自分が今まで積み立てて来たお金みたいなもんだし。
何より娘が心筋梗塞で死んでくれりゃウッハウハー! なんだもんね?
「どう使おうとあたしの勝手でしょ? あたし名義のなんだから」
「それよりあなた……、仕事は? ちゃんとやってる? 病気はどうなの?」
「当分死なんよ。お生憎様!」
久しぶりの実家を見回した。
変わったな。浮かれた新婚の匂いがする。
幸せそう。
あたしがいないから、それはそれは幸せそうだった。
そいつは意外に素直に生命保険証券と契約書を差し出した。食卓の上に用意してあったそれを手に、わざとらしい芝居をして見せる。
「智子……。あたしがしたことは許してもらえないのはわかってる」
「うっせーよ!」
そいつの手からそれをぶん取った。
「じゃあな!」
保険の受取人を他人に変更することは、保険会社に問い合わせてみたら可能らしかった。
あたしの計画は着々と進んでいた。
「ねぇ、トモちゃん」
お母さんは今日も優しく笑ってくれる。
「食パンの袋を留めるアレで猫さんを作ってみたの。前に捨てちゃったでしょ? あれの代わりにして?」
「もういらないよ、そんなの」
あたしにもにっこり笑った。
「だってもう寂しくないから」
今日も小さなテーブルを挟んで、二人で向かい合ってコーヒーを飲んだ。
「この間、トモちゃん、わたしに聞いたでしょ?」
お母さんが話しはじめた。
「何のこと?」
あたしは本当にわからず、聞いた。
「どうしてわたしが、返金可能な期間を過ぎても、トモちゃんのこと変わらずに愛してるのかって」
「ああ……うん」
「わたし、この歳で未婚だけど。子供は欲しかったのよ? でも、仕事一筋で生きてるうちに、適齢期を逃しちゃった」
あたしはコーヒーを飲みながら、まっすぐお母さんの目を見て話を聞いた。
「『アイオク!』は愛をお金で買えるサイトなのよね。出品者はお金が欲しいから自分の愛を出品するのよね」
「それが普通だと思う……。お母さんは違ったの?」
「わたしはお金もだけど、それより愛する子供が欲しかったの」
世界一幸せなお母さんのように、香織さんは笑った。
「親子ごっこでもいいから、自分の娘が欲しかったの。愛してくれる人がいない以上に、愛する我が子がいないのって、不幸せだもの」
「ごめんなさい」
あたしの顔は、たぶん真っ赤っかだ。
「落札したのがこんな娘で」
「あなたでよかったわ」
宝物を見るようにあたしを見ながら、言ってくれた。
「本当に、運がよかった」
その優しい笑顔を見て、あたしの決心は固まった。
……次こそは本当に『後編』です