ハウンド・ドッグ
ジープのエンジンが低く唸り、ひび割れたアスファルトを西へと進む。崩れた看板や朽ちた車体、雑草に吞まれたガソリンスタンドが窓の外をゆっくりと後ろへ流れていく。かつての日本の残骸たちが、時を止めたまま、静かに過ぎ去っていった。
鉛色の空の下、遠くで雷鳴がくぐもった音を立てる。
助手席のナギサは膝に荷物を抱え、右手で左腕を掴んでいた。時おり手を入れ替える。緊張を逃がすための、小さな仕草。アズマはそれを見て、怯えと芯の強さが同居する不思議な印象を受けた。
フードの下で、いまどんな思いを巡らせているのか。
アズマはハンドルを握ったまま、密造酒の作り方を語り出す。話すことで、車内の静けさが少しだけ和らいだ。
「つまりだ、ポットスチルは時間はかかるが、風味がしっかり残る。トウモロコシなら甘みが強く、麦ならすっきりした味になる。昔の連中はメタノールを混ぜて量を増やしてたが、死人が出るから俺はやらない」
ナギサは目を細めて、真剣な表情で耳を傾ける。時おり、年相応の幼い声で質問を挟んだ。
「あの、蒸留器のことなんですけど、あの形って意味あるんですか? 樽の中でグルグルって……」
「昨日見たやつか。あれは自作のワームタブって冷却装置だ。グルグルしてるのは冷却効率を上げるため。蒸気を冷やして液体に戻す──それが蒸留だ。単純だが、いちばん大事な工程だ」
「言葉は難しいですけど……要は、お湯の煙を冷やしてお酒に戻すってことですよね? それでお酒の強さが上がる」
アズマはちらりとナギサを見た。その理解の早さに、内心で驚く。この少女、本当に十二、三歳なのか? だが、その疑念は口に出さず、ハンドルを握る手に力を込めた。会話が途切れ、風が廃墟の隙間を吹き抜ける。埃っぽい空気が車内に流れ込み、アズマの鼻をくすぐった。
「朝のサンドウィッチじゃ、力が持たないな。少し休むか」
ナギサは小さく背伸びし、こわばった体をほぐす。
「……そうですね。少しだけなら」
アズマは前方の廃屋を指さした。屋根がかろうじて残る、ぼろぼろの一軒家だ。ジープを止めて肩に散弾銃を掛け、アズマが先に降りる。ナギサは荷物を持って静かに後をついてきた。
「……静かすぎる気がします」
ナギサの呟きに、アズマは頷いた。この静けさは辺境の廃墟では珍しくないが、どこか不穏だった。
「こんな場所だ、仕方ない。物資が残ってたら儲けものだ」
錆びたドアを押し開けると、埃がふわりと舞った。倒れた家具、散乱した紙片──かつての暮らしの残り香が、微かに空気に漂っていた。
「二階は崩れそうだから上るな。俺は奥を見てくるから、玄関まわりを頼む」
二人は手分けして廃屋の物色を始める。アズマはキッチンの戸棚を開け、錆びた缶詰と砕けたカップ麺の容器を掻き出す。
シンク下のスチール道具箱は鍵が壊れていたが、中身は空。ライターが一つ残っていたが、火花すら出なかった。リビングのテレビ台には古びた電池が三本。端子は腐っており、使い物にならない。
ソファの下には歯の欠けた折りたたみナイフ。開閉はできそうだが、ロック機構は死んでいる。ナギサの収穫も似たようなものだった。瓶は空か割れており、靴箱には穴の開いたスニーカーと底の剥がれたサンダル。
「これ、動きますかね……」
ナギサが差し出した小型懐中電灯をアズマが手に取る。軽く振ると、カラカラと乾いた音。
「電池が膨張してる。使えないな」
しばらく探ったあと、二人はリビングに戻った。成果はゼロだった。
「まあ、こんなもんだ。誰かが先に漁った後だな」
ナギサは床に落ちた写真立てを拾い、埃を拭う。中には笑顔の家族写真。アズマは一瞬、その画を見つめた。
「……ここにも、誰か住んでたんですね」
「昔はな。今はただの空き殻だ」
アズマは雑誌を裏返し、埃を払ってソファに敷いた。
「水を飲め。少し休んでいこう」
浄水ボトルを差し出すと、ナギサは小さく礼を言って口をつけた。遠慮がちに水を飲むその姿を、アズマはじっと見つめる。どこか小動物のような、頼りなさと健気さがある。俯瞰するように煙草をくわえ、ジッポーを鳴らす。小さな炎が揺れ、白い煙が崩れた天井へ昇っていった。
「アズマさん、一人で暮らしていて……疲れませんか?」
「疲れるさ。でも、ジープと酒があれば、なんとかやっていける」
ナギサはぽつりとこぼした。
「……私、ずっと逃げてばかりでした。どこか、落ち着ける場所があればって……」
アズマは黙って手を伸ばし、彼女の頭にそっとフードを被せ直した。ナギサはわずかに目を見開き、確かめるようにフードの襟を握る。そのとき──
ぽつ、ぽつ、と天井を打つ音が変わった。
二人が空を見上げる。錆びた梁を伝って落ちる水滴。濁った輝きを帯びた雨──通称、放射性降下物と呼ばれていた。
「わっ!? 大雨ですよっ!」
「厄介なやつがきたな、戻るぞ」
アズマはジャケットを頭に被り、急いで身支度を整え、ナギサをジープへと引っ張る。雨粒が頬を刺すように降り、車体を叩く音が重く響く。アズマは座席を倒して地図を広げ、交易路を確認した。
「確か西の交易路があった筈だ。川の近くだが……仕方ないな、別ルートは遠回りすぎる」
「川の近く? 大丈夫ですか?」
「運が良ければ渡れるさ、じゃなきゃドザエモンになっちまう。タケコプターでも欲しいよ、まったく」
軽口を叩きながらも泥濘を避け、四駆車は迂回路へと進む。アズマは川の水位を気にし、進路を見定める。道路脇、廃車の陰で何かが動き、視線が張り付く。
廃棄物にしては不自然な布切れ。張り方から見て雨除けに間違いない。
そして革のぼろ服に身を包み、改造パイプ銃や刃物をぶら下げた連中の姿も目に入る。その後方にはドクロのペイントを施した軽バン。どの集落にも属さない略奪者の集まり──
アズマは無線機の周波数を合わせた。ノイズ混じりの声が漏れる。
「……白い髪のガキ、絶対に捕まえる……ジープもいい値で……」
ナギサの顔が強張る。アズマは目を細め、敵対を確信した。
「気づかれた。このまま突っ切るぞ!」
ジープが唸りを上げ、泥を跳ねて川沿いの道を突き進む。アクセルベタ踏みの強行突破。経験からの賭けだった。逃げるものは追われる。狩人と獲物の性である。しかしそれ以上に四駆車はタフだった。
「追っかけられるのは好きじゃないんだがな、特に野郎になんて」
不敵に笑うアズマは、サイドミラーを一瞥する。後方からバイクの轟音。軽バンから放たれた銃弾が車体をかすめる。
「ナギサ、伏せときな!」
アズマの叫び声に、ナギサは咄嗟に座席の下に身を滑り込ませる。小さな悲鳴を上げながらも、彼女は流れるような動作で工具箱を漁り、錆びたスパナを掴みとった。
「悪い人きらいっ!」
ナギサが叫びながら放り投げた鉄塊は宙を切り、バキッと軽バンのフロントガラスを砕く。運転手が動揺する中、破片が隣を走るバイクに飛び、バイクは泥濘で滑って転倒した。
「マジか……!?」
アズマは驚きに声を上げる。恐ろしく早い投球、ホントに素人か? 負けじと運転席に近づくバイクに、すかさずリボルバーを抜き射撃。銃声が響き、一人が倒れる。
「中々やるな、相棒」
ジープは放射能の雨を切り裂き、ぬかるみの道を突っ走る。ナギサの息が上がり、震えた声が漏れる。
「アズマさん、私……怖いです」
「おいおい、あの動きで怖いってか? ホントは俺より強いだろ?」
「そんなわけないですよ!」
後方のバイク音が遠ざかる──が、すぐに新たなヘッドライトが地平線を照らした。
「増援来やがったな。ライトが……七つ、いや八つか」
アズマはバックミラーを睨む。ナギサは新たなスパナを握り直し、濡れたシートに身を沈める。アズマは彼女のフードを直し、静かに目を細めた。
ジープは薄暗い車道を突き進む。不穏な曇り空が、追っ手との戦いの始まりを告げていた。
密造酒製造者として成功したいなら、
堂々と法律を破れないとな。
じゃなきゃ成功できない。
『とある密造酒業者』より




