桜咲く終末をきみと
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毎週土曜日は揚げ物の日だ。冷めたアジフライを、オーブントースターで温める。電子レンジを使うよりも時間はかかるけれど、衣の口当たりが全然違うことを僕は最近覚えた。週末のおかずがきまって揚げ物になってしまうのは、近所のスーパーの特売品が揚げ物だからだ。
温め直した小分けの冷凍ご飯、納豆とインスタントの味噌汁、アジフライをお盆にのせて台所を出た。昼間だというのに薄暗い居間には、仏壇に供えたみかんと線香の匂いが漂っている。つけっぱなしのテレビ画面にニュース速報のテロップが流れた。
――桜が世界を滅ぼすと判明――
「はあ、何言ってんの。エイプリルフールにはまだ早いって」
僕のつっこみをよそに臨時ニュースは流れ続けた。なりやまないメロディに頭が痛くなる。やがて番組そのものが緊急特番に切り替えられた。チャンネルを変えてみても、みな同じような状況だ。政府のなんとか担当大臣、どこかの研究機関の博士たち。誰もが悲壮感に満ちた顔で奇天烈な現象を解説しはじめる。
桜が及ぼす危険性について。
考えられる経済への影響。
各国の対策。
必要となる法整備の内容。
国民へのお願い。
大真面目な議論に、ニュース速報が冗談や誤報などではなかったことを実感する。
気がつけば食べかけのアジフライが畳に滑り落ちていた。日に焼けた畳が黄色く油で光り、焦げた衣が辺りに散らばっている。祖父が生きていたら、アリが来るだの虫がわくだの大騒ぎしたことだろう。
「一体どうなってるんだよ」
僕は頭が働かないまま、台拭きで畳の汚れをぬぐう。ぬるついた手を痺れるような冷水で洗い続けたけれど、こびりついた不快感はとれないままだ。
桜の一斉処分が決められたのはそれからすぐ、僕の町の桜の開花予想日まであと数日に迫った日のことだった。
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「薬剤は撒きおえたか?」
「ああ、問題ない」
「じゃあ、昼休憩にするぞ」
鼻を刺すような酸っぱい臭いが公園中に広がる。桜の切り株を枯らすための除草剤のせいで、僕はひとり咳き込んだ。
桜を切る。
切り株に穴をあける。
薬液を注ぐ。
切り倒した桜を運ぶ。
延々と繰り返される単純作業。
給料をもらえるどころか、一世帯につきひとり以上の参加が義務付けられている。参加できない場合には、代理を立てるための費用を払わなければならない。つまり、町内会の草刈りと同じタイプのボランティアだ。
じっとりと汗ばんだ上着を脱ぎ、ブルーシートに腰掛ける。商店街のひとが好意で用意してくれているお弁当に、おじさんたちが勝手に持ち込んだお酒におつまみ。まるでお花見でもしているかのよう。お弁当の煮物に舌鼓をうっていると、缶ビールが目の前につき出された。
「お疲れさま、せっかくだから一緒にどうだい。高3ならもう成人なんだろ? うん、来年からだったかな?」
「おいおい、ダメだぞ。それはセクハラじゃない、なんとかハラって言うんだ」
「18歳で成人になっても、酒やタバコは20歳からだってよ。いやあ、よくわからん法律ばっかり増えるねえ」
僕を間に入れつつ、実のところ僕なんて必要ない会話をする気のいいおじさんたち。一仕事終えてビールを飲む彼らは、ほろ酔い気分で盛り上がっている。
それにしても。桜は本当に世界を滅ぼすのだろうか。切り倒された桜を見つめる。みんなに愛され惜しまれながらも、処分されてゆく春を告げる花。数が多すぎるせいか、伐採前のお祓いの神事は、なんとリモートで一斉に行われたらしい。世界が滅ぶとしたら、むしろその罰当たりな行為のせいなんじゃないのかな。
「ほら、余った弁当は持って帰っていいよ。育ち盛りなんだから、ちゃんと食べなくちゃ。一人暮らし、大変だろ」
「……ありがとうございます」
下を向いたままお礼を言って、お弁当とお茶をもらう。それから小さなつぼみがついた桜の細い枝をこっそり拾って、弁当の入ったビニールバッグの中に押し込んだ。作業が終わって家に着いたら、空いたペットボトルに枝を挿しておこう。花が咲くまでの数日間、枯れないでいてくれたら十分なのだから。
翌朝、花の上で眠る小さな少女を見つけることになるなんて、誰が想像できただろう。
********
「きみは誰?」
僕が小さな声で問いかけると、彼女はあくびをしてゆっくりと目をしばたかせた。
居間に満ちる甘く優しい香り。持って帰ってきた桜のつぼみの匂いなのかもしれないが、ここまで艶やかに香る桜を僕は知らない。
彼女は、きょろきょろと周囲を見回していた。起きたばかりで喉が渇いたのだろうか。小さめのプラスチックコップに水を入れ、彼女に差し出してみる。
じゅっ。
彼女の指先から薄紅色の液体が飛び出し、音を立ててコップが溶けた。飲ませるつもりだった水だけがちゃぶ台の上に広がる。
「わ、ちょっと、台拭きどこだっけ!」
僕が台所から台拭きを持って戻ってきた時には、ペットボトルはおろか、ちゃぶ台そのものが消え失せていた。彼女は薄紅の液体をまとわりつかせ、宙に浮いている。
なるほどあの液体に触れた人工物は、どうやら消化されてしまうらしい。畳の上に転がり落ちていた桜の枝を拾い、どこに置くべきか少しだけ悩む。
「そうか、きみが世界を滅ぼす桜なんだね」
彼女は小首を傾げた。もちろん彼女からの返事はない。透き通った瞳が僕の顔を映す。
なんて綺麗なんだ、きみは。
僕は彼女に、食事を与えることにした。50年ほど前に祖父が建てたこの古い日本家屋には、信じられない量のがらくたが詰め込まれている。
「よかったら、食べてくれるかい?」
居間の壁に沿って置かれているものを指差す。祖母が花嫁道具として持ってきた鏡台、桐たんす。使っているところを見たことがない祖父のマッサージチェアー。すべて一瞬で溶かされていく。
「すごいな」
見た目の可憐さとは対照的に彼女は驚くほどの大食漢だった。狭苦しかった部屋に、明るい日の光が射し込む。久しぶりに雨戸を開けられて驚いたやもりが、家の中をあたふたと逃げ回っていた。
その後僕の説明が失敗したせいで、彼女は自身の名前を『さくら』だと認識してしまった。とはいえ、彼女は桜から生まれたのだ。名前として、これ以上ふさわしいものもないだろう。
*********
広くなった居間で、僕はさくらと暮らし始めた。こんな田舎町に世界を滅ぼす元凶がいるなんて、きっと誰も想像できないだろうな。
僕が持ち帰ってきた桜の花はすぐに枯れてしまったけれど、家の中は相変わらず薄紅色であふれていた。
彼女の周りを漂う例の液体は、日々その質量を増している。家が消えてしまうのは時間の問題だ。それでも僕は、さくらがそばにいてくれるならそれでよかった。
「そろそろおやつの時間かな。今日は何を食べようか」
僕が尋ねれば、すっかり人間の少女と同じ大きさになった彼女が、窓の外を指差した。人影が現れる。
「ちょっと、あんたたち、何しているの!」
「……こんにちは」
ああ、面倒な相手が来たもんだ。僕は仕方なく窓の外に向かって挨拶をする。僕に声をかけてきたのは、ご近所でも有名なやかましやのご婦人だった。
やかましやさんは、いつにもましてそのふくよかな体をだらしなく揺らしながら、窓ガラスの向こうでがなり立てた。
「まったく、裸だなんていやらしい。そういうことばかりお盛んで、恥ずかしいとは思わないの。それになんなの、その髪は。不良みたいに変な色にして。親の顔が見てみたいわ」
おばさんの言葉を聞きながら、こぶしを握った。爪がてのひらに食い込むように、わざと力をこめる。
そう、僕は裸だ。だってさくらといると、服なんて一瞬で溶けてしまうから。
そもそも他人の家の庭に勝手に入り込み、覗き見してくるおばさんが悪いはずなのに、言葉が出てこない。喉が詰まったように息が苦しくなる。
しゅるり。
唐突にさくらの左腕が伸びた。やかましやさんの声が消える。そのまま悲鳴ごと何もかも呑み込んで、彼女の腕は満足そうにくねくねと踊った。
蛇だ。彼女の腕が一匹の白蛇に変化していた。それはあまりにも奇妙で、不思議なほど彼女によく似合っていた。さくらが桃色の舌で唇をなめあげる。食欲と性欲は似ていると言うけれど、確かに今の彼女はひどくなまめかしかった。
お互いに見つめあい、そのまま唇を重ね合わせる。甘くて温かいものが僕の喉奥に流れ落ちていった。てのひらの痛みが消え、代わりにとても眠くなる。何も考えられない。むしろ、何も考えなくてもいいことに安心した。さくらの瞳に映り込んだ僕の姿が、ぐにゃりとゆがむ。
なぜだろう。さくらに食べられたおばさんが、少しだけ羨ましくなった。
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どこか遠くからウグイスの声が聞こえる。まだぎこちない、下手くそな鳴き方がもどかしい。
耳を澄ませていると、さくらが僕におずおずと近づいてきた。彼女の頭を僕はゆっくりと撫でる。僕の爪先もまた、薄紅に染まっていた。きっとどこもかしこも、さくらとお揃いになっているのだろう。
「大丈夫だよ、そもそも最初から溶けてなくなっちゃうはずのものだったんだから」
僕の手元に残っていた最後の人工物、それは携帯電話だった。もうすぐ携帯会社からもサービスを停止されてしまうガラケー。それを僕はこの期に及んで後生大事に持っていたのだ。
とはいえ、滅多に鳴らない着信音に気がついたさくらが、一瞬で携帯を溶かしてしまったのだけれど。自分以外の人間に関心がいくことが許せないらしい彼女は、僕の関心が他へ向くたびにたくさんのものを溶かしてきた。そんな嫉妬をあらわにするさくらが、僕は可愛くてたまらない。
最後の着信が、一体誰からかかってきたのか、気にならないと言っては嘘になる。それでも電話を取らなかったことで、電話の相手の可能性は無限大に広がった。
僕は手足の力を抜く。僕の目から見える範囲はもうみんな一面薄紅色の海。宇宙から見た地球は、きっと素敵な星に見えることだろう。
「さくら、大好きだよ」
柔らかな液体が僕を包み込んだ。温かくて気持ちの良い空間。羊水に浮かぶ赤ちゃんのように、何の心配もなく漂うことが許される場所。
僕はあくびをひとつする。このままずっと夢を見続けることになるのか。それともすべてが薄紅になった世界で目覚めるのか。
彼女と一緒なら、どちらでもかまわない。だからお願い、ずっとそばにいて。
もう何も聞こえない。この静寂のことを、ひとは幸福と呼ぶのだろう。
おやすみ、さくら。
よい夢を。