さまざまな香り、その中心にて。
手首がキリキリとしみる。後ろ手にされているせいで確認はできないが、皮が剥けているのは確実だろう。
手足を縛られ、さらに正座で、首を押さえつけられているため体勢を保つのに必死だ。膝やらなにやら、もう思いつくところはどこも痛い。
2.30人ほどは優に収容できそうな広い部屋。
地面は高級そうな赤い絨毯が引かれ、豪奢だが趣のある調度品がセンスを伺わせる。
窓や生活雑貨の類はなく、唯一ある両開きの大きなドアから一番遠いところにのみ大きな腰掛けがあった。そこには今、初老の男性が難しい顔で座っている。
柔らかい、暖色系のランプが部屋を包んでいた。
が、わたしを取り囲むのは、剣呑に鈍く光る突槍と睨みつけるような冷たい視線。周りには5名ほど、隙なく私に矛先を突きつけていた。
視線を上げると、部屋の隅に控えていた深紅のローブを纏った男性数人が初老の男性に近づき、小さく会話をしているのが視界に入った。そのうち1人が深く頷き、近づいてくる。
「貴様の処罰がたった今決まった」
処罰。罰を与えられる。
なんでこんなことになっているんだろう。初老の男性に一番近いところに、大きな剣を携えて控えるあの青年を見ながらほんの数時間前を振り返ってみる。
真っ直ぐに前を見つめる彼と、視線は交わらなかった。
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横たわっているのは世界じゃなくて自分だ、と認識してようやく体を起こした。頬や手のひらについた土をぱしぱしと払う。
体を包んでいた布のおかげで服はあまり汚れていないようだ。なんの布だろう、と思い広げてみると大きなマントのようなものだということがわかった。
真っ黒な布地に、背中の部分には白の刺繍糸で何かの紋様が描かれているが、ブランドロゴにせよ何かの象徴にせよ、記憶にない。少し肌寒かったのでもう一度羽織る。
そこでようやくあたりを見渡した。
ここは…森だろうか。わたし自身を中心とした半径100メートルほど円形状に地面がえぐれ、そこから真新しい土が覗いている。
その奥には薙ぎ倒された木々がドミノのように折り重なっているのが見えた。ここからでも大きな木だと言うことが認識できるが、まるでマッチを折るかのように根本からバッキリと折れている。
さながら「爆心地」のお手本のような様相だ。
なんじゃこりゃ、と思わず声を漏らしそうになって、はたと気づく。
「…っ。…」
声が、出ないのだ。ひゅうひゅうと喉が空気を漏らす音だけが辺りに響く。
静かな森ゆえに、それすらもこだましてきそうなほどだった。
唾を飲み込んだり、咳をしてみたりと奮闘してみたがにっちもさっちも行かない。一度気になり始めると、途端に焦る。
どうにもならないのでひとまず諦めることとし、もう一度外に目を向ける。
完全に森だ。全くもって見覚えのない、森だ。これは夢だろうか?頬をつねってみるが、しっかり痛いし目は覚めない。とすれば現実に起きているとして考えた方がいいだろう。
心当たりが多少あるとすれば、入眠(気絶)する原因になった鉢植え。
何が何だかわからないが、ついに芽がでていたし、まばゆいばかりの光を放っていたし。なんか…何かが…あったのだろうか?よし、今のところ有力候補だ。…なに一つ解決していないが。
知らないことを考えていても仕方がない。とにかく、今の状況は言うなれば「迷子」だ。
空を見上げると、太陽が真上より少しずれたところ。少し待ってみて、太陽の傾く方向で時刻と方角が分かるだろう。そうしたら東西南北、どこかに決めてまっすぐ歩いて…。
昔サバイバル動画で見た方法を試してみるしかない。
良くも悪くも図太いのだけが取り柄だ。
よし、と拳を握り、もう一度太陽を見るために空に目を向ける。
まっさらなスカイブルー。幸運なことに雲ひとつない。これならしばらくは問題なさそうだ。
太陽の位置を記憶するために、空をじっくりと見る。
すると、その中で、小さな影が数個ほど動いていることに気がついた。
…飛行機?にしては急角度で旋回しているように見える。しかも、その影がなんだかだんだん大きくなっているような気がする。
「…っ!」
確実に大きくなっている。大きくなって、つまりこちらに向かっている。
慌てて、走った。どこになにが落ちてくるかなんてわからないけど、とにかくぺちゃんこにはなりたくなかったので生存本能に従って走った。
ブワリ、土埃の香りを乗せた強い風が顔を横切った。ばちばちと砂が顔に当たったので、思わず目を瞑り、足を止める。
それも一瞬のことですぐに止み、ふうと息をついた。
がそんな場合でないことを思い出し、慌ててまた走り出すため視線を上げる。ぺちゃんこだけは嫌だ。
目の前に大きな生き物がいた。ゲームや漫画に出てくるような、まさに「ドラゴン」然とした容貌だ。
硬そうな鱗に覆われた黒色の躯体、その体に見合う大きな手足は威嚇する犬のような姿勢で地面を掴んでいて、強靭さを窺える爪が4本の深い溝を作った。
さらにはわたしが両手を広げても一枚には満たなそうなほどの翼。ぶぉん、と音を立てて、次いでまたも顔に舞った砂利が跳ねた。風を当てられたのだ。あまりの勢いによろけた。
そんなドラゴン(仮)が、牙を剥いて今にも射殺さんばかりの眼差しでこちらを見ている。こんなにわかりやすい絶体絶命があるだろうか。ぺちゃんこよりも怖い。
クマなんかに、山で出くわしたときはこんな緊張感が走るのかな。
サバイバル動画で「クマが出た時は決して睨まず、目も離さず、ゆっくりと動くこと」と言っていたがそれってドラゴン(仮)にも当てはまりますか?
いや、違う、今はそんなことよりもやり過ごさなければ──
「──お前か」
ドラゴン(仮)の背中から、人間が降り立った。男性のようだ。青いローブに身を包む、背丈のある若い男性だ。
大きなマフラーに口元が覆われているが、その黒く艶のある髪、切長の涼しげな瞳に見覚えがあった。
認識するよりも早く、青年に向かって駆け出していた。あまりにも突飛な出来事が続きキャパシティを超過していたわたしは、青年が「喋った」ことにも意識を割けなかった。
走って、駆け寄って、いつものように抱きしめて貰おうとして…。
そのまま、地面に伏した。
「……っ?」
声が出ないことを忘れ、喋りかけようとした口に砂利が入ってくる。ぺっと吐き出すと、唾に混じった土が頬に張り付いた。
理解した。髪を掴まれ、頭を地面に押さえつけられているのだ。
体はドラゴンの片手で縫いとめられているようで、全く身動きが取れない。
なんてことはない。きっと青年はわたしだと気づいていないのだ。だからこんなことをするんだ。
「今回限りだ。次に不審な動きをすれば、容赦なく殺す」
冷たい声が首筋に刺さる。言われた言葉に頭が追いつかない。かと言って動くこともできず何度か瞬きをしているとまた風が吹いた。
「蒼騎士殿!ご無事ですか!」
「師団長!お怪我は!」
「…いいと言うまで降りてくるなと言い付けたはずだが」
「…っ申し訳ございません!」
目だけを動かして様子を伺うと、同じくドラゴン(仮)が地面に3匹ほど降り立ち、その背から男性が同数降りてきたようだった。
先ほど見た空の影は、この人たちだったのか。
「いい。問題なく捕獲は済んだ。魔封じの首輪も取り付けたが、大事をとって"鳥籠"に入れて運ぶ」
「はっ!」
青年が言うと、体が圧から解放された。ドラゴンが前足を退けたのだろう。
1匹のドラゴンが前に出てきて、その口に咥えたものを地面に下ろした。大きな、人1人が入れそうなほどの鳥籠だった。鋼鉄でできているようだ。装飾もなにもなく、味気のないデザイン。
青年がわたしの髪を掴み顔を引き上げたので、ようやく目が合う。わたしだと気づいて欲しくて声をかけたいが、口からは何も出ない。ぱくぱくと、水面で喘ぐ鯉のようだ。
しかし、声が出ずとも顔さえ見てもらえれば…!多少の安堵感とともに青年の顔を見つめる。訳の分からないことばかりで疲れた。彼らカードが現れた時と同じ「理解のできないこと」でも、全然違う。今は恐怖や困惑が頭を支配している。いつもの優しい彼に癒されたかった。
「…無様だな」
青年はそのまま特に表情を変えることもなく、わたしに一瞥をくれ、そのまま鳥籠の中に放り投げた。扉と反対側の柵に後頭部を強かにぶつけて瞼の裏に火花が散る。
鳥籠の鍵が閉められ、咥えていたドラゴン(仮)がまた近づいてくる。
扉を持ち、ガシャガシャと揺らす。声は出ない。手をついたところから、力が抜けていくような感覚を覚えた。呼吸もしづらい。それでもこっちを見て欲しくて、籠を揺らしつづける。
青年はもうこちらを見ることもなく、乗ってきたドラゴン(仮)の顔についた土を優しく払うと、ひらりと飛び乗った。
「魔導士長が待機される第一師団司令部に戻る。鳥籠担当を中心として隊列を組み、総員引き上げだ」
力強い男性たちの声が聞こえる。
もう手にも力が入らず、体を起こすのもつらい。
ゴロリと冷たい鉄に身を預ける。
間違いなく、あの青年なのに。突然現れて、名前も分からなくて、でもわたしのことを心から慈しんでくれているような眼差しで見つめて、優しく触れて、毎日を彩ってくれた。
ほんの少しの期間だけど、もう見間違えるわけがないのに。
──だってわたしあなたのこと。
青年が振り返ってくれることはなかった。さっきぶつけたところが、冷えるように痛んだ。
頬についた土はしばらくそのままだった。