非日常、日常の終わり
ぐるりと一変した日々が続いていた。ただ何もなく毎日が過ぎていくと言う事はなく、
ユキは毎日おすわりで仕事の帰りを待っていてくれるし、ジェイがたまに一緒に寝てくれるようになったり、イデアルが首元の鱗が一枚剥がれてしまったのをくれたり、それをわたしから奪い取りゴミ箱に捨てようとする青年を慌てて止めて昔ガチャガチャで当てたまま放置していた小さな巾着にいれたり、ハナモモソラと一緒に鉢植えに水をあげたりしていた。
「なかなか芽、出ないね」
頬杖をつきながら鉢をツンツン突く。3匹の妖精はそれをチラと見て、わたしの真似をするかのようにため息をついたようなふりをした。小さな女の子がちょっと背伸びをしているようで、癒されるばかりだ。
遠くでイデアルがちらちらとこちらを気にしているが、数日前に鉢にいたずらをしようとして叱られたのが効いているのか近づいてはこない。
しばらくそうして1人と3匹で鉢植えを取り囲んでいたが、後ろから足音が近づいてきたのに気づき振り返る。
エプロンをつけた青年がテーブルの上を指差してにっこりと微笑んでいた。
朝ごはんの準備が整ったようだ。微笑み返し、お礼を言うとよしよし、と頭を撫でられた。まだちょっと恥ずかしいが、下を向いてしまえばにやける顔は見えないだろう。
今日は平日の朝で、つまりこれから仕事なわけだが、青年たちのおかげでQOLが向上しまくっているわたしは早起きなんてお手の物。出社までまだ余裕があるので、ゆっくりと食事をとれる。
食卓につくと、オニオンドレッシングの彩りサラダ、つやつやふわふわのプレーンオムレツ、プレスされてよく焼かれたベーコン、たっぷりお野菜の温かいトマトスープ、スムージーやヨーグルトまでついておりバランスの取れた朝食が目に入った。
品数は多いがそれぞれの量が控えめで丁度いい。残してしまっても、青年が食べてくれるので心配ないし。今朝もなんと至れり尽くせりな。
バターを塗った焼き立てのトーストを青年から受け取ったところではたと思い出す。
「そういえば、今日わたし帰りが遅いんです」
自分のトーストにバターを塗っていた青年が手を止める。ユキがこちらを見上げるのが視界の端にうつっていた。
サク、とトーストをかじると香ばしい小麦のかおりが鼻を抜ける。サクフワでいい焼き加減。
しばらくトーストを堪能していたが心配そうな顔でこちらを見る青年に気づき、慌てて首を振る。
「あ、違うんです。残業じゃなくて。会社の、プロジェクトの懇親会があって」
最近異動して来た人の歓迎会も兼ねてて、参加しないわけにはいかなくて。だから、普段よりも少し遅くなると思います。そういうと、青年は納得したように数回頷き、手を伸ばしてぽんぽん、と頭を撫でてくれた。
その時口は動かされなかったが、気をつけて行っておいでと言ってくれてるようで嬉しくなる。誰かが自分の帰りを待っていてくれることは、こんなにも尊い。そんなに乗り気でもなかった飲み会だが、少しだけ楽しんでみようかなとすら思える。
また、にやける口元を隠すためにトーストを齧った。
さっきの一口よりも、なんだか随分と甘く感じた。
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けっこう、飲んでしまった。
わたしの所属するプロジェクトは最近人員の調整がされ、新たに数人を招き入れる程度には忙しい。
みなさぞストレスを溜め込んでいたのだろう、途中大学生のようなノリまで見受けられた。
さすがにそれにはついていけなかったが、場の空気に流されてわたしも結構なピッチでジョッキを空けてしまったように思う。端っこの静かめなポジションにいたわたしですらそうなので、中心にいたメンバーなどはもう完全に出来上がっていた。肩を組んでさめざめと涙を流す人までいる。
二次会は近くのカラオケだそうだが、そこについて行く余力はなく戦線離脱を申し出た。たくさんの人の前で歌う度胸もないし。
一応、踵の低い靴を履いてきてよかった。この調子じゃスタスタ歩く、というのは無理そうだ。
店を出る前に一旦休憩、と座敷の縁に座っていると上から影が差した。
「笹木さん、大丈夫ですか?」
見上げると、照明の逆光で一瞬分かりづらかったが今回異動してきたうちの1人だった。1つ年下の男性で、以前は違うチームのシステムエンジニアを担当していた。今期からはうちを担当してもらうことになったのだが、名前は、なんて言ったっけな…。正直人を覚えるのはちょっと苦手だ。
「笹木さん確か電車で何度かお見かけしたことあって。たぶん最寄りが僕と近いと思うので、もしよければ近くまでお送りしますよ」
特に断る理由もないので、お礼を言って立ち上がる。
休憩していたらさらに酔いが回ってきてしまった。
幹事に帰る旨を告げて、2人で店を出た。
足取りはおぼつかないものの、普通に世間話をしながら帰れる程度には余裕があり、
彼の名前は思い出せないものの多少話が盛り上がったせいで最寄りどころか結局部屋の玄関前まで送ってもらってしまった。
「こんなところまで、すみません。今日はありがとうございました」
「いえ、とんでもないです。心配でしたから」
「ではまた会社で」
「はい。あ、そうだ、連絡先とかって――」
定型分のような挨拶を交わしていると、急に玄関のドアがガチャリ、と開いた。次いで中から、黒いクルーネックのシャツを着てサンダルを突っ掛けた青年が顔を覗かせる。
心なしか表情が硬い。いつもはとろけるような笑みと共に迎えてくれるが、その口は引き結ばれたままだ。
「えっ!……っと…彼氏さんですか?」
「え、あ、えっと、ち――」
スマホをポケットから取り出しているポーズのまま固まるナントカさん。
彼氏かと聞かれるとそうではないので否定しようとすると、青年がペコリ、と綺麗に15度のお辞儀をしてからわたしの腰を抱いて引き寄せた。自然な動作で肩からカバンを抜き取ると、そのままわたしごと抱え上げられる。
子供を抱える時のような、右腕に腰掛けるような形だ。
ジ…と同僚を見つめる青年。
「…じゃ、じゃあ僕はこれで…」
「あ、ありがとうございました…」
抱えられたままで失礼かと思うが離してくれなさそうなので、そのままお礼を言う。同僚は何度か会釈をすると、来た時よりも少し早足で駅の方へ向かっていった。曲がり角で見えなくなるまで見送ると、視線を青年に向ける。
先ほどとは違い、少し赤い目尻を垂れさせわたしを見つめていた。その瞳は優しさの色に染まっているが、口は少しだけへの字に曲がっていた。抱えられているせいでわたしの方が目線が高いこともあり、青年が上目遣いになっている。初めて見る表情で、ちょっと何だか可愛い。
「…ただいま?」
とりあえず目線を合わせるために首を傾げて帰宅の挨拶をすると、一瞬にへら、と表情が緩んだ。しかしまたすぐにへの字に戻ってしまう。
青年の足元までお出迎えに来てくれたユキにも声をかけつつ、部屋の中に戻り(靴は青年に脱がせてもらった)(内鍵は、青年が少し屈んでくれたのでわたしが抱えられたまま閉めた)、手を洗うと食卓の椅子に座らせてくれた。妖精たちがふわふわと周りを舞っている。
渡されたお水をちびちびと飲んでいると、だいぶ酔いもさめてきた。適度に冷たくて喉が癒される。
飲み終わる頃には青年の機嫌も直ってきたのか、いつものニコニコ笑顔に戻っていた。
一杯だけおかわりをもらったところで、お風呂が沸いた時のメロディが聞こえてくる。
「わ、ぴったりに沸かしてくれたの?ありがとう」
疲れたしすぐにお湯いただこっかな、と立ち上がる。青年が駆け寄ってきて肩を支えられたが、もうよっぽど大丈夫そうだったので断る。
それでも心配なのか、着替えやタオルを取りに行くのにも、先に行っておこうと思い立ったお手洗いにも雛鳥のようについてくる青年。
衣装ケースの一番下の段から下着類を取り出して立ち上がる時に少しだけふらついてしまったが、すぐ持ち直して振り返ると今にも抱きかかえんとしていた。
すでにわたしを囲うように腕がある。過保護がすぎる。
手ぬぐいで目隠しをして脱衣所まで入ってこようとするので驚いた。さすがに止めた。
「ふぅ…いいお湯でした、ありがとう」
お風呂を上がり、ついでに歯磨きも済ませて頭にタオルを乗せたままわしわしと拭きながらリビングに戻ると暖かいお茶がテーブルに出ている。
いただいていいの?と一応聞くとはなまるの笑顔。
準備万端で待っていた青年に髪を乾かしてもらいながらお茶を飲んでいると、さすがに疲れがどっと出てきた。
うつら、うつらとしてしまう。
ジェイが珍しく膝の上に乗ってきたので、サラサラの額に指を滑らせる。先手を取られて諦めたユキが足下に寝転がった。
「あなたたちは…」
自然と口から小さな声が漏れる。眠気というパイプが、脳と口を繋いでしまっているようだった。
あなたたちは、いったい何なんだろうね。
乾かし終わった青年が、ドライヤーを止めた。わたしの話に真剣に耳を傾けるためのようにも思えた。
「カードも、あなたたちのことも、何も分からないし…。こんな不思議なこと、本当なら警察とか、病院とか、…然るべき機関がどこなのかはわからないけど相談するのが普通なのかなって思うの」
よく分からないなりにも、知らない男性が家にいるわけだし。害がなさそうとはいえ何が起きるかなんて分からない。
「でも、何だかあなたたちは、そばにいるのが当たり前な気がして…違和感がなくって」
目を開けているのも難しい。だんだんと瞬きがゆっくりになるのを見てか、青年がわたしを抱え上げた。振り落とされることになったジェイだが、特に何もいうことなく、しゅたっと床に着地した。
「変なことだらけなのに、…それを受け入れている自分にすら納得しているようで」
遠くでポン、ポン、と音が聞こえる。ジェイやユキがカードに戻ったのだろう。妖精たちは戻らずに、そのまま寝室までついてきた。
ひらひらときらめく羽を見つめながら、半分眠ってしまったような頭で、必死に言葉を紡ぐ。
青年の顔は見えないが、ベッドに一緒に入り頬を撫でてくれる指が優しい。今はそれだけでいいような気がした。
名前しか…あなたに至っては名前も知らないけれど、それでも、鉛筆だけで描いたモノクロのスケッチのような毎日に、少しずつ色が足されていくようで。
上手く言えたかは分からない。伝わったか確かめるために目を開けてみると、青年の静かな眼差しと混じり合った。
静かで、燻るような熱を持った眼差しだった。
言葉を発する前のように、青年の胸が少し膨らんで。
――部屋に光が差した。
「…え!?」
電気を付けたわけではない。それよりも少し淡い光が、ベッドのすぐ近くの出窓から差している。
鉢植えが光っていた。
正確には、鉢植えから出た芽が発光している。
妖精たちが鉢植えの周りを嬉しそうにビュンビュン飛び回るせいで、その羽根に光が反射して眩しい。
どんどん光が強くなっていき、さっきとは違う理由でもう目を開けていられない。
青年に助けを求めようと伸ばした手が空を切ったのを最後に、意識が途切れた。
似たようなこと前もあったなぁ。
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――じゃり。
頬を擦る痛みで目が覚める。
ぱちぱちと何度か瞬きをして、ようやく眠りから覚めたことを認識した。
目の前には世界が横たわっていて、ぼーっと思考する。感覚を確かめるように握った手には、土がついていた。
そうだ、鉢植えに芽が出て、というか光が出て…。そのまま、寝て?いや、気絶を、してしまって…。
「…ここどこ?」
目が覚めたら、荒れた森の中で黒い布に包まっていた。なーんて。
どういうこと。