1日の終わり
よろしくお願いします。
混んだ車内。揺れて、ぶつかる肩と肩。ため息が聞こえるが、全員同じ気持ちだと言ってやりたい。
ただでさえ終電間際だというのに、帰り支度をしている私の目の前に書類の束をドン、と置きこちらを見ることもなく「明日の昼前までに」と言い放った上司。
文句の一つでも言ってやりたかったがそそくさといなくなってしまったので、しょうがなくざっと目を通して、持ち出し禁止の書類がないことを確認してからカバンに詰め込んだ。
疲れたなぁ。
私は笹木奈々。小さなデザイン会社に、専門学校の新卒でデザイナーとして入社して5年、そこそこ仕事にも慣れてきて、新人の教育を任されるようになった「中堅社員」だ。
同業他社に関しては他に就職した当時の同級生から聞くのみだが、それと比べると待遇は悪くない方だと思う。
でも、自分が作業者としてペイントソフトや編集ツールと向き合っている時間が少なくなり、その代わりにマネージメントやタスク・スケジュール管理に充てる時間が長くなっていることや、嫌な上司と関わることなど、ストレスは無いわけではない。地味ではあるが、私の中に蓄積されていった。
絵を描くことが好きでこの仕事を選んだはずだったのになぁ。
帰りの電車は1日の疲れからか、いつもそんなネガティブなことをつらつらと考えてしまう。
そう言えばあれも、これも、と連鎖が始まりそうになったところで最寄りへの到着を知らせるアナウンスが聞こえ、ハッと意識を切り替える。くたびれたサラリーマン達をかき分けて電車を降り、早足で改札を出た。鞄の中でお弁当箱がカラカラと気持ちの良い音を鳴らしている。
もうこの頃にはさっきまでのモヤモヤはなく、「早く帰りたい」、それだけがわたしの思考を埋め尽くしていた。
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最寄り駅から徒歩10分。築25年。オートロックもない、小さな3階建てのアパートが私の城だ。
階段を上り、自分の部屋の前に立った。階段を上り切ったあたりから、ふわりと、お腹のすくいい匂いがしている。
顔が緩むのを止められない。たったったっ、と奥から廊下をかけてくる音がしたので、慌ててドアを開けた。
「ただいま!」
開いたドアの奥には、25歳〜27歳程の男が立っていた。
さらりとした黒髪は前髪が少し長めに切りそろえられ、その下から少し驚いたような、それでも精悍な顔つきを覗かせている。
つるんと綺麗な白い肌に、透き通るような空色の瞳がそれはそれは映えていた。寒色のそれは、切れ長の形も相まってどこか冷たい印象を持たせる。
とんでもないイケメンだ。
その黒髪のイケメンが、今にも内側からドアを開けようとしていたようなポーズのまま固まっていた。
「ごめんごめん。ちょっと考え事してて」
そう言って笑いかけると、クールな顔つきからは想像もできないような柔らかな笑みで、私を迎え入れた。
す、と右手を差し出されたのでカバンを渡し、その間にもヒールを脱ぐ。
廊下を歩きながらマフラーを外せば、それもまた自然な所作でさらわれていった。マフラーを綺麗にたたみながら静かに私の後ろをついてくる。
「いい匂い。今日はカレー?」
そう言えば、昨日TVでやっていた究極のカレー特集を見ていて、カレーが食べたいなぁ、なんてこぼしていたんだっけ。まさかこんなに早く実現するとは、嬉しい誤算だ。
うちは小さなアパートなので、リビングとキッチンが繋がっている。それに加えて寝室として使っている一部屋、何故か無駄に大きめのクローゼット、風呂とトイレ。間取りはこんな感じだ。
廊下からリビングに入ると、先ほどよりも強くカレーのいい匂いが胸いっぱいに入ってくる。
わぁ、と嬉しい気持ちになって後ろを振り返ると、黒髪イケメンが「喜んでくれているなぁ」とでも言わんばかりのニコニコ顔で私を見つめていた。あまりにいい笑顔なものだから、私もさらに笑みが深まる。
黒髪イケメンは一際優しい笑顔を向けると、カバンとマフラーを定位置に置き、空いた手で徐に私を撫で始めた。頭から始まり頬、顎、首。両手で撫でくりまわされる。
そのうち大きな手に頬を包まれ、顔中にチュッチュッとキスをされた。可愛い、可愛いと言うように時折ムギュ〜ッ!と抱きしめられ、全力で構い倒される。
「わー、わぷ、ん、どうしたの」
口にも遠慮なくキスをされるので、合間を縫って問いかけると、黒髪イケメンが口を開いた。
とろけたような優しい表情で私に必死に何かを語りかけている。…ようだが、まったくもって何も聞こえない。
──そう、"聞こえない"のだ。
口は動かしているものの、息の漏れる音、歯の合わさる音、喉のなる音と、口腔内から出される音という音が全て遮断されたように、何も私に届かない。そして、彼の声が何故聞こえないのかも、わからない。
不思議を通り越して奇妙だ。
そんな中、何故私は落ち着いていられるのか。それは簡単なことで、「声が聞こえない」、それだけならまだマシな方だからだ。
何故声が聞こえないのかだけでなく、──私は、彼が誰なのか、そう、名前すら知らないのだから。
「あ、ごめんね」
まじまじと顔を見つめながら固まっていた私に、イケメンがだんだんと慌て始めてしまった。「嫌だった?ごめん、ごめんね」とでもいうように片手を優しく頬に添え、もう片手であやすようにポンポンと頭を撫でてくる。安心させるように笑いかけると、ホッとしたように表情を緩ませ、もう一度だけ、チュッとキスを降らせた。
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スパイシーで最高に美味しいチキンカレーを咀嚼しながら、思考を巡らせる。
あの後黒髪イケメンは、「ほらほら座って」というように私をテーブルの前に座らせ、テキパキと配膳を始めた。わたしは上げ膳据え膳、されるがままに、目の前に置かれたサラダとカレーにありついている。
私の思考の大半を占めている当の本人は真横に座り、今にもとろけ落ちそうなほど目を緩ませ、私がカレーを食べる姿を観察していた。
お水を飲めば足され、頬にカレーがつけば指で拭い取られ、サラダのミニトマトを逃して机の上に落としてあっあっと慌てればさらに目尻を下げて、「しょうがないなぁ…」みたいな表情をされた。…ちょっと手が滑っただけだもん。
この、ナチュラルに私の食事介助をしている男性は誰なのか。
実は恐ろしい話、私にも分かっていない。
もちろん今日帰る前から彼が自宅にいるのは知っていたし、なんならそれを楽しみに帰ってきたが、この人がどこの誰で、どういう人物なのかは砂粒ほども把握していないのだ。
もう少し詳しく説明しよう。初めて彼らが私の前に現れたのは、今から1ヶ月と少し前。
その日は、就職と同時に一人暮らしを始めたものの、ものぐさな性格が災いして引っ越し後もそのままにしていた段ボール箱の最後の一つを遂に片付けた、記念すべき日だった。
その段ボール箱は母が荷造りをしてくれたもので、お節介な母らしく「これもいるかも、あれもいるかも」と無駄に増やしてくれた一箱だった。
楽しそうに色々と詰めていくのを横目で見ていたが、もちろん生活必需品なんかは一つも入っておらず「いつ使うの?」というようなものばかりが吸い込まれていくので、引っ越し完了後、存在すらも頭の隅に追いやられて今の今まで放置してしまっていた。
おそらく今後も開かれることはないかと思われたパンドラの箱だったが、その日ついに転機が来たのである。
「玄関に置いておくと"良い"から」とかいう謎の理由で放り込まれていた木彫りの熊の置物。ちょうど、木彫りの熊のイラスト素材を作る仕事を持ち帰ってきていた私は、クローゼットの奥の奥にしまっていた段ボールごと、そのことを思い出したのだ。
木彫りのクマもそうだが、よく分からない仕事が重なっていた時期で、かつ業務量的にも忙しく心身共に疲れ果てていた私は、その程度なら画像検索で済ませばいいものを「資料は宝」と息巻いていた。
終電帰りの深夜テンションそのまま、いらないものの山から宝を掘り当てるべく、引き摺り出した箱の中を整頓していく。本当にいらなさそうなものは母には申し訳ないが後で捨ててしまおう、とゴミ袋に直接移動させた。
とはいえ、その時の私には使えそうなものも入っていたのでちょっと楽しくなりながら掘り進めていくと、半分を過ぎたあたりでようやく目当てのものを見つけた。
「…ん?」
熊を救出し、長らくの冬眠をさせていたので欠損がないか確認をしていた時、キラリと小さな光が目に飛び込んできた。
熊がいたところのさらに少し奥に、長方形の箱のようなものがある。
深い紺色をした、私の掌よりひと回り大きいぐらいの平たい入れ物だ。ツルツルとした表面に金の箔押しで大きな樹のような模様が作られており、ゴールドやシルバーのビーズだろうか、キラキラとしたものが埋め込まれている。
先程光って見えたのはこれらしかった。
こんな素敵なケース、実家にあっただろうか?片手に取って眺めてみるも、思い当たるようなものはない。
もう片方の手に持っていたクマを床に置き、ケースを両手に持ち直した。よく見れば見るほど素晴らしい意匠が凝らしてある。
力強い大樹、葉の間に埋め込まれた石達がキラキラと光って、木漏れ日のような印象を受けた。
中は何が入っているのだろうか。箱に見惚れていてすっかりと忘れていたが、質量からして中身があるようだった。
す、と蓋を持ち上げる。
「わぁ…」
そっと開けると、箱よりさらに深い紺のビロードに包まれたクッションが敷いてあり、その上にカードのようなものが入っていた。
さすが見事な箱に入れられてるだけあり、カードも非の打ち所がない。弱小デザイナーだが、ある程度の目利きはあると自負している。
プラスチックともガラスともとれない不思議な素材で作られたオフホワイトのカードを、一枚手に取る。残されたカードを軽くみた感じ、あと数枚はあるようだ。
角が丸く切り取られた長方形で横幅がトランプほど、縦幅は大凡それの1.5倍といったところか。傾けるたびにつるりと輝く金のラインで、見事なデザインが綾なされている。
アンティークの洋書の装丁にあしらわれるような緻密な模様が外側をぐるりと一周し、中心には…西洋の騎士?
甲冑を着て大きな剣を胸の前で握り、真っ直ぐに前を見つめる前髪の長い青年の横顔が描かれている。青年のすぐ下に文字のようなものも彫られているが、これは名前だろうか。読めないが、真ん中に小さく空白を開けて2単語書いてあるようだ。
ただの絵と読めない文字。それなのに、なんだか少し心が惹かれる気がして、それに、これは、この文字は───
「…レオン?」
瞬間、眩い光がわたしを包んだ。
3/9 ネームレス小説の読み過ぎで名前入れるの忘れてたので入れました。




