悪魔のちからと最初の餌食
「まさか本当にヤルとは思わなかったな。惨めったらしくて胸がスーッとしたわ」
「約束だ……教えてくれ」
舌がすり切れ血の臭いが鼻に抜ける。
「いいぜ教えてやるよ。なんでも王女様はショックで伏せっちまったんだとよ。テメェみたいな変態野郎に襲われたんだからな。ああ、お労しや」
エレナとの友情が残っていれば、こんなところに閉じ込められているはずがない。
聡明な彼女はきっと俺の無実を訴えてくれるはずだ。
だが、俺は明日、処刑される。エレナとの三年間の絆はとうに失われてしまったのだろうか。
再び俺の身体から力が抜けていった。
俺はなんのために産まれたのだろう。両親に捨てられ孤児院で育てられて恩返しもできていない。これじゃあまるでジェームスがエレナに取り入るための道具だ。笑えてくる。
真相は消えた記憶の向こう側だった。もう、どうすることもできない。
壁際にもたれかかるようにして座る。見上げた小さな窓から、弱々しい月の光が降り注いでいた。
ぼんやりと眺める。不思議と思い浮かぶのはピンクブロンドのエレナ王女ではなく、チリチリ赤毛の級友の顔だ。
看守はつまらなさそうに舌打ちした。
「チッ……目が死んじまったな。どうせ死ぬならもう少しオレを楽しませてくれよ」
言いながら看守は机の上にある布袋の中身を天板にぶちまけた。
「さぁてと……なにか金目のもんはっと……制服に本に……財布も軽いなぁオイ。飲み代にもなりゃしねぇ」
この不良看守にとって死刑囚の私物は好きにして良いものらしい。
「なんだよ、いい学校に入ってるくせにシケてんなぁ……っと、おいおいおいおい! こいつはスゲェお宝じゃあねぇか!」
男の声が大きくなった。
のっしのっしと鉄格子の前までやってくると、小窓から射し込む月明かりに看守は小さな指輪をかざす。
「こりゃあガラス玉じゃねぇな。光の入る角度でキラッキラしやがる。どうしてテメェみたいなのが、こんな指輪を持ってんだよ?」
エレナが俺に友情の証として持たせてくれた、国宝級の魔法の指輪だ。
とっくに彼女の元に戻っていると思ったんだが……もう、どうだっていい。
看守がニンマリ嗤った。
「こいつは情報提供料としてもらっておくぜ。あとのもんは全部焼却処分でいいな」
付与術師の感覚が男の高揚感を俺に共有させた。
売り払った金で仕事をやめて、酒と女に溺れる日々を看守は夢想しているらしい。
俺は淡々とした口振りで訊く。
「看守が囚人の持ち物に手を出していいのか?」
「ここじゃそういうルールなんだよ。バルナス監獄長様も黙認していらっしゃる。だいたい明日にゃ死んじまうテメェが持っててもしょうがねぇだろ」
「ああ、そうだな。もう……どうでもいい……欲しけりゃくれてやるよ」
俺の全部を。何もかも。好きにすればいいさ。
ドクン――
と、心臓が大きく胸を叩いた。
意識が白んでいく。目を閉じてもいないのに目の前の光景がかすむ。手足の感覚がなくなり、石畳のゴツゴツとした感触や冷たさも消えていた。
音も遠のき口の中に充満する血の匂いさえ嘘のようだ。
まるで肉体を捨てて魂だけの存在になったのだろうか。
不意に身体の“重さ”を感じた。まるで全身に鉛を巻きつけているみたいだ。
目の前には相変わらず鉄格子があった。だが、違っている。全てが。
俺は牢屋の外側に立っていたのである。
「俺が……いる」
目の前にはくすんだ茶髪に頬のこけた青白い顔の少年が、がっくりとうなだれて石畳を背に座っていた。
「というか、いったいなにが起こってるんだ?」
視線を落とせば、丸々と脂肪に包まれた腹で足下が見えない。
すりこぎ棒のように太い指、その爪の先で指輪をつまんでいる。
腰のベルトには鍵束があった。
俺はあのクソみたいな看守に、すべてをやると思ったのだ。
それが現実となった。
「くれてやるとは言ったが、まさか俺のすべてって文字通り身も心も魂も……ってことなのか?」
では、牢に繋がれている俺は誰なのだろう。入れ替わったというのなら、あちらが看守になっている可能性は高い。
「お、おい! 俺……じゃない、そこのお前。返事をしろ」
声を掛けると俺の肉体はゆっくり顔を上げた。
茶色く濁った虚ろな瞳が、ぼんやり虚空を見上げている。焦点が合っていない印象だ。
開きっぱなしの口からは、ヨダレがぼたりと落ちる。
「看守なのか? 違うなら違うと言え」
牢屋の中の俺は幽鬼のようにゆらりと立ち上がった。鉄格子に詰め寄ると、両手で格子を掴んでぐわんぐわんと揺らしだす。
「あば、あばばば、あばばばばばばあ! あぎゃぎゃぎゃぎゃきゃぐわぎゃああああ!」
まるで悪魔憑きだ。こちらの声には反応するが、人の言葉は返ってこない。うめき声と鳴き声の中間の、不気味な叫びを上げるばかりだった。
「お、落ち着け。大丈夫だ。冷静になれ」
おかしくなった自分の肉体に……というよりは半ば自分に言い聞かせるように告げる。
「あば、あばばあはぁん」
言葉が通じたのか、鉄格子から手を離し、悪魔に取り憑かれたような俺の肉体は大人しくなった。
その場に膝を抱えて座ると、ぼんやりこちらの顔を見上げてから首を傾げる。
「あばばあばあぁ?」
全然わからん。俺の肉体は顔こそこちらを見ているが、目線は相変わらず宙を泳いでいた。
「なあ、看守のおっさん。ふざけてるならこの身体ごと、身投げでもしてやろうか?」
「ばあばばばばば」
「俺は本気だぜ? どうせ明日死ぬんだ。道連れにしてやるよ」
「きゃーふぉーにゃーきゃーふぉーにゃー」
なにを言ってるんだこいつは。
まるで動じないところをみると、本当に悪魔憑きにでもなってしまったみたいだ。
看守の意識はどこに行ったのだろう。
ただ――
この手にはエレナの指輪があり、腰には目の前の牢屋を開ける鍵の束があった。
そして今の俺の姿は、この塔の上にある独房の監視を任されている唯一の看守なのだ。