明日への始まり
振り返ると、ドレスの裾を破って短くしたリンゴが肩で息をしていた。ヒールは脱ぎ捨て裸足だった。
「どちら様ですか?」
「リンゴはリンゴです。ご主人様! リンゴのことを忘れないでほしいです!」
少女の瞳がじっと俺を見上げる。
俺は欄干に腰掛けた。
「誰かと勘違いをしているんじゃありませんか?」
「ご主人様はご主人様です。だけど……えっと……名前がわからないけど……わかるんです!」
さっき、ついに俺をオメガさんと呼んでくれた彼女が哀しそうに尻尾を降ろす。
「わかるって言われても困るな。いや、お嬢さんは優しい方だ。私が身を投げるとでも思って心配してくださったのですね。大丈夫です。そんな真似はしませんから。元のご主人様が心配するでしょうし、さあ、お帰りなさい」
少女はブンブンと首を左右に振った。
「そこから降りてくださるまでリンゴは一歩も動きません。リンゴにはほかに帰る場所はないですから!」
「そんなにそっくりなんですか?」
「ぜんぜん違います。黒くて綺麗な目をしてて、髪も黒で艶々だけど、今のご主人様も素敵ですから」
「別人じゃないですか」
「ふ、服が一緒です」
「それは偶然ですね」
獣人族の少女は耳をピンッと立てた。
「それにご主人様と同じ匂いがするですから。リンゴの鼻はとっても利くんです。この匂いはいつもリンゴを優しく撫でてくれるご主人様の匂いです!」
匂いを追ってここまできたのか。
リンゴならやりかねない。しかし盲点だったな。
「そうか……バレちまったか」
ここまで鼻が利くとは思わなかった。俺は欄干から橋の歩道に降りる。
と、同時に少女が俺に抱きついてきた。
たわわな胸をぎゅっとおしつけて俺にぴたりとくっつくと涙を瞳に溜め込む。
「どうしてリンゴを置いて行っちゃおうとしたんですか?」
「俺は悪い人間で、たくさん悪い事をしたんだ。リンゴも俺に利用されてたんだよ。もし俺の仲間だってことになったら、リンゴが危ない目に遭うかもしれない。それに俺は……国家反逆者なんだ」
「リンゴはご主人様と同じ冒険者です! 危ない事もへっちゃらです!」
「優しいな。そんなお前だから自由でいて欲しいんだ。俺なんかのそばにいないでくれ……」
「ご主人様がいないとリンゴはどこに行けばいいかわからないです。自由なんていらないです!」
俺はいつの間にか少女の頭を撫でていた。
「もうリンゴは独りでもやっていけるよ。俺はもう、冒険を続ける意味もわからないんだ。欲しいものは手に入れた。やりたいこともやった。満足したんだ」
心残りはエレナと残した赤子の事だ。
俺が手を伸ばせばその子の立場を危うくして未来を閉ざしかねない。
守るにはあくまで「エレナ王女とジェームスの子」でなければならなかった。
あとは自分が消えるだけ。それが俺の願いだ。
「リンゴはぜんぜん足りません! もっともっとご主人様と一緒がいいです!」
「俺の隣にいれば世界が敵になるかもしれないんだぞ!」
「リンゴだけは絶対にご主人様の味方です!」
ポロポロと少女の頬を雫が伝って落ちる。
俺は言葉を失った。ここまでリンゴは俺を思ってくれていたのか。きっと、彼女は何も変わっていない。俺をご主人様と呼ぶようになってから、信頼だけを重ね続けてくれた。
ずっと復讐に囚われていて気づいていなかった。リンゴに向かい合おうとしなかった。
今夜も俺は……逃げようとした。
「ごめん……いや、ありがとうリンゴ」
「あの……だから……リンゴのわがままを一つだけきいてください」
彼女がこんな言葉を口にするのは初めてだ。
「なんだい?」
俺に叶えてやれることだろうか。
リンゴは呼吸を整えると、俺の顔をもう一度見上げてまっすぐな眼差しで告げた。
「リンゴと一緒に……生きてほしいです」
「そいつはまた……大変なお願いだな」
人生と一緒に投げ捨ててしまうつもりでいた指輪を、俺はもう一度小指にはめ直した。
――翌朝。
夜明けとともにラポート港に停泊中の帆船が帆を張った。
一番早い新大陸行きの便である。
冒険者の装束に袖を通し、俺とリンゴは乗船を待つ。
こんな時間だというのに、わざわざギルドからヒルダが見送りに来てくれた。
「お二人と別れるのは辛いですけど、新大陸でも一番賑やかなニューラポートでの成功をお祈りしていますね! あちらの冒険者ギルド長にこの手紙を渡してください。きっと力になってくれますから!」
眼鏡のレンズを朝陽でキランと光らせてヒルダは胸を張った。
手紙を受け取り笑顔で返す。
「ありがとうヒルダギルド長。本当に最後まで世話になりっぱなしだよ」
リンゴもちょこんとお辞儀をした。ヒルダには爵位の放棄についての処理を押しつけてしまっている。が、彼女は快く応じてくれた。
冒険者を応援するのが仕事と言わんばかりに。
出航の準備が整い、船員が俺とリンゴを呼ぶ。
「じゃあ行くよ」
「はい。お二人ともお幸せに! 道中に幸アレ! 良い船旅を!」
「い、行ってきますです!」
リンゴは再び帰ってくると約束するような口振りだ。
いつになるかはわからないが、いつかまたラポートに戻ることがあれば、冒険の土産話をたくさんできるかもしれない。
大海を挟んだ向こう側――新大陸にある町は王国の一部には違いないが、自治領のような様相だ。
俺が消えてもジェームスには足取りを追うことは恐らくできないだろう。
帆船に乗り込み潮風を頬に受ける。
船はゆったりと離岸した。リンゴが港で手を振るヒルダに両手を挙げてて振り返す。
だんだんと港が小さくなり湾を出る頃にはヒルダの姿も目視できなくなった。
「アルフレッドご主人様と呼べばいいですか? オメガご主人様と呼べばいいですか?」
「オメガでいいよ。さんもいらない」
「は、はいですオメガさん!」
言ってからリンゴはハッとした顔になって、両手で口を覆った。
俺は笑顔で返す。
「好きに呼んでくれ。リンゴの呼びやすいのでいいから」
「はいですオメガさん!」
どうやらしばらくは、この呼び名になりそうだな。
ウミネコの声に見送られて船は沖に出る。
「リンゴは新大陸についたら何がしたい?」
彼女の故郷は魔物に蹂躙されたままだろう。そこに戻りたいというならそれも構わない。
「えっと、えーっと……オメガさんと一緒に美味しいモノを食べて、まだ見たこともないものを見に行って、いっぱい笑って……えっとえっと! もっと強くなりたいです!」
「わかった。俺も付与術でばっちり補助するよ」
「そ、そ、それからえっとオメガさんとちゅ……ちゅ……」
少女がうつむくと同時に、海風が強く吹き抜けた。
「リンゴのしたいことはなんでも付き合うよ」
「やったです! リンゴはとってもとっても嬉しいです! えっと、ご主人様は何がしたいですか?」
「そうだな。さすがになんでもリンゴの言う通りじゃよくないか。なら……」
俺は空を見上げた。段々と高くなり始めた朝陽に誓うように呟く。
「七紫冒険者でも目指してみるか。俺とリンゴで」
少女は俺に飛びつくようにギュッと抱きつき、その勢いで俺は姿勢を崩すと甲板にひっくり返るように倒れた。
俺はまた逃げ出したのかもしれない。
だが、今度は独りじゃなかった。
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十数年後、新大陸帰りの赤毛の半獣人の冒険者少女と、茶色い髪に金色の瞳をもった聡明な王子が出会い、禁断の恋をするのだが……それはまた別の物語。
完走した感想ですが、復讐ものを書くのは苦手だとおもいました。(小並み)




