もう一度、あの月の夜に
ジェームスの手引きで王宮へは何度か出仕している。その度に部屋の場所を下調べ済みだ。
途中、どうしても忍び込むのが難しい場面では、衛兵たちには悪いが憑依能力を活用して持ち場を離れてもらった。
すべて短時間で済ませる。でなければ俺の肉体の制御を得た悪魔が何をしでかすか解らない。
回廊を抜け物陰から月明かりの落とした長い影を渡り、人の目を盗んで城の三階に出る。
ここからはまだ、足を踏み入れたことのない領域だ。あまり憑依の力を使いすぎると、今夜の城の警備担当責任者の首が文字通り飛ぶことになる。
三階に衛兵の気配はない。
王族の暮らしを騒がせないためだろうか。
王宮のメイドの一人に王女エレナの部屋の場所も下調べの段階で確認済みだ。
廊下の一番奥にある部屋の扉の前に立つ。
扉にそっと触れて呼吸を整えた。この先にエレナがいるかもしれない。
軽くノックする。
「どうぞ……」
どことなく愁いを帯びたような少女の声が返ってきた。
ドアノブに手を掛け開くと、風がふわりと俺の前髪や頬を撫でて吹き抜けた。
王女の寝室らしい天蓋付きのベッドがあり、高級感の漂う調度品が揃った部屋の奥にバルコニーに続く大窓が開いたままになっていた。
月明かりの元に少女が立っている。純白のドレスに身を包んだ背中に俺は息を呑んだ。
美しいピンクブロンドが夜風に揺れる。
彼女は振り向かずに俺に告げた。
「今夜は誰にも来ないよう城の者たちに命じています」
「…………」
俺は黙り込んだ。彼女はまるで俺が来ることを知っていたかのようだ。
三階で衛兵はおろかメイドの姿すら無かったことも考えると、人払いをしたのは王女なのかもしれない。
俺はその場で膝を着き跪いて頭を垂れる。
「お初にお目にかかります。エレナ王女様。六藍冒険者にして子爵の位を賜ったオメガと申します。広い王宮にて迷子になってしまいまして……まさか王女様のお部屋とは存じ上げず失礼いたしました」
「顔を上げてください」
どこまでも哀しげな声に言われるまま俺が前を向くと、白いドレスの少女はゆっくりと振り返った。
大きく胸元の空いたドレス姿だが、大きな胸からなだらかに続く身体のラインは腹部でもう一度膨らむような曲線を描いていた。
彼女は……エレナは妊娠していた。
声が出ない。手足の感覚が無くなったように身動きがとれなくなった。
「ご懐妊なされているのですか?」
俺も詳しくはわからないが、腹の大きさからして一ヶ月二ヶ月の間のものとは思えない。
少女の金色の瞳がじわりと潤んで俺を見据える。
「ええ……」
短い返事に俺は再び頭を下げた。エレナの顔を直視できなかった。
「それはそれはおめでとうございます」
ジェームスはもうそこまでしていたのだ。
俺が死刑を宣告された日から、エレナ王女が公の場に姿を現さなくなった理由はこういうことだったんだ。
ジェームスが無理を圧して魔人族討伐による功績を挙げようとしたのも、このためだったのだ。
俺は絨毯張りの床を見つめた。水滴が落ちて吸い込まれていく。
跪いた姿勢のまま少女に告げた。
「今夜はジェームス様とエレナ王女様から発表があると伺っておりました。この慶事をみな祝福することでしょう。私も心よりお祝い申し上げます」
ジェームスを殺してもやつの子が王となる。
エレナを取り戻せるとでも思っていたのか俺は。
そもそもエレナは俺の……なんだったというんだ。
友人だったはずだ。元から俺のものでもなんでもないんだ。
なのに……。
このまま俺は消えてしまうべきだろうか。ジェームスのためではなくエレナのために。
今日、こうしてエレナと再会するために生きてきたのに、全てが無駄になった。
ふと、付与術士の感覚がエレナの心を感じ取る。
それは動揺や困惑ではなく、不思議な温かい感情だった。
この数ヶ月、俺は同じような感覚を受け取り続けている。
リンゴから……愛とおぼしき感情を。
同じものをエレナは俺に向けていた。ハッして立ち上がり、部屋から去ろうとすると――
「待って……お願いだから……怖がらずにこちらに来て」
王女のそれではなく学友だった頃の口振りでエレナは俺を呼び止めた。
「恐れ多いです王女様」
「来ないなら叫んで人を呼びます」
脅迫じみているが、赤毛のエレナらしい物言いだった。
観念したというよりも、今は彼女の妊娠という事実になにもかもどうでもよくなっていた。
無気力で無抵抗な俺は、言われるままバルコニーへと向かう。
月を背景に彼女と向かい合って立つ。少女は俺の右手をそっと包むように握った。
そして――
「どうか……触ってみてください」
革手袋に包まれた俺の手をエレナは膨らんだ腹にそっとあてがった。
手袋越しで感触もない。が、なだらかな曲線を手のひらでなぞると、彼女の中に命が芽生えているのを実感させられる。
潰してしまいたい。そんな衝動に駆られた。
心臓が早鐘を打つ。まるであの月の晩のようだ。異様な鼓動とともに身体が芯から熱くなる。
俺の呼吸は痩せ犬のように荒くなり、目の前の可憐な王女を無茶苦茶にしてやりたいという衝動が沸き起こる。
不意に王女がかかとを上げて背伸びをすると、吐息がかかる距離まで顔を近づけた。
「やっと……来てくれた」
そう少女が呟いた刹那――
エレナの桜色の唇が俺の口に触れた。
彼女の手が俺の手と重なり、指と指が絡まり合う。
触れた唇の感触と温度がなぜか俺にはなつかしく感じられた。




