ユニークな作文シリーズ その1 「神と仏の話」
定期考査の点だけでは足りない生徒には、作文を書いてくれば、400字詰め原稿用紙1枚につき、1点ずつプラスするという約束をしました。
赤点のコワイ生徒を救済するためにやったことですが、かなりできる生徒が、もつと点がほしくって、取り組むこともありました。
記憶に残るのでは、60枚が一人、50枚が一人いました。
前者は、結婚式場、披露宴会場のバイトで体験した大人たちのウラの姿を、
後者は、家族が、どのような経過をたどって離散していったのかを、
ともにリアルにつづったもので、迫力満点でしたが、どちらも、公開すべきではないと考え、国語の点は与えましたが、校友会雑誌に紹介したりは、できませんでした。
今回紹介する分は、公開できるものと考えます。
3人とも、3年の男子でした。年度も、クラスも、違いますが。
ちなみに、この作文は、サリン事件の4、5年前に書かれたものです。念のため、申し添えます。
「更科日記」で、少女が「どうか、早く、都にのぼらせてください」と、仏像に祈る場面がある「こういうのを、苦しい時の、神だのみという」と、先生が説明した。そしたら、「これは、仏だのみやろう、神と仏は違うやろう」と、友達が言った。先生は、「今の人から見ると、神と仏とは、全然別のものに見えるかもしれんが、昔の人から見ると、まったく同じやったんじや」と答えた。そして、「今日はあんまり時間がないから、この次に、くわしく説明してやろう」と言って、その時間は終わった。
次の時間、先生は、いつもと違って、黒板の左の方から、タテ書きで、年表みたいなものを書き出した。
質問すると、数字の若い方は、左に書いた方が自然やろうという。
その年表によると、仏教が日本に伝わって来る前、日本の宗教は、シャーマニズムというもので、それは今でいえば、神道みたいなものだけれども、もっと素朴で、神がかり的なものだったという。例として、アマテラスオオミカミが天の岩戸に隠れた時、アメノウズメノミコトという女の神様が、ストリップみたいな踊りをして、その時、片手にサカキの枝を持って、とかいう話をした。あとで友達が先生に聞いていたが、やっぱり、おカグラのおおもとになっているような話らしい。今でも、おカグラはあるし、神がかりのシャーマンみたいな人が教祖様になっている宗教もある。日本に、もともとあったのは、そんな宗教だつたのだそうだ。
仏教が日本に来た時に、その仏教と、昔からの神様とを統一するための理論ができた。それが本地垂迹説というもので、「民衆を救うために、仏が、仮に神として姿をあらわすこと」と、ノートには書いてある。これで行くと、すがたは神でも、中身は仏ということになる。神様をおがんでも、仏様をおがんでも、ごリヤクに変わりはないということになる。これが、神仏習合ということで、江戸時代の末まで、千年以上も続いた大きな流れという話であった。例として、つれづれ草に、お宮参りに行く坊さんの話があるとか、先生は言っていた。お宮とお寺が、とけあっていたのだ。
明治になってすぐ、神仏分離令という法律ができた。王政復古によって、天皇が政治をすることになったので、天皇を神様あつかいにして、お地蔵さんなんかとは違うぞと、国民におもわせなければならない。仏様より神様の方がエライぞというために、仏様をバカにしはじめた。これが廃仏棄釈であった。仏像をこわしたり、お寺をこわしたりする運動であった。その例として、先生が紹介したのが、求菩提山のふもとにある、首と胴体の離れた石仏のことであった。あれは、この時に首を折られたのだそうだ。
けれども、日本人は、熱しやすく、冷めやすいので、この騒ぎも、まもなく落ち着いて、それからは、神様と仏様が、別々のような感じで、現代まで続いているというのだ。
外国人から見ると、お宮に初もうでをする人が、お盆には仏壇に手をあわせ、クリスマスやバレンタインでは、キリスト教徒のようにふるまうのは、奇妙に見えるらしい。でも、本人たちが、それで幸せを感じているのなら、それでもいいんじゃないか、というのが先生の言い方だった。それと関連して、宗教の押し付けはコワイという例も、二つほど紹介してくれた。
一つは、江戸時代の初めごろ、キリスト教を信じてはいけない、仏教徒になれ、というので、踏み絵を使って宗門あらためをして、どこかのお寺の檀家にムリヤリさせられたことがあるという。キリストの絵を踏まない人は、火あぶりで殺されたというから、むごい。自分なら、すぐ絵を踏んで、助かろうとしただろう。
この時の影響が、隠れキリシタンという形で、のちのちまで残った。五島や天草に行くと、オモテは仏像だけども、ウラには十字架がきざんであるというもの。仏様を拝んでいるふりをして、キリストを拝む人たちのつくったものらしい。
もう一つは、太平洋戦争中の例で、たとえば、元日は、全校登校日になって、天皇のいる方向に、全員最敬礼させられていたそうだ。天皇という神様を拝めと、ムリヤリ押しつけられていたという。
新憲法になって、信教の自由が認められたから、もう、自分の信じる宗教を隠す必要もなくなったが、それにしても、神や仏を信じる人は、熱心な人が多いから、もしも、意見がぶつかり合うと、命がけのはげしさでケンカをする。話を聞きながら、こわい、こわいと何度も思った。ひょっとしたら、神も仏も、ほんとうは、ケンカが大好きで、人間同士がケンカをするように、あやつっているんじゃないか。
死んだら、いい人は天国へ、悪い人は地獄へ行くという話だ。これは、神様、仏様が、人間の世界に、差別を持ちこんでいるようなものだ。ほんとうの神様が、人間を差別するはずがないと、自分は思う。神様、仏様も、天国、地獄も、差別の好きな人間が、勝手にこしらえた作り話かもしれない。これだけ科学が発達した現代に、神様とか、仏様とか、本気で言うのが大体コッケイなことだろう。ところが、若い人の中に、今ナントカ教の信者が、たくさんいるそうだ。世の中、なんかおかしいんじやないか。もしも自分が、エライ権力者になったら、そんな変な宗教は、ぶっつぶしてやる。と言いたいところたろが、自分は、とても、織田信長や、ヒットラーのようなことは、できそうもない。あんな権力者になれるはずもない。
まとめようがなくなってきた。しかし、これだけ書いたら、国語の点は、かなりプラスしてもらえるだろう。もうそろそろ、やめるとするか。
生徒の作文ですが、私の授業の進め方なども、もろに表現されている! と、感じました。