第35話 「ごめんね」
倉伊が机を軽々と飛び越え、突進してくる。軽業師のようだ。だが、その手に握られているのはナイフ。
俺は軌道を見極め、横に避ける。それを見るなり、倉伊は手近な机に手を突き、体を方向転換させる。サーカスのようだが、魅入っているわけにもいかない。逃げなければ。
すぐに取りついたのは、教室のドア。だが、どれだけ引いても開かない。嘘だろ。
「無駄だよ」
倉伊がゆっくり、ナイフを手に迫ってくる。
「僕のことを[憑依霊]だと思っているようだけれど」
「違うのか?」
「違わないよ。でも、咲原くんなら知っているはずだ。世の中には超能力を持つのは一つだけじゃない人がいるっていうことを」
目を見開く。
「まさか、二重能力者!?」
二重能力者。知実さんから話は聞いたことがある。世の中には稀ではあるが、二つの超能力を持つ人物がいると。まさか、[憑依霊]が二重能力者だとは思っていなかった。
だとしたら、もう一つの能力が閉じ込めているということか。
「空間閉鎖系の能力……」
超能力で分類するなら異空間系に属する能力だ。[憑依霊]は同調系の能力であるから、同調能力を更に極めたタイプの能力である異空間系の能力が使えてもおかしくはない。
だとしたら、解除方法は一つ、倉伊に開けてもらうしかない。だが倉伊は[憑依霊]で、俺の暗殺、もしくは捕縛を目的としているはずである。そう簡単には逃がしてくれないだろう。
ん?
教室の中を逃げ回りながら、ふと気づく。
「[憑依霊]なら、何故俺に取り憑かない?」
そう、捕縛を目的とするなら、[憑依霊]はうってつけの能力である。対象に取り憑いて、その対象の体を目的地まで運べばいいのだから。
「簡単に[憑依]されるような[傀儡王]なら不要だとクライアントが仰せだ」
なるほど。確かに俺は簡単に体を乗っ取らせるような真似はしない。抗うだけ抗ってみる。それに、同調能力は常に磨いているのだ。簡単に負けたりしない。同調能力も[傀儡王]の発動には必要不可欠な能力だから。
ということは、敵はかなり俺のことを調べ上げている。俺のバックに知実さんがついていることも知っているのかもしれない。
だとしたら、手は知り尽くされている……いや。
俺は警告音を一切鳴らしていないカロンの存在に気づく。カロンは知実さんの最新の発明だ。同調能力を疑似的に発生させる機械。
それに、カロンが警告音を鳴らしていないということは、からくりは佐竹のときと一緒ということ。
同調避けされているので気づかなかったが、倉伊だって、操られている可能性があるのだ。
カロンが俺から離れ、倉伊に引っ付く。さすが小バエ。音で気づかれるような愚は犯さない。
倉伊に引っ付いた瞬間を狙い、俺は能力を発動させる。かなり強引に。
同調、強制力!
「倉伊、やめろ!」
一瞬揺らぐ手。だが。
「なっ……」
強制力に対する強い抵抗があり、俺の強制力が弾かれ、[傀儡王]の力も弾かれる。
俺は知実さんとの訓練の日々で同調能力も強制力もそこそこに強いと自負している。その強制力が弾かれた。元々使役系のこの能力は強制力に極振りしてあるといっても過言ではないというのに。
ただ、カロンを介してだったから弱まったのかもしれないが、同調はばっちりだったはずだ。
それが効かないとなると、[憑依霊]がかなり強いということになる。ここには今、五十嵐もいない──あれも伏線だったのか?
一度取り憑いた無能力者の佐竹相手なら、取り憑くのは容易いことだっただろう。ただ、俺の能力で対抗できないとなると、俺からのアクセスは不可能ということになる。
「ごめんね」
「えっ……」
倉伊のその声が気になった。──これは操られている声ではなく、倉伊自身の声?
[憑依霊]の強制力は強いと思っていたが、俺の強制力が届いていないわけではなかったということか。
じゃあ、何故、倉伊がごめんね、と言って、そのまま俺に向かってくるんだ? まさか──
「おい、嘘だよな、冗談だろ……倉伊、まさか……」
もしも。
倉伊が倉伊の意志で[憑依霊]に取り憑かれているのだとしたら、強制力が効かなくても無理はない。無能力者でも、意志があれば強制力を発生させることができるのだ。
意志の力は強い。超能力なんかより未知数だ、と知実さんが語っていた。俺の強い強制力を意志の力で押し返したのだとすれば筋は通る。
でも、それじゃあ、倉伊が俺を殺そうとしていることになる。
……この空間から、逃げなきゃ。
何故は後だ。ここは空間隔離系の能力の中だということがわかっている。それなら、出る方法はある。強引だが。
「現実で壊れませんようにっ」
「なっ」
がしゃーん、と盛大な音を立てて、俺が咄嗟に掴んだ椅子が窓ガラスを割る。現実にガラスだったなら、請求書が頭に浮かぶが、後回しにしよう。
窓ガラスの外は……うん、予想通り。ブラックホールみたいというか、なんかマーブル模様というか。形容しがたい光景になっている。
そこに躊躇うことなく、ダイブした。
「なっ」
ナイフを空振りした倉伊が身を返すがもう遅い。
次元の彼方にさあ行こう。何か違うが、まあ、いいだろう。