第4話
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くじ引きで食事担当が決まってから、蓮香たち三人はすぐに夕飯の材料の買い出しへ行ってしまった。
午後にかけて増々気温は上昇していくだろうから、これ以上暑くならないうちに、ということだった。確かに、ここへ来るまでも既に相当暑かったわけだし、賢明な選択だと思う。
取り残された私と純さんは、出かける直前にハルくんが案内してくれた台所へ入り、冷やし中華の具だけ取り敢えず先に用意しておくことになった。
この家の人は日頃あまり料理をしないのか、台所の電球は切れかかっていて、薄暗い。それだけでなく、換気扇はあるものの窓がないため、開放的な居間と対照的にじっとりとした嫌な空気が漂っていた。
恐らく隣にいる純さんも同じことを感じただろうけど、これから厄介になる人の家に文句をつけるのは常識的にどうかと思うし、純さんは常識的な人だから、そういうことを言わないようだった。
「それじゃあ、純さん。早速野菜、切っちゃいましょうか!」
冷蔵庫から野菜を取り出し、台の上へ移す。
そのときふいに純さんと目が合って、なんとなく恥ずかしい気がして、明後日の方を向いてごまかしておいた。
純さんは、人と違って瞳の色が紅い。もしかしたら、外国の血が入っているのかもしれない。背も高くて、さわやかで、安心できるから多くの女の子の憧れだと思う。本気で純さんを好きな子も、きっとたくさんいるのだろう。そんな純さんと二人で料理を作るなんて、ちょっと嬉しかった。
「……いえ。ほのりさんは座っていて結構ですよ」
そう言ってきた純さんは、無理やり私を近くの椅子まで引っ張って、優しい顔で微笑んでいた。
……へ?
いきなりのことで整理がつかず、まぬけにも、ストン、と尻餅をつくように椅子に腰を落としてしまった。
これは彼の親切心なのだろうけど、私だってクジで決まってしまったのだから、全てを純さんに丸投げしてしまうのは気が引けてしまう。
それに仮にも女なのだから、男の子に料理を全部やらせて、隣で黙って座って見ているだけなんて、いけないと思う。
いや。それとも純さんは、私みたいなアホ女には、料理なんてさせられないとでも思ったのだろうか。だとしたらショックだ。私だって、これでも一応、趣味程度だけど台所に立ったりしているのに。
それに。純さんには、さっきのお礼もまだしていない。
ハルくんのお爺さんの肩を掴みそうになったとき止めてくれたこと。あのとき純さんが止めてくれなければ、ハルくんのお爺さんを怒らせてしまっていたかもしれない。もっと気まずい空気にしちゃっていたかもしれない。
純さんが止めてくれたから、今こうやって合宿もスタートできたのだから、感謝しなきゃいけないのに。
「やっぱり私も手伝います!」
悶々とするのは耐え切れない。
純さんがボケっとしているうちに、彼が今まさに用意をしていた包丁を強引に奪い取ってしまった。
――痛っ!
勢い余って手の甲を少しだけ切ってしまったけど、流れるほどの血はでていないから、見て見ぬふりをしておいた。
「あっ……」
「私も当番なんですから! 手伝わせてください!」
ちょっと口調を強くしてしまったせいか、純さんは驚いた目を見せていた。
無理やり包丁取り上げちゃって、悪いことしちゃったな……。で、でも、純さんだって一人で作るって決めちゃって、ちょっぴり悪いんだから、お互い様だ! うん!
目の前にあるきゅうりを切ろうと意気込んだところ、純さんが何か言った気がしたが、よく聞こえなかった。(空耳、かな?)
純さんを見ると、彼の視線はどこか定まっていなかった。
「それじゃあ私、野菜切るので、純さん、卵つくるのお願いしても良いですか?」
「……あ? え、ああ……」
先程から妙に落ち着きがない純さんに卵をお願いすると、これまた余所余所しい返事が戻ってきた。
どうしたって言うんだろう。急に。もしかして、冷やし中華好きじゃないのかな? いやいや、そんなまさか。
切れかかった電球特有の音と、換気扇の音、それと野菜を切るまな板の音だけが響き渡る。
話しかけても、どうも会話が続かず(というか純さんがあまり聞いてくれない)、淡々と時間が流れた。薄暗い部屋でこうも静かだと、先程まであんなに暑かったのが嘘のように、涼しくなってくる。涼しくというより、冷ややかといった方が正しいだろうか。
私は、暗い場所が嫌いだ。こういうところにいると、昔見たアニメを思い出す。
「小さい時に放送していたアニメなんですけどね、主人公がお友達とトランプをしていたら、突然停電になってしまったっていう話があって」
無言になると怖いので、気づいたらそのアニメの内容を口にだしていた。
純さんは聞いているのか分からないけど、私は話を続けた。
「そうしたら、その主人公、暗闇でお友達に首を噛まれて、殺されてしまったんですよ」
当時幼かったというのもあるけど、アニメの内容に衝撃を受けて、泣いてしまった程だった。だからこそ今でも記憶に焼きついて消えない。
そんな怖い記憶も、純さんと共有できたら、少しは怖くなくなるかもしれない。そんな期待も少しあった。
「なんとそのお友達、実は吸血鬼だったんです……!」
あっ!
手元が狂い、切っていたトマトの赤い汁が、純さんの顔に向かって飛び散ってしまった。
「わっ、ごめんなさい!」
慌てて布巾を取ろうとした瞬間だった。
ガチャン!
天井の方から重たい機械音がしたと思ったら、切れかかった電気が完全に切れて、換気扇まで働くのを止めてしまったのだ。
「て、停電?」
突然にして光を奪われ、思わずどきりとした。
何も、あのアニメを思い出した直後に停電にならなくても……勘弁してよ。
「純さん、大丈夫ですか?」
どういうわけだか、その質問に返答はない。
代わりにもらったのは、暗がりの中紅色に輝いて見えた美しい眼差しだ。彼の香水だろうか。ふわりとシトラスの香りが鼻腔を掠めた。
次の瞬間、首に鋭い痛みが走る。純さんの息遣いを耳元で感じていた。
彼は私の首筋に、その唇を押しあてたのだ。
現状を理解できないまま、身体の力が抜けていく。崩れ落ちていく私の手から、銀色に光る包丁が滑り落ちた。
そしてこれが、私の意識の最後となったのだ。
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――お姉ちゃんなんて、死んじゃえ!
真っ赤に目蓋を腫らした妹のほのかに、力いっぱい枕をぶつけられたところで、夢から醒めた。
ぼんやりと霞む目に、だんだんと天井の木目の色がはっきりと映ってくる。
涼しい風が頬を横切った。扇風機、だろうか。身体には薄いタオルケットが一枚かけられていて、その柔らかさには懐かしさを覚える程であった。一方身体は、海水を吸った砂を纏っているみたいに重い。上半身を起こすことすら難しく感じた。
額にひんやりとした感触を覚えて、手で触ってみる。それは冷水に濡れたタオルであった。
「あ……ひ、広井さん、目……覚めました? 暑さで、気を失ってたんだよ」
「ん……桐ちゃん……?」
やっとの思いで身体を起こすと、夕飯の買い物に出かけたはずの桐ちゃんが、私の顔を覗き込んでいて、心配そうに、それでいて安心したようとも取れる笑顔を見せてきていた。
タオルケットをはだけさせようとすると、まだ安静にして、と言われてしまった。
私……どうしちゃったんだろう。
どういうわけだか、さっきまでの記憶が全く思い出せない。
思い出そうとすればするほど、耳の奥と頭のうしろを繋いだ部分に、ずっしりと重い痛みが広がった。こんなこと、始めてだ。ひょっとして、夏の暑さでどうかしてしまったのだろうか。
確か、私、純さんとお昼ご飯を作っていて……。
お昼ご飯……?
「あああああ!!!」
冷やし中華のイメージが即座に浮かんできて、この夏一番の大声が出てしまった。
そのせいで桐ちゃんは動悸でも走らせてしまったのか、胸に手を当て咳き込み始める。どうしたの、急に。そう聞いてきた彼は、涙目だ。
「ご、ごめん! 冷やし中華、作り途中なの思い出して! お腹空いたでしょ? 今すぐ作るから……っ!!」
そういえば、くじ引きでご飯作りを担当することになり、純さんと冷やし中華を作っている最中だったんだ。純さんから包丁を取り上げて、野菜を切っているときに停電になったところまでは覚えているのだけど、やっぱり、それ以降のことが全く思い出せない。
とにもかくにも、早く手伝いに行かないと、純さんに迷惑がかかってしまう。それに、皆だってお腹を空かせているはずだ。
こんなところで寝ているわけには――。
「落ち着いて。斉藤くんが作ってくれて、もう皆食べたから……」
「え?」
時計を見ると、既に時間は15時を回っていた。
そこで初めて、私が2時間以上も寝てしまっていたという事実に気がついた。
結局、私は純さんに任せきりにしてしまったのか……。
「斉藤くん何も怒ってなかったし、気にすることないよ」
桐ちゃんは気をつかってそう言ってくれたが、それでもやっぱり少しショックだった。夕飯は必ず、美味しいご飯作らなくちゃ。まだ思うように力の入らない拳を握って気合いを入れた。
「そう言えば、他のみんなは?」
「あ……ハルは食後の運動って言い出して……結構前にテニスに行ったんだ」
斉藤くんを無理やり連行してね。一拍空け、桐ちゃんは苦笑しながらその言葉を付け加えた。
純さんも、すっかりハルくんのペースにのみ込まれつつあるんだなあ……ははは。
「蓮香も一緒に?」
「いや、前田さんは……居間で、僕が貸したCDを……聴いてて……」
その返事は予想外だった。桐ちゃんが音楽好きだというのはハルくんから聞かされていたから知っていたし、蓮香も学校の休み時間によく音楽を聴いていたのを見たことがある。でも二人ってCDを貸し借りするような仲だったっけ? お昼を食べているときに、音楽の話題でも膨らんだのだろうか。
案外この合宿は、元々そんなに接点のない人同士が仲良くなるきっかけにも、役立っているのかもしれない。ハルくんと純さんも、よく考えれば、そうだ。
「ふうん。私が起きなければ、蓮香と二人きりだったのに。お邪魔だったかな? あはは」
「へ!? いや、そんなこと……っ」
慌てた様子で赤面する桐ちゃんに、心が和んだ。
「ごめんごめん、冗談。さーてと、私も何か軽く食べようかなー」
からかわないでよ、と、珍しくちょっぴり不満そうにする桐ちゃんを尻目に笑って、私は荷物の纏めてある部屋へ向かうことにした。
健康保険証……もっとしっかり隠しておかなればならないから。
今回はこの程度で済んだけど、もし何かあったときに、病院に届けるとかで保険証を見られてしまったら大変だ。
当然ながら生年月日も記されてしまっているそれを、どこに隠そうか。
桐ちゃんを残してこの部屋を出る頃には、そのことで頭が一杯だった。




