第21話
それはハルが僕に向かってはっきりと「お前を信じていない」と宣言した瞬間だった。
仮に信じているのなら、あんな一瞬の出来事、すぐに忘れてしまう人だろう。
そんな焦燥しきった顔で、お前を信じているだなんて、冗談はよしてくれ。
蝉取りで荒くなっていた呼吸が整ってきたのとは裏腹に、どんどん整理がつかなくなっていった頭の中には、前回の定期試験のときに目に焼き付いた「僕を見下ろすハルの姿」が鮮明に浮かび上がっていた。
僕の脳裏に映るハルが、汚いものを見るような目で、僕を責めるように見つめている。
君があの日、そんな目を僕に向けたのは、君が潔白な人間だったからじゃないのか。
僕はあの後何度も君のあの目を思い出しては、込み上げる頭痛と吐き気に悩まされてきた。
そして定期試験の話題は僕らの間でタブーになって、僕らの仲は少し気まずくなってしまった。
全てはハルが僕を悪だとみなしたせいだ。
それなのに。なんだよ。自分だって過去にズルをしていたくせに。僕のことばかり責めやがって。お前だって、結局、卑怯者じゃないか。
なんだか吐きそうだ。
目に溜まる涙が落ちないよう、僕は意識的に瞬きを繰り返していた。
「あ、あのさ、学」
「……なに、ハル」
「ごめんな、何か変な空気にしちゃってさ。で、お、俺さ、前からお前とやりたかったことがあるんだよ」
頭を掻きながらヤッコちゃんを一瞥したハルが、気まずそうに唇をきゅっと噛みしめる。ヤッコちゃんはそれを不安気に見上げていた。
君たちがそんな顔をしたら、この雲の張った空気を作った犯人は僕みたいな感じがしてしまうじゃないか。
僕は悪くない。強いて言えば定期試験なんて単語を口にしたお前が悪いんだ。だからそんな目で見ないでよ。
近くで楽しそうに大縄跳びに励んでいる子供たちを見ていると、無性に親指の爪を噛みたくなって、左手で右手を掴みながらぐっと堪えた。
中学生の頃、不良に体育館倉庫の裏へ呼び出されたときに、爪を噛んだら、「爪を噛んでいる時のお前の表情は、反抗的で気に入らない」と言われたことがあったからだ。
「交換日記、ってやつ、やってみねえ? 前さ、女子がやってるの見て、いいなって思ったんだよ。ほ、ほら、口では言えない悩みとか、紙なら書けるっていうのもあるだろ? 俺さ、転校してきて、お前とすぐ仲良くなって、お前のこと良く分かっているようで、全然分からないこともあって……とにかく、お前のことをもっと知りたいって思ったんだ」
近所を巡回している竿竹の販売車のアナウンスをBGMに、僕の返答も待たずにぺらぺらと一人で喋っているハル。
やっぱり、彼は自己中心的なのだ。
結局は、その交換日記というやつだって、どうせ自分が僕のことを聞きだすために始めたいと考えたのだから。
ハルは僕と仲良くしたくて交換日記をしようと言いだしたわけじゃない。これはハルのエゴでしかないのだ。ハルは、本当はあの日の僕への疑いを、確かなものにしたいだけだ。
僕の口からカンニングのことを直接言わせたいだけなのだ。でも、そのことにハル自身が気づいていないようだから、たちが悪い。
「そ、そうなんだ……いいね、やろうよ」
「学……」
気まずそうに名前を呼んできたハルを少しだけ睨み付けて、僕は右手の拳をぐっと握りなおした。手のひらに爪がくいこんで、鈍い痛みが広がっていく。
思い知らせてやる。ハルに。
怖いものなしの彼を、僕の手で、こらしめてやる。
その決意は僕を強くしてくれるようで、不思議と怖いものなんてもうこの世の中からなくなったような気さえした。
もっと早くからこうしていれば良かったのだ。
僕は汚い。
あれだけハルを失いたくなかったにも関わらず、もうハルを自分の手の中に掴んでおけないと判断している。呆気なく捨ててしまおうと思えてしまうのだ。
今までの関係を守らなけないのなら、そんなものいっそ壊してしまいたいと僕は思うから。
始めからハルと仲良くしていたいだなんて思ったのが間違いだったのだ。
ハルなんて、たいしたことないやつだった。そう、全然、たいしたことない。
運動会でズルをして一等賞をとっていたインチキ野郎だ。今までそんなのに縋りついていただなんて、僕は自分で自分が残念でたまらない。
僕は悪だ。学年で成績トップを死守し続けているカンニング常習犯だ。
そもそも友達なんて、つくるような人間じゃなかったのだ。
ハルを思い知らせるためには、彼に僕のカンニングを口止めできるだけの材料を探す必要がある。
こかれかハルを敵に回すのならば、自分の身を護れるよう最低限の保険はかけておかなければいけない。
やっぱり、カンニングのことは誰にもばらされたくないのだ。
ハルのことは捨てるけれども、親や前田さんからの信頼は守りたいと思っているのだ。
僕は、都合が良くて、ずるい人間だ。でもそれは僕がカンニングを働いている時から分かりきっていたことなのだから、今更なにも感じない。
ハルの「エゴ」も、使い方次第ではきっと僕の武器になる。
自分の秘密を守るには、相手の秘密を暴けばいい。
きっとハルにも僕の知らない秘密はある。交換日記というやつは、それを洗い出すのに好都合だ。
僕のことを聞きだされる前に、僕が君のことを聞きだしてやる。
これで二人の友情がより深まるなぁ、みたいなことを言っていたヤッコちゃんに、ハルは嬉しそうに頷いていた。
ハルは単純だ。友情とか、そういう綺麗な言葉を出されれば、自分の行いが正解だと思ってしまう。
必ずしも友情が綺麗かどうかなんてわからないのに。
「それじゃ、学。さっそくやろうぜ。まずは俺から書くから、書いたら渡すよ」
「……うん。そうだね、そうしてよ」
暑さのせいだろうか。夏は気が大きくなるのかもしれない。
相変わらず溶けてしまいそうな真夏日の今日、これからハルを敵に回すことが、僕は楽しみで仕方がなくなっていた。
今までの、いじめられっこの僕では考えられないことだった。誰かに立ち向かうなんて、怖くて、怖くて、たまらないことだったから。
不思議と足が震えないのは、もしかしたら、相手が友達のハルだからかもしれない。
虫籠に捉えられた蝉たちの鳴き声が、やけに大きく聞こえていた。
かわいそうに。
この蝉は籠の中からでられなくて、もがいて、でも外へでたくて、きっと、辛いだろう。僕と同んなじだ。僕も辛いよ。ずっと牢屋の中から抜けだせないでいる気分だよ。
僕は、この時、僕を信じてくれなかった彼に、復讐してやろうと決めた。
ハルとはもう仲良くできない。そう思ったんだ。
大縄跳びをしていた子供たちの「100!」という声が届くと同時に、広井さんに名前を呼ばれた。彼女は「みんな、少し休もうよー!」と叫びながら、僕らに向かって大きく両手を振っている。
ビーフのフリスビーは成功したのだろうか。いや、多分していないだろう。彼女の顔を見れば安易に想像がついた。




