それぞれの答え
伸ばされていた手は六花の手を通り過ぎ頬を包み込む。そうしてあまりにも優しい仕草で涙の跡を拭った。
伸ばされた手は掴めなかった。握り締めた手を開くことができなかったから。
沙は六花の固く閉じられた手を、壊れ物でも扱うかのようにそっと両手で包んで、手のひらを上に向かせゆっくりと開かせた。
握りしめていた物は、抜け出してきた時に咄嗟に掴んで持ってきた親の車の鍵だった。営業用の車でもあるので、宣伝用の広告が車体に書いてあって、車好きの父がこだわって外装のデザインを施していた。営業するために、花を積む高さや広さというのも必要で、車といってもなんでもいいわけではない。あの車がないととても困るだろう。
「鍵ですか?」
「うん、車の鍵。逃げ出した時にこれだけは持ってきたの。開けっ放しにして誰かに盗まれでもしたら大変だから。うちお金無いのに」
「なんとも現実的ですね」
「あんまり考えてなかったけどね。気がついたら引っこ抜いて必死で走ってた」
「私には親というものが居りません。誰に育てられた過去もありません。私にとってそれはつまり、“みんなが当たり前だって思ってるもの”なんです」
息が詰まった。可愛そうだと被害者ぶってる自分を晒された気分だった。でも、そこに悪意は感じられなかった。目の前の世にも美しい雪女の表情は、傷つけてやろうって思ってる奴がする顔じゃなかったから。
「あんたはご自身のことをなんにもないと仰ったけれど、私はそうは思いません。だってあなたは、だれもが当たり前だと思ってないがしろにしてしまいがちなものを、一番大切にできる人だから」
胸が詰まって、胸を締め付けるあまりの暖かさに、引っ込みかけた涙が溢れ出した。そこまで言われるほどの人間ではないと、ここ数年ですっかりひねくれてしまった心がひどく反抗しようとする。
「私は家族のために生きてるわけじゃないよ。自分のために私が離れられないんだよ」
「自分のために生きるのは当然です、あなたの人生はあなただけのものだから、六花さんのために使うべきなんだ。ただ、六花さんが生きる理由に、家族が含まれているだけです。それが結果的にあなたの家族を大切にすることなら、なにも悪いことじゃない」
「わるくない・・・」
「そうです、悪い事なんて一つもない。
あ、でも一つだけお願いがあります。あなたの残りの人生に私もお邪魔させてください。そうしたら私も幸せになれるから」
そう言って雪女は嬉しそうに、幸せそうにはにかんで微笑んだ。
暑い日差しの下、添えられ包まれた冷たい手がとても心地よかった。しかし向けられる視線はなんとも熱心でこれ以上ないほど優しさに溢れていた。
それと同時に、あまりに健気な様子にひどく胸が傷んだ。
なんて優しくて可哀想な雪女なんだろう。私は彼と一緒にいない選択をしたのに、彼はこれから先もずっとひとりぼっちなのに。
彼が生きる理由に、欠片でいいからなりたいと思った。
「ねえ、死んだらどうなるのかしら?」
「霊体になって成仏したらそのまま天界に召されます」
「ふーん、なら未練を残さないようにしないとね。」
ほんの少し寂しそうな顔をしてから、沙はいい子の返事をして笑った。
「趣味は続けるんでしょう?」
「はい、始めたばかりだし、まだまだ勉強中です。たくさん本を拾ってきたのでこれからどんどん追求していきたいと思っています」
「お盆くらいは帰ってくるから、その時にあんたの育てた花を見せてよ」
それが彼女の精一杯だったけれど、多分彼には十分すぎるほど十分であった。
美しい顔はどんな表情をしても美しいらしい。こぼれ落ちてしまうのではないかと心配になるほど、沙は大きな目をさらに大きくする。
「せっかく育てるなら自分だけで楽しむより誰かと共有したほうがやる気も出るでしょ。次に花を枯らしたら叱ってあげるわ。よかったわね、夏でも動けて」
沙はぽかんと口を開けて、大きな目をひたひたと水で浸していく。その瞳があまりに綺麗で、キラキラ輝く宝石みたいだなあなんて場違いなことを思った。
「・・・はい、私、男に生まれてよかったです」
「なにそれ、関係あるの?」
「さあ、どうなんでしょう?」
「でも、年中元気でいられるなんて、素敵なことだと思うわ」
「はい、いつでも元気でいます。なんなら初夏秋冬いつでも帰ってきてください」
「何言ってるの、お盆は時期が決まってるのよ。知らないの?」
「知ってます。けど、人間界のことについては目下勉強中です。ああ、そうだ、勉強といえば、一つ学んだことがあるんです」
美しい雪女は極上の笑みを浮かべて、大切な大切な人間に抱きついたのだった。耳元に唇を寄せて、噛み締めるように呟く。その言葉に、六花は声を上げて笑った。
「さあ、そろそろ帰りましょう。薬の時間でしょう?」
「なんでわかるの?」
「雪女はそれくらいお見通しなんです。さあ、送らせてください」
風変わりな雪女の背中におぶられて、二人の冒険が始まった。
*******3年後*******
「あ、今年もお供えしてあるよ!」
積もる雪がちらつく寒い冬の日。制服に身を包んだ少女と年配の男性と女性が墓参りに来ていた。
少女は雪が積もっている墓へと駆け出す。親と思われる男女は、いつまでもお姉ちゃんっ子が抜けない様子に仕方がない子だなあと息を吐いて顔を見合わせ微笑みあった。
墓には一輪の黄色いクロッカスの花が綺麗に包装されて供えられていた。
『クロッカスの花言葉の一つは、あなたを待っています、でしょう?』
答え。答えってたくさんあるけど、みんな一つずつどこかにはたどり着くはず。
残り2話は、妹視点と沙視点です。