六花
田舎の小さな病院では対処しきれないと言われ、最新医療機器が整備されていて、医者の数も豊富な大きな病院に転院するために、小学校を卒業すると同時に、都会へ家族みんなで引越しをした。都会の病院で高校卒業まで通い、また田舎の地元の病院に戻ってきた。
地元の小さな病院に送り返されたあたりから、この病気は治らないのだろうと薄々勘づいていた。体調が良くなったわけでも、検査の結果が良好だったわけでもないのに、突然出された外泊許可が出て、その予想は確信に変わった
突然出された今回の外泊許可が、家に帰れる最後の機会なのだということもなんとなく感じていた。
飛び出したのは、逃げ出したかったからだ。
いつからだろうか。見慣れた病室の天井を見上げるだけの、あてがわれた病室の中で管理された生活は、ひどく味気なくてつまらなくて物悲しいとしか感じられなくなったのは。
騙し騙し、置かれている状況から自分なりの生き方を見つけたフリをして、生きている気になっていたのに、いつからかそれができなくなっていた。
医者や看護師は当たり前だけど私に対して仕事をしていて、励ましや気遣いの言葉が、そういう場面での彼らのお決まりであるとしか思えなくて、ひねくれた捉え方しかできなくなった。
見ないように比べないようにしていた、外の世界。当たり前みたいに過ごしている同い年の子たちの姿が、羨ましくて仕方なくて、とうとう見ることも苦しくなって、目をそらすようになったのはいつからだろうか。
今年の冬が来れば、もう20歳だ。
成人ってやつになる。立派な大人だ。けれど私は病院のベッドの上にいるしかなくて、自分一人ではろくに走り続けることもできない。先の見えない不安は、心の奥深くに押し込めて隠していたいろんな感情を目の前につきだした。
あどけなく笑って、家や学校の様子を話す幼い妹。
いつでも笑って世話を焼いてくる母。
病気が治った後の話ばかりする父。
もう、飽き飽きだった。
私を取り囲む世界の全てに、うんざりしていて。
慕ってくれる可愛い妹を、疎ましく思ってぞんざいに扱ってしまう自分から。
笑顔の中に隠しきれず無理をした様子を覗かせる母に構われることが、苦痛としか感じない自分から。
父の励ましの言葉が重くのしかかってきて、叶わない希望に反発してしまう自分から。
痛くて痛くて、痛くて痛くて苦しくて悔しくて。
思うようにならない体と心から、逃げたしたかった。
「ねえ、不公平じゃない、こんなの。生まれた時から決まってて、どんなに努力して頑張って頑張って頑張っても、どうしようもないもののために、みんなが当たり前だって思ってるものの何もかもが手に入らないの」
一度声に出して吐き出した不満は、留まることを知らなくて、行くあてなどないと知っているのに、ただただ言葉としてこぼれていった。
「私が生まれてきた意味ってなんなの?どうしてこんなに辛い思いをしないといけないの?
飲みたくない薬をたくさん飲んで、行きたくない病院に通院して、したくない検査をたくさん繰り返して、けど、どうにもならなかったよ。なにもないんだよ。なんにも残せそうにないんだよ。
ねえ、私、もう死んじゃうんだよ。」
涙が溢れて頬を滑り落ちる。我慢し続けた涙はあまりにもあっけなく流れていくから、今まで耐えていたものはそんな程度のものだったのかとさらに悲しくなった。それと同時に、持て余して行き場のなかった鬱憤を吐き出すと、随分心が軽くなった気がする。
負担が退いたのか、心が空っぽになったのかはわからないけれど
涙の向こう側に、立ち尽くす美しい雪女が映った。
「生まれてきた意味が必要ですか?」
視界の中の沙は、先程までの弱々しい様子は鳴りを潜めていた。力強い視線が真っ直ぐに六花へ注がれる。どうして女性だと思えていたのか、こんなにも立派な男の人の顔をしているのに。
「私ごときではあなたに何も差し上げられないけれど、あなたが望むなら、あなたを取り囲む苦しい日常から連れ出します。私と一緒に、逃げますか?」
沙は六花に片手を差し出した。
雪の降るあの日の夜が蘇る。これまでに感じたことのない高揚感を味わった、たった一夜の大冒険。この手を取れば、つまらなくて苦しい場所から抜け出せるだろう。差し出された手を握ろうと、手を伸ばす。
沙は、射抜くような視線を閉じ、再び目を開けて柔らかく笑った。