子供たちの小さな大冒険
片田舎の小さな病院に面した、舗装のされていない山。2月の今が最も雪の積もるこの地域では病室の窓から外を見渡せば一番に目に入るその山は、今もふんわりと降っている雪に白く染まっていた。
生まれた時から体が弱く、度々病院にお世話になっている。小学校に入学して少しマシになったといっても、病気が治ったわけではなかった。苦い薬を飲んで痛い注射に耐えても、友達とろくに遊べない体が、苦痛以外の何者でもなかった。
「あの山には怖いお化けが出るから絶対に入ってはいけないよ」
それは、定期検診で病院に一週間入院しなければならなかった時に、同じ病室のおばあさんが教えてくれた。自営業で共働きをして花屋を切り盛りしている両親は、つきっきりで六花と一緒にはいられなかった。六花のひとりの時間の過ごし方は、花に関するたくさんの本を読むことだった。
花は好きだった。生まれる前から花に囲まれていて、楽しそうに花の世話をする両親を見て育った六花が、花に興味を持つのは当たり前だった。花の本を読むことは六花の楽しみであったが、遊びたい盛りの少女が、一人無言で本ばかり読んでいる姿に気を遣ったのか、今回一緒の病室になったおばあさんは何かと話しかけてくれた。
山に出る化物の話は地元では有名だったらしいが、窓に目を向ければ山しかないという状況の中で、教えて怖がらせたくない大人心から誰からもそんな話を六花は聞いたことがなかった。
「お化けって、幽霊のこと?」
「さあねえ、おばあさんは見たことがないからわからないけれど、真っ白い髪をした女の子のお化けだって言われてるんだよ」
「おんなのこ・・・」
「見つかったら食べられてしまうんだよ、だから山に入ってはいけないよ」
六花はその話にとても関心を持ったけれど、行こうとは思わなかった。体が弱いせいで不自由な六花のことで両親が悩んでいる姿を何度も見てきた。そのため、物分りのいいあまりわがままを言わない子供に育ってたので、行くなと言われれば行かない、というのが六花の答えだった。だから、本当に山に入るつもりなどなかったのだ。
夜中トイレに行きたくなって、おばあさんを起こさないようにそっと部屋の外へ出る。
何年も通っている病院とはいえ、夜中に一人でうろつくのは怖かったので、気休めにお気に入りの本を抱きしめて廊下を歩いた。トイレに駆け込んでさっさとすませ、飛び出すようにトイレから出る。時間が経てば経つほどに怖くなって、両手で体を抱きしめ俯きながら歩いた。歩いて歩いて、気がつくと迷子になった。
明るい昼間なら狭い病院内を迷子になどなるはずがなかったが、暗くなるだけでいつもの病院内が全く別物に見えた。怖くなって目に涙を浮かべながら立ち尽くしていると、窓の外に人影が見えた。
こんこんと、子供の手が窓ガラスを叩いている。とても恐ろしかったけれど、足は動かないし、静かな病院でノックの音だけが響いている方がずっと恐ろしかった。だから六花はこわごわその手に向かって声をかけた。
「だれ・・・?」
こんこん
「病院で入院してる子?」
こんこん
「もしかして外に出て入って来られなくなっちゃったの?」
こんこん、こん
六花は忍び足で窓に近づいた。すると窓の鍵が突然カチャリと音を立てて開く。病院にはいろんな子供たちがいて、声を出せない病気の子もいる。
それに、雪が積もるような寒空の下にいつまでもいては風邪をひいてしまうし、見回りの看護師さんに見つかったらとてもきつく怒られる。それは可愛そうだと思い、一度躊躇ったものの、目をつむって思い切って窓を開ける。
ゆっくりまぶたを上げると、小さな子供が駆け出している後ろ姿が映る。
「待って!ほら、窓を開けたらから中に入っておいでよ!」
子供は振り返ることなく走っていく。その後ろ姿がどう見ても子供だったため、 六花は恐れを忘れて窓の外へ飛び出し後を追った。
「待ってってば!」
走っても走っても追いつかず、それどころか距離が開いていく。目の前の小さな背中は走りづらい雪の上を軽々と駆けていく。スリッパを履いた六花は、実際は歩いたほうが早いのではないかという速さだったが、普段体育の時間でさえまともに走らない六花にしたら、類を見ないほどの全力疾走だった。案の定咳き込んで冷たい雪の上に膝をついた。
喉も胸も痛くて座り込む。苦しい咳を吐き出し、ぜえはあと息をついて、顔を上げれば、先程まで追いかけていた背中の子供が立っていた。真っ白の着物に鮮やかな青色の羽織を着て、降り積もる雪のように白い髪と肌をした美しい少女だった。感情の読めない表情が一段と生気のなさを感じさせた。脳裏におばあさんの話が蘇る。
真っ白の髪をした女の子のお化け。
ぞぞぞっと背中を悪寒が駆ける。本を抱きしめる腕が、肩が、体全体が震えた。どうすればいいのか、頭が真っ白になって何も考えられず、金縛りにあったかのように体が動かなかった。
女の子は何も言わず一歩近づいてきた。女の子が履いている下駄の跡が雪につく。女の子が一歩近づいてくるたびに心臓が激しい音を立てた。そうしてとうとう無表情の女の子は目の前まで来て立ち止まり、ゆっくりゆっくりと手を伸ばしてきた。
その手が六花の頬を包み込もうとした瞬間、バサリと音を立てて女の子が視界から消えた。木の枝に積もっていた大量の雪が女の子の上に落ち、女の子は雪に埋もれて見えなくなった。
呆然としたのも一瞬で、このままでは女の子が死んでしまうと思い、必死で声をかけながら雪を掘りおこした。
雪を掻き出して見つけた女の子は何が起こったのかわからないという様子で、はじめて無表情以外の子供らしい表情を見せたのだ。それを見て六花の中の糸がぷつりと切れた。
「・・・・・・だから、待ってって言ったのにいいい!!!ばかああああ!」
うわああんと泣き出し、雪にまみれた女の子に抱きつく。女の子の体はどこもかしこも冷たくて、その冷たさにまた泣けた。
一向に泣き止まない六花を前に、女の子は完璧に固まった。恐る恐るといった様子で、六花の頭を撫でる。
「だ、だいじょう、ぶ?」
小さな小さな呟きのようなそれに、しかし六花は食ってかかった。
「大丈夫じゃないよばかあ!冷たいし寒いし歩けないよお!うええん、ん、ぐすん」
日ごろ泣くことのない六花は、自分でも爆発した感情をどうやって始末すればいいのかわからず、ひたすら泣いた。
ひたすら泣いて落ち着いた頃、顔を上げれば、隣に座りこんだ女の子が伺うよう顔を覗き込んでいた。よくよく見れば女の子は六花より少しばかり幼い顔立ちをしていて、線の細い小柄な体型をしていた。
雪が溶けて服が張り付いて気持ち悪い。髪の毛もベッタリと顔に張り付く。女の子も雪に濡れて体中グッショリとしているはずなのに、白い着物は素材のせいか色のせいか、濡れているようには見えないことが少し不思議だった。
「な、泣き止んで・・・?」
それが女の子の精一杯だった。困ったような、焦ったような、取り繕うようなその様子を見て、やっと六花は落ち着いた。落ち着いて初対面の女の子の前で盛大に泣いてしまったことに顔を赤くした。
「もう大丈夫・・・」
「そっか・・・」
表情に乏しいながらも、明らかにホッとしている様子が伺えて六花はますます恥ずかしくなった。
「ねえ、どうして山の中に走って行っちゃったの?私たくさん呼んだのに」
「・・・・・・気がつかなかった」
「病院で入院してる子?」
「違う」
「じゃあどこから来たの?」
「山の中で暮らしている家がある」
こんな山の中に家があるのかと思ったが、六花は素直に受け止めた。
「でも、こんな夜遅い時間に外に出てたら危ないよ。お父さんもお母さんも心配しちゃう」
自分が言った言葉に六花は胸を締め付けられた。一気に心細くなる。帰ろうと声をかけようとしたが、女の子が俯いて顔に落とした影を見て、どうしたのと聞かずにはいられなかった。
「心配してくれる親なんていない」
「え・・・」
「気がついたら一人で、今は養ってもらっているけれど、それもきっともう終わる」
「一人ぼっちなの?」
女の子は頷く。子供らしからぬ、何も浮かべない表情に差した影がひどく目についた。顔に張り付いている白い髪から滴る雫が、肌に落ちて溢れるたび、泣いているように見えた。
「私と一緒だね。私も一人ぼっちのことが多いよ」
女の子は少しだけ目を見開いて六花に視線を向ける。
「体が弱いから、普通には暮らせないの。お父さんもお母さんもお仕事が忙しくてずっとは一緒にいてくれないし、小学校はあんまり行けてなくてお友達もできないの。病気ってだけで、皆とおんなじようにできないの」
へらっと笑ってみせて、女の子の手をぎゅうっと握り締めた。やっぱり冷たくて、あったかいのを分けてあげたいのに逆に冷たいのをもらってしまいそうだと思った。
けれど六花は握った手を離さなかった。
「何か楽しいことを見つけるといいよ。私ね、お花が好きでお花の本をよく読むの。その時はね、美味しくないけど食べなきゃいけない病院のご飯とか、痛い注射のこととか考えて、ずーんてならずにいられるから」
持っていた花の図鑑を広げてみせる。一緒に覗けるようにと、さらにくっついて、本の半分を女の子の膝の上に乗せた。
「ほら、たくさん種類があって綺麗でしょう!名前も可愛かったり面白かったりするんだよ!」
女の子は図鑑を覗いて釘づけになるように見つめた。
「すごい、これはなに?紙の上に花が咲いてる」
女の子は紙の上に指を滑らせる。まるで花を掴もうとするような動作に、花に興味がわいたのだと六花は俄然やる気が出た。
「今は寒いからお花の咲く種類も少ないけど、あったかくなるとたくさん綺麗な花が咲くんだよ!」
「寒くても綺麗に咲く花はないの?」
「あるよ!ほらこれ!」
特に大きく写真の載っている花を指差す。まっすぐ伸びた細い何本もの葉に囲まれ、その中心でまあるい花弁を何枚か重ねるように咲いている。黄、白、紫と豊富な色の花だ。
「クロッカスって言う花なの。私と同じ冬生まれの花なんだよ」
「そうなんだ」
「・・・反応薄いね」
「もっと説明があるのかと思った」
「花言葉がいくつかあってね、素敵なんだよ」
「どんな言葉なの?」
「・・・勉強中なの」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「私も勉強しとくね」
「うん、一緒に勉強しよう」
しばし無言で見つめ合って、それから二人して吹き出して笑った。
「私ね、六花って言うの。六花はね雪の結晶って意味があってね。雪の振るような寒い日でも綺麗な花が咲くから、どんなに辛くてダメだってときも、頑張れば頑張った分だけ花開くものだって意味が込められてるんだよ」
「そうなんだ」
「やっぱり反応薄いね」
「そうかな」
「ねえ、なんてお名前なの?」
「・・・・・・沙」
「そっか!いさこちゃんね!」
「え、あの」
「よろしくね!いさこちゃん!」
六花は握った手をぶんぶんと振り回した。学校に行っても勉強についていくので精一杯で、友達の輪に溶け込めず、花の本ばかりを相手にしていた。外で遊びに行ってしまう同級生に、花の話をするのはどうしてか躊躇われた。つまらないと言われるのが怖かったのだ。だから、初めて花の話を出来る女の子ができて六花はとても嬉しかった。
「くちゅん」
六花は寒さに体を震わせて、ひとつくしゃみを漏らした。
女の子は歩けそうもない六花を病室までおぶって送り届けてくれた。六花よりも低い身長で肉の薄い体つきだとおぶられてわかったが、女の子は全く重そうな様子を見せなかった。部屋の鍵は毎日決まった時間に看護師さんが閉まっているか点検に来て、今日も閉めていた気がしたが、閉め忘れていたらしい。女の子はちょうど六花のベッドがある側の窓を開けてなんとも身軽に中には入り、部屋の中から手を伸ばしてくる。
「ほら、掴んで」
伸ばされた腕を見てふと思おう。病院から抜け出して友達とこっそり部屋に戻ってくる。たったそれだけのことだが、幼い六花にしてみればまるで大冒険をしてきたみたいだった。おかしな高揚感に包まれて、六花は寒さも忘れて力いっぱいその手を掴んで引っ張った。女の子は思いのほか掛かった重量感に体を持って行かれそうになったが、なんとか踏ん張る。
「危ないよ」
「へへっ」
「もー」
六花を引っ張り上げて、無事にふたりは病室にたどり着いた。
「それじゃ、私行くね」
そう言って窓枠に足をかけ今にも飛び出してしまいそうな女の子に、とたんに六花は寂しくなった。
「もう行っちゃうの?たくさん雪が降ってるし、ちょっと休んでいきなよ。そうだ、おいしいお菓子をお母さんに持ってきてもらうよ。朝になったら来てくれるから、頼んでみるから、食べていきなよ。あと、あとね、ほら、たくさん花の本があるんだよ、ね、一緒に見ようよ」
着物の袖を弱々しい力で引っ張る。わがままをせがんで親を困らせることをしない六花は、どうすればこの友達がまだ一緒にいてくれるのかを考えるので必死だった。
「空は暗いけど、もう行かないと」
「・・・・・そっか」
もう行かないとは、一緒にいられないと言われるより、ずっと寂しい言葉だ。
両親は、いつもこの言葉を六花に残して仕事に行ってしまう。そしてそれを、引き止めることなんてできないと知っているから、掴んでいた袖を離した。たった一言に含まれている謝罪や罪悪を感じて、わがままなんて言えなくする。ずるい言葉。
しかし、女の子は足をかけた状態からなかなか外へ飛び出しては行かなかった。離れ難かったのは女の子も一緒だった。
「花が咲いたら、きっと見せに来る」
うつむいてこぼされた小さなその一言は、けれど六花の耳にはしっかりと届いた。胸いっぱいに温かいものが湧き上がってきて、六花の頬を真っ赤に染めた。
「ぜったい!ぜったいだよ!」
はくしょんっ、と声がした。二人で声のした方へ顔を向ければ、眠っているおばあさんが寒そうにベッドの中で震えている。開けっ放しの窓から冷たい冷気が入り込む。
六花は備え付けの引き出しに仕舞いこんでいた黄色いマフラーを引っ張り出して、女の子の首にぐるぐる巻いた。
「これは?」
「お母さんが作ってくれたの。すっごい長いんだけど、あげる!」
女の子の首に3重に巻かれたマフラーは六花の母が外に出て遊ぶためにと作ってくれたものだ。これを見ては自分を励まして病院生活を過ごしていた。それから六花は髪ゴムを引き出しの中から取り出して、女の子の髪をひとつに縛った。顔に張り付く髪がなくなって、女の子がまとっていた悲壮感が少しだけ緩和されたような気がした。
女の子はありがとうと言って、今度こそ窓から飛び出していった。窓を閉めてから、六花は女の子が見えなくなってしまっても、走っていった先を長い時間ずっと見ていた。
翌日六花の母は、慌てて六花の病室に駆けつけた。六花が高熱を出したと病院から知らせを受けたのだ。しかも全身びっしょりと濡れていたらしい。熱が引いてから何があったのかと聞いても、六花は首をひねるばかりで、原因はわからなかった。ただ、熱にうなされている時に女の子と遊んで楽しかったと呟いたそうで、六花の当時担当だった看護師は夜中に遊び回ったのかと、熱の引いいた六花をこっぴどく怒った。
高熱に悩まされた六花は、回復するとその夜の記憶を綺麗さっぱり忘れてしまっていた。しかしその夜のことを思うと、胸がドキドキと楽しい音を立てた。そしてその衝動のままに、六花は母に満面の笑みで言った。
「お母さん私ね、妹が欲しい!」
この話が一番楽しく書けた・・・