ある夏の日の雪女
8月中旬。真夏の蒸し暑さと炎天下の焼け付くような日差しが入り混じり、まだまだ暑い盛りが続いている。生暖かく緩やかで不快な風が頬を撫で、嫌な汗が背中を滑る。
一定の距離を保ちながらたたずんでいる、雪女を名乗るそれはそれは美しい女性は、手に抱えている桶を足元に置き、何かを決心したように胸元で指を組んで手を握り締め、ぐっと口元を引き結んでから、おもむろに口を開いた。
「雪女の沙と申します!」
沈黙が流れる。何もアクションが返ってこないことに女はしばしうろたえたようだが、持ち直してまたしゃべりだした。
「“いさご”です!」
「・・・」
「“いさこ”ではありません!」
「・・・ 」
「お、おわかりいただけたでしょうか?」
「・・・ええ、それがあんたの名前だっていることは」
返答をしないでいると、弱々しく眉根を下げてくるのとあまりに必死に話しかけてくる様子から、つい返事をしてしまった。やっと返した言葉に、女性は少し顔をこわばらせたように見えたが、すぐさまそれは消えた。
「どうぞ沙とお呼びください!」
目を輝かせて、名を呼ばれるのを待っている様に逆らえず。
「い、沙」
こぼしたようなそれに、沙は花が咲くような美しい笑を浮かべた。
「お嬢さんのことはなんとお呼びすればよろしいでしょうか?」
自身のことを雪女だというおかしな女は、どう考えても不審者で、関わり合いにならない方がいいことはよくわかっているのだが、沙の無邪気な様子は警戒心を緩めた。
「・・・四季咲六花と言います」
「では六花さんとお呼びさせてください!」
「はあ、どうぞ」
手に手を握り締め口元に持っていき、頬を染めうふふふと微笑む様子は、それはそれは可憐だった。
ふらりと体が傾く。沙の出現に、心臓がどくどくと音を立てていたのがとりあえず一旦落ち着くと、今度は安心感からかどっと疲れが押し寄せた。それを見て沙は足元の桶を持って慌てて近づいてくる。周りの空気がひんやりと冷たくなったように感じた。
「六花さん、顔色が優れません。涼しい所に移動しますか?もう一度横になりますか?ああ、ならもっと寝心地のいい場所に・・・」
「いえ、動けそうにないから」
六花の隣に腰を下ろした沙は、桶の中から色とりどりのたくさんのタオルを取り出し、六花の額や首元にあてる。大きさや形はばらばらで一貫性がなく、柄もなにかのキャラクターものから無地まで様々だった。
タオルは水に濡れたように冷たかった。また、可愛らしいプラスチックでできた子供用のコップも出して渡してきた。コップの中にはなみなみと水が注がれていた。
「清浄でミネラルがたっぷり含んだ部分だけを集めた水です。冷えていて美味しいですよ」
「一体どこから・・・」
「雪女ですから。水分を集めたり冷やしたり凍らせたりするのは得意なんです。肌触りのよくて染色が鮮やかな手ぬぐいや、軽くて落としても壊れにくいこの器は人間が山に捨てていたり落としていったものです。数ヶ月しても取りに来なかったので拝借しました。もちろん何度も洗浄したので汚くありませんよ。中でも、この手ぬぐいがお気に入りなんです。生地は柔らかいし、何より描かれている絵柄が可愛らしいんです。くっついた二つの白い丸の片方に顔のような模様が描かれているのが何とも言えなくて」
夏真っ盛り。虫の鳴き声があたりに響いている山の中。
一体誰が、雪女だなんて信じられるだろうか。しかし、山の中を進むには不向きな下駄、山の中を歩いたにしてはどこも汚れた様子のない着物、マフラーを巻いているにもかかわらず汗一つかいていない様子は、確かに異様だ。沙は雪だるまの描かれた水色のタオルをうっとりと見つめている。それでも雪女だなんて信じられそうになかった。
得体の知れない女性から渡された水など飲むべきではないとわかっているが、飲みたいという欲求には勝てず、恐る恐る水を口に含む。とても美味しくてごくりごくりと飲み干した。一杯飲みますかと尋ねられたが、水を汲ませに行くのは忍びないので、断ってコップを返した。
「具合が悪そうだったので勝手に移動させていただきましたが、もしかしてお休み中だったんでしょうか?」
どこの世界に山の中で汗だくになりながら死にかけている状態をお休みと呼ぶのだろう。洒落にしては恐ろしすぎて笑えない。
「雪女は真夏の山の中で日向ぼっこするのが常識なのかしら」
ほんの少し皮肉を交えて言ったのだが、沙は真剣に首を振る。
「私たち雪女は寒い地域でしか暮らせないので、夏の人間界に来ることはほぼありません。溶けても死ぬことはないのですが、元に戻るのに時間がかかりますし、全身が溶けてしまうと身動きが取れなくなりますから」
「じゃあ沙が溶けたら私が助けてあげましょうか」
「私は大丈夫です。特別製なので」
なんだそれはと沙のちぐはぐな説明に呆れたが、ニコリと邪気のない笑を向けられると、言葉を返す気が削がれた。
「走ってたら息切れして倒れちゃったの」
「どこかへ向かっていたのですか?」
お目的地なんてない。家に帰りたくなかった。いや、それも違う気がする。帰りたくなかったというか、逃げ出さずにはいられなかった。本当に、ただの突発的な衝動に突き動かされただけで、後先なんて考えていなかった。
「走れるのも最後かななんて思ったら全力疾走してみたくなっただけよ」
「最後?」
「みんな過保護でね、私が動き回るのをあまりよく思わないの」
何をしようにも心配そうな顔を向けられて、したいことも体が思うように動かずできなくて、したらしたで熱を出して倒れた。
「沙は、こんなところで何をしているの?」
つまらない考えと記憶に気持ちが呑まれてしまいそうで、話題を変えた。早く帰らなければならないことはわかっているし、両親も妹も病院の先生もきっと心配しているだろうけど、現在地も帰り道わからず戻れる体力があるとも思えない。それに、帰るのがなんとなく憂鬱だった。
山の中を歩く格好ではない沙の様子から、彼女の家が近いのかもしれないと思い、申し訳ないが少しの間休ませてもらって病院か親に連絡してもらうというのも考えたが、それにしても今は動く気になれなかった。
「花を育てているんです。園芸が趣味で」
沙ははにかみながら懐から使い古された本をだした。
「園芸?」
「はい、と言っても、まだ水遣りくらいしかできないので園芸に向けて模索中といった感じです。このあたりに生えている赤い花に水遣りをしているんです。彼岸花と言うそうです。このページのここに、ほら、これです!」
沙は六花が見やすいように本を広げて嬉しそうに彼岸花の写真と説明が書いてある場所を見せてくる。本は花の図鑑だった。しかし小さな子供様のもので、簡単な内容しか記されていない。
「あなたが植えたの?」
「いえ、咲いているところを見つけたので、それからお世話してるんです」
「こんな時期にいっぺんにたくさん咲いてるなんて、珍しいこともあるのね」
沙は、こてんと首を傾けてきょとんと視線を向けてきた。
「何かおかしいことでも?」
「彼岸花はお彼岸の時期に咲くものだから、時期が早すぎるわ」
「私の冷気に当てられて、季節を間違えて早く芽吹いたのかもしれません。ああ、でもだから彼岸花という名前なのですね」
沙はチラチラと顔色を伺ってきて、隠し事を話して怒られることに怯える子供のように気まずそうに話しだした。
「もっとたくさん咲いていたんですが、私が水をあげてから枯らしてしまって・・・」
「どれくらいの頻度で水遣りをしてるの?」
「そうですね、葉を見つけてから数時間置きにたくさん上げていたのですけど・・・どんな花が咲くのか楽しみで早く咲かないかとそればかり考えていました」
「彼岸花は乾き気味に育てたほうがいいから、水やりは花の時期以外はそんなにいらないのよ」
「ええ!そうなんですか!?私のせいで花が・・・」
「枯れても球根が生きているなら大丈夫よ。眠っているだけ。また時期が来れば咲くわ」
あからさまにほっとした様子の沙は、唐突に手で土を掘り出した。慌てて腕を掴んでやめさせる。手入れがされているわけでもない土を素手で掘り出そうものなら、怪我だらけになることは目に見えている。
掴んだ腕が思っていた以上に冷たくてびっくりして一瞬離しそうになったが、沙の驚いた顔を目にして話しかけた手にもう一度力を込めて握った。
「やめなさいよ。何しだすの」
「土の中に埋もれていたらかわいそうじゃないですか。助けてあげなくちゃ」
「彼岸花はそういうものなのよ。放っておいても土や時期が合えば勝手に咲くの。それに彼岸花には有毒性があるのだから下手に触ったら手が被れるわよ」
「毒!?」
沙は周囲を見渡し、そこら中に咲いている彼岸花に目をやって顔色を青ざめさせ、六花に掴掴まれている腕を解き逆に両手で六花の腕を掴み返す。
「危険です!毒が、たくさん・・・!」
沙の目にはじんわりと涙が浮かびだす。我慢しようとしているのか、ぐっと眉根を寄せているが、大きな目がうるうると歪み、目ごと落ちてしまいそうに揺れている。
「な、なに泣いてるの」
「だ、って。綺麗に咲いたから、六花さんにも、み、見せたくて・・・。だから、私がここまで連れてきてしまって・・・」
大きな目をこれでもかと開いて、涙が溢れないようにしている。握られた方の腕はそのままにして、もう片方の手で綺麗な白銀の髪を撫でた。
「触らなければ大丈夫よ」
「ほ、ほんとうですか?」
「ええ、むやみに食べたりとかしなかったらね」
良かったと言って、沙はぽとりと一雫涙をこぼす。雪だるまの描かれたタオルをひったくってそっと拭ってやる。水色の生地がじゅわりと濡れて、一部が濃い水色に変色する。
外見は大人っぽくて妖艶で美しい女性が、子供のようにグズグズと泣く姿はひどく庇護欲をかきたてた。また、素直で感情表現豊かな9つ離れた妹を思い起こさせた。
その後涙を引っ込めて落ち着いた様子の沙は、恥ずかしそうに照れて頬を赤く染める。
「六花さんは花に詳しいのですね」
「実家が花屋なのよ。だからちょっと知っているだけ」
知識として知っているだけで、実際に花屋の手伝いをしたこともなければ役立てたこともない。
幼い頃は今より体が弱くて体調をしょっちゅう崩し、少し走り回っただけで高熱を出して何日も寝込んだりしていた。小さい頃の印象が両親の中で強く残っているらしいことと、年々症状は落ち着いて頻繁に寝込むことがなくなっても、無茶をすればすぐ体調が悪くなることが原因で、意外と力仕事である花屋の仕事は手伝わせてもらえなかった。
その代わり、花についての本はたくさん買って貰った。それこそ、沙が持っている本の10倍の厚さと大きさの図鑑や栽培の仕方の本、花言葉が書いてある本まで種類は豊富にあった。
「他に彼岸花について知っておくべきことはありますか?」
熱心な様子に、まだ彼岸花の栽培を諦めていないのが見て取れる。毒の話で参ったかと思ったのに。
毒は水に溶けるので、過去には飢饉に陥った際に食料にされていたことを話したら試してしまいそう勢いを感じる。かといってこれ以上脅かすのも可哀想に思えた。
彼岸花は昔からもぐらや野ねずみを防ぐと信じられていて、土葬の時代は遺体をもぐらに食べられないために彼岸花を墓の周辺に植えていたと言われている。
山の中のこんな場所に彼岸花が咲いているのは、何かの理由で彼岸花の球根が混じった土が運ばれたという可能性もあるけれど、誰かが意図的に植えたと考えるほうが妥当だ。
まあ、遺体になっていたとしても分解されて影も形もあるわけはないが、いい気はしない。なにより花に罪はないし、花を愛でる沙をがっかりさせたくなかった。
気を逸らすいいネタはないかと頭の中の引き出しを開ける。
「彼岸花の花言葉は知ってる?」
「いえ、彼岸花という花の名前も今初めて知りましたから」
「いくつかあって、独立・情熱・あきらめ・悲しい思い出、それから・・・」
沙の冷たい手が頬に添えられる。
季節はずれの自称雪女。夏も盛の時期に咲いたおかしな彼岸花を世話する変わり者。首に巻かれた黄色いマフラーが季節外れ感をさらに助長している。沙がまとった繊細で上質な服装の中で、場違いでちぐはぐさを醸し出している古びた黄色が頭の片隅のなにかに引っかかる。
沙は先ほどでの子供っぽい顔をすっかり消して、淡く微笑んだ。その表情がなんとも妖艶で美しくて儚くて、六花は目を奪われた。沙は六花の額に自分のそれをそっと重ねた。
「ごめんね六花さん。私はあなたに思い出して欲しいよ」
合わせた額も、やはり冷たい。突然意識がぼんやりと形を崩していき、ひどい眠気が襲ってきた。そうして、六花の意識はゆっくりゆっくりと沈んでいった。
彼岸花の花言葉は、独立、情熱、あきらめ、悲しい思い出。
・・・・・・それから、再会。
花言葉や花の性質について、おかしな点があれば教えて欲しいです。物語の進行状況上、問題なければ訂正したいと思います。ただ、あまりにもどうしようもない場合は、ジャンル・ファンタジーということで・・・ひとつ・・・すんまっせん!