夜空 蒼 一日目午後十二時四十五分
授業終了の鐘が鳴り響く。
「……ん、今日はごごまねだな。号令のががり、号令がげろ~」
春真っ只中の教室。相変わらず国語担当のヒデ、本名 鳩羽 秀樹は花粉症対策のマスクと箱ティッシュが手放せず、鼻声が治らない。今日の授業もヒデ得意の『くしゃみ大連発』のおかげで全く進まなかったし何より、いつも以上にヒデが「おばえら、ばどしべろ!」とか大声で数人の生徒に言ったり、その『ばど』や『しべろ』のことを全くもって理解できていなかった男子生徒に力説して『窓』と『閉めろ』のことだと分からせたりして、何とか授業のペースを元に戻そうと奮闘していたのだが、その甲斐空しく、授業はいつもよりも遅いペースで進み、そのまま終了の鐘が鳴ってしまったのだ。
(……不憫だよね……)
蒼はそう感じつつも、口に発することはなく、ただ辛そうにしているヒデの顔を眺め黒縁の眼鏡を上げ直す。
「きりーつ。きをつけー。れー。ちゃくせきー」
長浜の気怠い感じの号令で四限目の授業は終わり、そのまま昼の休憩へと移行した。
あたりががやがやと騒がしくなる中、蒼は一人、机の横に提げている鞄から昼食の包みを取り出して、そのまま教室を後にした。別に友人がいないというわけではない。ただ単純に昼食の時間だけは一人になりたいのだ。友人との会話を楽しいものとして時間を過ごすのではなく、みんなが知らない秘密の場所で、その静寂さを自分一人だけで味わい、昼食の時間を過ごすことが蒼の学校生活においての唯一の楽しみになっていた。
「…………また友達と食べないの?」
ブレザーの左内ポケットから可愛らしい女の子の声が聞こえたような気がするが、今は無視する。その代わり家に帰ったらたっぷり絞ってやらねば。物理的に。
「おっす、蒼」
ふいに後ろから声をかけられた……気がした。女子生徒から声をかけられた……気がした。よく知った、気が置けない中の同級生から声をかけられた……気がした。しかし、振り返ることはしない。歩みも止めない。声の印象からしてなんとなく言われることは予想できたし、何より声の主と会話をすること自体、今は煩わしかった。どうでもいい内容に付き合わされて、いったい今まで何回この至福の時間を浪費してきたことか。
「あれっ? 無視なんですか?」
面倒なことになる前に逃げた方が正解だ。そう思うと、足の動きも次第に速くなる。
「ちょっと相談したいことがあるのに?」
蒼の足が止まる、が振り返ることはない。
「相談って?」
そのまま蒼はそう言う。今までのことを考えればこの行動も已むなしと言えるかもしれない。
「今度は何? 犬? 猫? それともおじいちゃん? おばあちゃん? もしかして財布とか? そういうものを探すんだったら、僕に頼らず自分でやってほしいだけど……」
あくまで冷静に、紳士的に、軽快に、突き放す。これが彼女への対抗手段として最も有効的であることは、結構前から気づいている。その上、この後の反応さえ、大体の予想がついている。大方少々の難癖をつけ、
「そんなに蒼に手伝ってもらってたんだっけ? 一回や二回ぐらいだった気が……」
そして僕が、
「もう数えきれないほどしてきてると思ったけど?
あのさ、僕は便利な何でも屋でもないし、都合のいい相談役でもないんだ。そういうことならまた今度にしてよ」
と言い放つ。すると彼女は素直に引き下が
「お願い! 今度は本当にお願い!」
…………予想外の結果になった。この予想外の結果は、ある意味で事の重大性を表している。彼女、蒼の幼馴染である山崎 橙香は大抵のことを自分一人でやってのける。他者を頼ったりはしない。そんな彼女が他者に助力を願うときは、大きく分けて二つ挙げることができる。
一つ目は、『個人でやると、あまりにも多くの時間を費やしてしまう場合』である。ペットが失踪したり、たまってしまった夏休みの宿題がある、などという理由の時がこれに該当する。そしてもう一つ、『自分の力では明らかに解決できない問題が発生した場合』がある。これは明らかに、
「どうしても蒼が必要なの! だから、お願いします!」
明らかに後者だった。
ここまで言われたら、形だけでも振り返らないわけにはいかない。一応、幼馴染ではあるし、一応、女子でもある。それでもしかし、蒼は完全に振り返ろうとはせず、ちらりと背後に視線を持っていく。
橙香は深く頭を垂れ、もう一人は……もう一人?そこまで来て改めて気づいた。二人だ。背後には橙香以外にももう一人いる。不安そうな面持ちを顔に出す、眼鏡の少女が。
眉間にしわを寄せて、何とか導き出したもう一人の人物の名前。
「…………堀……江、さん?」
出席番号三十番。同じクラスで図書委員を務めている。フルネームは確か、堀江 藍。あからさまな文学少女といった容姿で、周囲の生徒との絡みは明らかに少ない。だからこそ、名前を思い出すのに少々の時間をかけてしまったわけだが。
「藍ちゃんのためなの!」
橙香はそう言って頭を上げると、蒼を無理矢理自分の方へ向かせた。橙香の見せるここまでの見幕は久々だった。だとすれば、あとは
「あとは、堀江さんの気持ち次第かな」
その言葉を聞いた堀江さんは、少し後ずさった……気がした。否、そんなのは思い違いだった。なぜなら彼女は、
「お願いします!!!」
廊下中に響き渡るような、鼓膜が破れるがごとくの声量で言った。そして、頭を深く垂れた。
「お願いです! 兄を、私の兄を探してください!」
橙香もそれに釣られて頭を下げる。
「……」
周囲の視線がものすごく痛い。女子高生二人に、なぜあんなにも頭を下げられているのだ、そんなにイケメンでもないのに、という声がはっきりと聞こえる……気がする。
こうなったら言うべきことは一つだけだった。
「……わかった。いいよ、力を貸すよ。だって僕は探偵だからね」
「さっすが、蒼!! 頼りになります!」
頭を上げるなり、そう言う橙香は蒼の肩をパシパシとはたく。やられている蒼本人は、いつものことだとでも言いたげにため息を吐く。
「とりあえず、堀江さん。今日の放課後、橙香と一緒に君のうちへ行ってもいいかい?」
回答は無論了解され、堀江本人はそのまま無言で自分のクラスへとダッシュで引き返していった。
「藍ちゃん、あんまり人と喋るのが得意じゃなくて……。別に、蒼のことがどうとかってことじゃないと思うから、たぶん」
フォローを入れる橙香だが、最後の一言が余計である。
「じゃ、よろしく」
そう言い残し、橙香は橙香で自分のクラスへ全速力で帰って行った。
「はぁ……」
声に出すほどの大きな溜め息を吐き、蒼の視線はそのまま自分の左腕にまかれている腕時計へ。
「…………時間、少なくなっちゃったね」
懐からの声には一切耳を貸すことはせず、一つのことを思考し、また歩き始めた。
探偵とはつくづく面倒な仕事だ、と。
次話、鋭意製作中。