プロローグ
左手の人差し指に、そっと小刀を当てると、指先にプクッと赤い球体が現れる。
忌々しく自らの血を眺めると、思いを断ち切るかのように、腕を振り抜く。
それは、勢いに耐えきれずに、いくつもの細かな欠片となって飛び散った。
無数となった血液は、床に染みこむことをせずに、小さな固体となって転がる。
勢いを失って動きを止めると、淡い光を放ち始め、視界を白に染め上げた。
一瞬の白い世界が終わると、何事も無かったかのように、ただ静寂が広がる。ここに在る光は、透明な板から差し込む日の光だけ。
光に手を伸ばせば、板に阻まれ拒絶される。
「この世界と同じ……」
頭を振って、気持ちを吐き捨てるように振り返ると、その勢いのまま出口へ向かった。
「さすがですな。建物全体が輝きを取り戻しました」
神殿を出るとすぐに、白を基調とした服を纏った豚。
もとい、神官が横柄な態度で話しかけてきた。
見下しながらの丁寧語? 器用な技を習得しているんだなーと思いつつ。
「ありがとうございます。ただ、私はきっかけに過ぎません。神官様の日頃の弛まぬご尽力のおかげでしょう」
俺も、『偉い人は適当に褒めてやり過ごせ』スキルを発動させる。
「そうだな。しかし、神殿を敬うのは当たり前だと言うのに、献金を渋る者が……」
さらに、スルースキル『曖昧な笑顔で頷いて話しを聞き流す』を重ねがける。
「我々神官が居なければ、この町も立ちゆかなく……」
「神官様。申し訳ありませんが、そろそろ次の神殿へ向かわなければなりませんので。それに、神官様の貴重なお時間をこれ以上私などに使われるのは、この町にとっても大きな損失になってしまわれます」
「ふむ。そうか」
豚は、まんざらでもなさそうな顔で、頬の肉を揺らしながら頷く。
嫌悪感が止めどなく溢れてくるが、根性で押さえ込む。
「では、本日はありがとうございました」
俺は、頭を下げて挨拶をすると、今度こそ神殿を後にした。
「危うく顔が崩れるところだったなー」
引きつりそうになった頬を撫でながら呟いた。
「すいません!! 馬車を預けていたバルトです。引き取りにきました」
「はいよ。銅貨10枚な」
「はっ? それは、いくら何でも」
相場は銅貨3枚のはずだ。あまりのぼったくりに呆れてしまう。
「じゃあ、7枚でいい」
「いいって……、それでも高いよ!!」
馬小屋のおっちゃんは困った顔になったが、俺も困る。
「そうなんだが、どうしようもなくてな」
おっちゃんによると、国に納める税金の他に、この町の神殿にもお金を納めないといけないらしい。
そうしないと、異教徒扱いされるとか……。
何やってんだ!! あの豚!!
しかたないので、渋々お金を払う。
「すまんな」
おっちゃんは、本当に申し訳なさそうな顔をしてるから、怒るに怒れないし。
神殿のある町に行ったら、事前に金額を聞かないとダメか。
「それにしても、金が無い」
神殿での役割を果たすことで、幾ばくかは貰えるものの。
ここの豚は、はした金しかよこさなかった。
「本来なら、この町で少し稼いでからがいいんだが……」
嫌だな。
あの豚の影響力が大きいこの町には、居たくない。
「取りあえず、保存食があるから、もう少しは大丈夫かな。次のタグ村で働けばいいし」
ただ、小さな村だから仕事があるかが多分に不安だが。
「まあ、どうにかなるだろ」
空を見上げると、今日も変わらずに、淡い膜が世界を覆っていた。