序章
雨の音で目が覚めた。時計は6時を指している。目覚まし時計をセットした時間より30分早い。いつもだったらまだ布団のなかでまだ寝ている。しかし今日は大切な予定があった。起きると、直ぐに身支度を始めた。
二日前、大学から帰宅後にポストの中身を確認すると、宅配ピザのチラシとともに一通の葉書きが入っていた。
不思議な手紙だった。表には私の名前が、そして裏には日付と地図が書いてあった。差出人の名前は無い。もしその時、レポートなり買い物なり友達から着信があったり、とにかくどんな些細なことでも用事があったなら、私は間違いなくその不気味な葉書を捨てていた。しかし、そのときの私にはすべき事が何も無かった。退屈だったのだ。そんな私がその葉書に興味を持ったのは、至極当然のことだった。
裏面の地図の下には、二日後、つまり今日の日付と『必ずこの手紙をお持ちください』と一文書いてあった。その日から大学の夏休みである。今期は追試を受ける心配はない。バイトも先週辞めた、というよりクビになったばかりだしサークルにも入っていなければ彼氏もいない。実家に帰るのも一つであるが、地元に帰るのは気が進まなかった。
とにかくやることが無くて退屈だった私は、指定日時に指定の場所に行くことにした。不安が無いわけではないが、指定場所が駅であったたことが多少なりとも私に安心を与えていた。
そして今日を迎えたわけである。今日のことを友達に話したかったが、きっと行く事を止められるので誰にも話していない。その事を今になって少し後悔した。
指定の駅までは一時間近くかかる。あまり人が乗らない駅であるため、座る事ができた。少し緊張している。それを紛らわすために、これから行く駅に何があるかを想像し始めた。宗教の勧誘か何か売りつけられるのか、それともただのいたずらだろうか。もし映画のエキストラの募集か何かだったら、芸能人に会えるかもしれない。大きな不安とわずかな期待から、鼓動がだんだん大きくなっていく。いずれにしても次の飲み会で話のネタにはなりそうだ。そう思うと、少し笑えてきた。
それにしてもこんな朝早く、しかも雨の中で、何があるかも判らない場所へ行く自分が、少し間抜けに思えた。子供の頃から好奇心旺盛だと言われていたが、未だに変わっていないようだ。その良し悪しは判らないが、今回ばかりは良しであることを願った。
駅に着くと、改札を出て地図に書かれている集合場所へと向かった。葉書に書かれている時間より20分ほど早い。私のほかにその場所には誰もいなかった。とりあえず、時間を潰すために近くのコーヒーショップへ行き、ブラックコーヒーを頼む事にした。
コーヒーが来ると、私は窓側の席へと座った。その場所から集合場所が見えるからだ。飲みなれないブラックコーヒーを口に含みながら、時計と集合場所を交互に見ることにした。
10分が経ち、15分が経った。それでも誰もそれらしい人はいなかった。『誰かのいたずらだった』そう結論をだそうと思ったが、わざわざ一時間以上かけて来た手前、何も無いままで帰るのは癪だった。仕方なく、空になったカップを捨て集合場所に向かった。
集合場所に着いても、やはり私のほかに『何か』を待っている人はいなかった。それでも諦めきれずに、辺りをキョロキョロと見回しては時計が、予定時間を表示するのを待った。
「すみません」
ちょうど、時計が予定時間である9時を示した時だった。後ろから男の声が聞こえた。振り返るとタキシードを着た、いわゆる執事の格好をした男が立っていた。細身の体と白髪、そして白い髭がいかにもな雰囲気をかもし出していた。
「長井美香様でしょうか?」
「はい」
「お待ちしておりました」
警戒心丸出しの私を他所に、男は深々と頭を下げた。少ないとはいえここは人通りのある場所である。そんな中で見ず知らずの執事に頭を下げられ、一刻も早くここから逃げ出したくなった。
「失礼ですが、お手紙を確認させていて頂いてもよろしいでしょうか?」
「は・・・はい。どうぞ」
そういってバッグから手紙を出そうとしたが、一緒に入れていたお財布を落としてしまった。私とは対照的に、落ち着いて財布を拾うと私に返し、私からは手紙を受け取った。
「確かに。本当にようこそいらっしゃってくれました。主人に代わりお礼申し上げます」
そう言ってまた、男は深々と頭を下げた。
「いえ、そんな、あの・・・」
私も、ペコペコと何度も頭を下げた。頭の中が真っ白だった。
「まずは私の自己紹介をさせていただきます。私は黒川と申します。とある方の執事をしており、本日はその方の申しつけで長井様をお迎えに上がりました」
私の動揺を他所に、黒川と名乗る執事は、淡々と話を始めた。
「さて、本日お越し頂いたのは、長井様にあることをして頂きたかったためです。詳しくは私の口から申し上げられませんが、あるゲームのモニターになって頂きたいと主人は申しておりました。詳しい説明は、場所を変えてお話します。よろしいでしょうか?もちろん、断りたいとお思いになられるのであれば、このままご帰宅して頂いて構いません。本日分の往復の交通費は支給させていただきます。どうなさいますか?」
黒川のゆっくり丁寧な言葉は、思考回路の停止した私の脳が再起動し、状況分析を始めるのに十分な時間をくれた。もし宗教の勧誘や怪しいセールスだったらどんなに楽だったろうと思った。
「あの、ちょっと質問なんですが、私だけなんですか?」
再起動した私の脳は、最終判断を下す前に当然の疑問を黒川にぶつけた。と同時に、自分が少し落ち着いてきた事を認識した。
「この場所には、長井様だけです。しかし、他の場所でも同様に人を集めております。もし、長井様のように手紙を出した方全員が参加頂けるのであれば、この地区では50人程になります」
「詳しい説明を聞いてから、不参加も出来るんですか?」
「もちろんでございます。当方としては是非参加して頂きたいのですが、それは長井様のご意思になります。ただ、先ほど申しませんでしたが、詳しい説明というのは、ここから車で30分程行ったところで、今回ご参加頂ける方全員ご一緒に行いたいと考えております」
「じゃあ、話だけでも」
「ありがとうございます。早速車にお乗り頂きたい所ですが、その前にアイマスクをして頂けないでしょうか。今回の件は色々と秘密にしないとならないことも多く、場所もそのひとつなのです」
黒川の案内した車の中には女性が一人、座っていた。
「研究員の中川です。どうぞお乗りください」
普通なら初対面の、しかも研究員と名乗る人間に対しては、どんな能天気な人間も少なからず警戒心を抱くだろう。しかし、中川の容姿それをさせなかった。まるで人の良さそうなおばちゃんだった。
後部座席に乗り込むと、中川も隣に座ってきた。
「ごめんなさいね。しっかりアイマスクを着用させるのが私の仕事なの。まさか、縄で縛って動けなくするわけにもいかないからね」
見た目の印象通りフランクな人だった。私がアイマスクをすると、エンジンが動き出した。その音を聞いて、私は深く息を吸った。
「何か質問ある?答えられる範囲でなら答えるわよ。まぁ、また後で詳しい説明はあるんだけどね」
車が動き出すと、すぐに中川が口を開いた。
「それじゃあ質問します。これから何があるんですか?」
「当然の質問よね。そうね。簡単に言えばゲームのモニターをやってもらうの。私たちが開発した全く新しいゲームのね。何日かやってもらうことになるかもしれないけど、もちろんお給料はでるわよ。あなた、ゲームは好き?」
「実はあんまりやったこと無いんです。目がすぐに疲れちゃって」
「そう。でも大丈夫。そういう人でもすぐに、しかも簡単に出来るゲームだから」
「そうなんですか」
「自信作よ。内容はここでは詳しく言えないけどね」
「何でですか?」
「やっぱり産業スパイを気にしないといけないのよ。場所を秘密にしているのもそう。盗聴器の可能性も考えないといけないわ。だから、重要なことは気軽にいえないの」
「大変なんですね。そういえば大学の講義で、研究結果を気軽に人に話しちゃ駄目だっていってました」
「あら、あなた大学生?」
「はい。夏休みで退屈だったので参加してみたんです」
「そう、何を専攻しているの?」
「まだ一年生なので特に専攻は決まってないです。ただ、化学に興味があるのでそっちに行きたいなとは考えています」
「これからどんどん楽しくなるわね」
「はい。そういえば中川さんはどんな研究をされているんですか?やっぱりプログラミング関係ですか?」
「いいえ。脳に関する研究を行っているわ」
「脳ですか?それなのになんでゲームを?」
「ゲームと脳の関係を調べている人は多いわよ。ゲームをしているときに、脳の何処の部分が活発に動くかとか、どの様に情報伝達されているか、そういったことを調べたりしているの。まぁ、私の場合ちょっと変わっているけど。すぐに判るわ」
それから30分ほど、私は中川と話を続けた。質問できたのは最初だけで、後は中川のほうから私の趣味や、なぜ今回参加しようと思ったのかなど質問が続いた。
「研究所に着いたわ。でも、施設内に入るまでアイマスクはもうちょっと我慢してね。」
中川はそう言って私を車から降ろすと、私の手を引いて歩き始めた。後方で車のエンジンがかかる音がした。